表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

37/42

36.届かなかった指先

降り続く雨は重いカーテンのように視界を遮り、叩きつける水音のせいで、数メートル先にいる翡翠の声すら聞き取りづらくなっていた。


「(……嘘だろ。これ、本当に道だったのか……?)」


俺、月島つきしま さくの目の前に広がるのは、もはや地図上の『道』などではなかった。昨日、確かに俺たちが通り抜けたはずの林道は、山肌ごと巨大な獣に食いちぎられたかのように消失している。そこにあるのは、濁流が咆哮を上げ、茶褐色の泥がすべてを飲み込もうと渦巻く、底の見えない奈落だった。


「……地形分析、終了。……帰還ルート、完全に消失。……残存する地盤の支持力、極めて不安定。……朔、ここは現在、陸の孤島ではなく、絶海の孤島に等しい。……定石通りなら、我々は詰んでいる」


翡翠ひすいが、ずぶ濡れになった前髪を払うこともせず、淡々と、しかしその声には隠しきれない戦慄が混じっていた。彼女はいつものように周囲を警戒しているが、その白銀色の瞳は、防衛対象である俺を『日常』に戻せないという、騎士としての致命的な失敗を突きつけられて揺れていた。


「朔ちゃん、だめ、危ないよ……! これ以上はやめよう、ね!」


雫乃しずくのが、悲鳴に近い声を上げて俺の右腕にしがみついてくる。泥にまみれ、雨に打たれながらも、彼女の瞳にはこの世の終わりを目の当たりにし、不気味に澄んだ光が宿っていた。


「ねえ、戻ろう? 戻って、あの別荘で……二人でずっと、雨の音を聞いていよう? もう、誰もあたしたちを邪魔できないんだよ……?ほら、もう帰ろ?」


雫乃の指先が、俺の肉に食い込む。その時だった。


――ズ、ズズッ。

足元の世界が、唐突に横滑りを始めた。

「逃げろ」と脳が命令するよりも早く、長雨で飽和状態に達していた斜面が、俺たちの体重を最後の一押しとして崩落を開始したのだ。


「し、雫乃……ッ!?」


「――あ」


悲鳴さえ上げられず、重力に引かれるまま斜面を滑り落ちていく雫乃。

その光景を見た瞬間、俺の意識から『モブとしての保身』なんて下らない概念は完全に消し飛んだ。


「くそっ……!」


言葉になる前の叫びを上げ、俺は躊躇なく、崩れゆく泥の斜面へと身を投げ出した。

空中で雫乃の細い腰をガッチリと抱きしめる。そのまま俺の体は、斜面から斜めに突き出していた、腐りかけの巨大な倒木に激突して止まった。


「……っ、がはっ……! はぁ、はぁ……!」


肺の中の空気が強制的に押し出される。

俺は片腕で雫乃を抱きしめ、もう片方の手で、ミシミシと悲鳴を上げる倒木の根元にしがみついた。下を見れば、怒り狂った濁流が、俺たちを飲み込もうと牙を剥いている。


「……朔ちゃん? なんで、なんで……あたしなんかのために……!」


腕の中、俺の泥だらけの顔を見上げた雫乃の瞳が、恐怖とは別の、切実な痛みで歪んだ。


「ダメだよ、離して! このままだと二人とも落ちちゃう! あたしはいい、あたしはどうなってもいいから……朔ちゃんだけは助かって!!」


雫乃が、俺の腕を振りほどこうと暴れる。その拍子に、俺たちがしがみついている倒木から、不吉な亀裂の音が響いた。


「バカ、言うな……! 動くな、お前を……っ、こんなところで……離せるわけないだろ……!」


俺は腕の感覚がなくなるほどの力で彼女を抱き寄せ、折れそうな枝に指を食い込ませた。

普段の彼女なら、「一緒に死ねるなら本望」と言いかねない。だが、いざ本気で俺の命が危ういとなれば、彼女の愛は、自己犠牲という最も厄介な形に姿を変える。


「……朔!! 今、引き上げる。……騎士の定石。……私は、朔を救う、絶対。……だから、手を、離さないで」


斜面の縁から、翡翠が身を乗り出した。

彼女は自分の腰にタクティカル・ロープを巻き、倒木へと手を伸ばす。

翡翠の指先と、俺の震える手。その距離、わずか三十センチ。


「……距離測定、誤差増大。……地盤の支持力、限界値を突破。……私の体重が加われば、崩落は加速する。……しかし、拒絶する。……朔を救えない騎士など、存在する価値はない。……私の、全存在を懸けて……今、繋ぎ止める……!」


翡翠が、自らの滑落を顧みず、さらに深く身を乗り出した。

指先が触れる。そのわずかな感触に、俺は生への希望を見出した――その時。


バキィィィッ……!!

俺たちの命を繋いでいた倒木が、根元から無残に折れた。


「――え」


翡翠の白銀色の瞳が、絶望に染まるのを、俺はスローモーションのように見ていた。

俺の腕の中、雫乃は最後には、覚悟を決めたように俺の首に腕を回し、泣き笑いのような顔で囁いた。


「……ごめんね、朔ちゃん。……ずっと大好きだよ……」


「……っ、朔ッ!!!」


翡翠の慟哭が、激しい雷鳴にかき消され。

俺と雫乃の体は、重力に引かれるまま、茶褐色の奈落の底へと飲み込まれていった。





――。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ