36.届かなかった指先
降り続く雨は重いカーテンのように視界を遮り、叩きつける水音のせいで、数メートル先にいる翡翠の声すら聞き取りづらくなっていた。
「(……嘘だろ。これ、本当に道だったのか……?)」
俺、月島 朔の目の前に広がるのは、もはや地図上の『道』などではなかった。昨日、確かに俺たちが通り抜けたはずの林道は、山肌ごと巨大な獣に食いちぎられたかのように消失している。そこにあるのは、濁流が咆哮を上げ、茶褐色の泥がすべてを飲み込もうと渦巻く、底の見えない奈落だった。
「……地形分析、終了。……帰還ルート、完全に消失。……残存する地盤の支持力、極めて不安定。……朔、ここは現在、陸の孤島ではなく、絶海の孤島に等しい。……定石通りなら、我々は詰んでいる」
翡翠が、ずぶ濡れになった前髪を払うこともせず、淡々と、しかしその声には隠しきれない戦慄が混じっていた。彼女はいつものように周囲を警戒しているが、その白銀色の瞳は、防衛対象である俺を『日常』に戻せないという、騎士としての致命的な失敗を突きつけられて揺れていた。
「朔ちゃん、だめ、危ないよ……! これ以上はやめよう、ね!」
雫乃が、悲鳴に近い声を上げて俺の右腕にしがみついてくる。泥にまみれ、雨に打たれながらも、彼女の瞳にはこの世の終わりを目の当たりにし、不気味に澄んだ光が宿っていた。
「ねえ、戻ろう? 戻って、あの別荘で……二人でずっと、雨の音を聞いていよう? もう、誰もあたしたちを邪魔できないんだよ……?ほら、もう帰ろ?」
雫乃の指先が、俺の肉に食い込む。その時だった。
――ズ、ズズッ。
足元の世界が、唐突に横滑りを始めた。
「逃げろ」と脳が命令するよりも早く、長雨で飽和状態に達していた斜面が、俺たちの体重を最後の一押しとして崩落を開始したのだ。
「し、雫乃……ッ!?」
「――あ」
悲鳴さえ上げられず、重力に引かれるまま斜面を滑り落ちていく雫乃。
その光景を見た瞬間、俺の意識から『モブとしての保身』なんて下らない概念は完全に消し飛んだ。
「くそっ……!」
言葉になる前の叫びを上げ、俺は躊躇なく、崩れゆく泥の斜面へと身を投げ出した。
空中で雫乃の細い腰をガッチリと抱きしめる。そのまま俺の体は、斜面から斜めに突き出していた、腐りかけの巨大な倒木に激突して止まった。
「……っ、がはっ……! はぁ、はぁ……!」
肺の中の空気が強制的に押し出される。
俺は片腕で雫乃を抱きしめ、もう片方の手で、ミシミシと悲鳴を上げる倒木の根元にしがみついた。下を見れば、怒り狂った濁流が、俺たちを飲み込もうと牙を剥いている。
「……朔ちゃん? なんで、なんで……あたしなんかのために……!」
腕の中、俺の泥だらけの顔を見上げた雫乃の瞳が、恐怖とは別の、切実な痛みで歪んだ。
「ダメだよ、離して! このままだと二人とも落ちちゃう! あたしはいい、あたしはどうなってもいいから……朔ちゃんだけは助かって!!」
雫乃が、俺の腕を振りほどこうと暴れる。その拍子に、俺たちがしがみついている倒木から、不吉な亀裂の音が響いた。
「バカ、言うな……! 動くな、お前を……っ、こんなところで……離せるわけないだろ……!」
俺は腕の感覚がなくなるほどの力で彼女を抱き寄せ、折れそうな枝に指を食い込ませた。
普段の彼女なら、「一緒に死ねるなら本望」と言いかねない。だが、いざ本気で俺の命が危ういとなれば、彼女の愛は、自己犠牲という最も厄介な形に姿を変える。
「……朔!! 今、引き上げる。……騎士の定石。……私は、朔を救う、絶対。……だから、手を、離さないで」
斜面の縁から、翡翠が身を乗り出した。
彼女は自分の腰にタクティカル・ロープを巻き、倒木へと手を伸ばす。
翡翠の指先と、俺の震える手。その距離、わずか三十センチ。
「……距離測定、誤差増大。……地盤の支持力、限界値を突破。……私の体重が加われば、崩落は加速する。……しかし、拒絶する。……朔を救えない騎士など、存在する価値はない。……私の、全存在を懸けて……今、繋ぎ止める……!」
翡翠が、自らの滑落を顧みず、さらに深く身を乗り出した。
指先が触れる。そのわずかな感触に、俺は生への希望を見出した――その時。
バキィィィッ……!!
俺たちの命を繋いでいた倒木が、根元から無残に折れた。
「――え」
翡翠の白銀色の瞳が、絶望に染まるのを、俺はスローモーションのように見ていた。
俺の腕の中、雫乃は最後には、覚悟を決めたように俺の首に腕を回し、泣き笑いのような顔で囁いた。
「……ごめんね、朔ちゃん。……ずっと大好きだよ……」
「……っ、朔ッ!!!」
翡翠の慟哭が、激しい雷鳴にかき消され。
俺と雫乃の体は、重力に引かれるまま、茶褐色の奈落の底へと飲み込まれていった。
――。




