35.歪む安息の地
別荘を包囲する雨音は、もはや滝の下にいるかのような絶え間ない重低音となり、俺たちの思考をじわじわと削り取っていた。停電した室内は、窓から差し込む鈍色の光と、テーブルに置かれた数本のランタンが作る不気味な影に支配されている。
「(……いつまで続くんだ、これ)」
俺、月島 朔は、湿り気を帯びたソファの感触に耐えながら、自分のスマホを確認した。画面の端には、無情な『圏外』の二文字が居座っている。
昨夜、無理やり場を繋いでいた「家事」という名の防衛策は、もはや尽きた。掃除する場所もなく、これ以上ヒロインたちを満足させる食材もない。残されたのは、狭い空間に閉じ込められた六人の男女と、煮詰まった執着だけだ。
「……ねえ、朔ちゃん。もう、帰れなくてもいいかな。ずっと、このままなんだよ……」
隣に座る雫乃が、俺の腕を強く握りしめていた。その指先は冷たく、しかし食い込むような力強さがある。彼女の瞳には、日常への未練よりも、この閉鎖空間で俺と二人きりになれることへの、歪んだ安息が宿り始めていた。
「……主君。……外界との接触断絶から14時間が経過。……状況は悪化の一途。……別荘の構造強度にも、地盤沈下による懸念が生じている」
翡翠が、いつになく焦燥を滲ませた声で、淡々と最悪のシミュレーションを告げる。
若桜 葵依は、かつてない無力感に襲われているのか、ソファに深く沈み込み、自身の財力が一切通用しない「自然の暴力」を憎むように窓の外を睨んでいた。志乃さんもまた、重紫色の瞳を不安に揺らし、何度も空のビール缶を弄んでいる。
そんな中、小日向 巳波だけが、暗闇の隅で一人、膝を抱えて座っていた。
彼女はスマホの画面を極限まで暗くし、膝の間に隠すようにして、絶え間なく指先を動かしている。
「(……あはは。先輩たち、本当にいい顔。……絶望って、こんなに人を綺麗にするんですねぇ……)」
彼女だけは知っている。麓の状況も、救助が絶望的なことも。そして、この「密室」が自分にとってどれほど都合の良い舞台に仕上がりつつあるかも。
「……外を見てくる」
俺は、耐えきれなくなって立ち上がった。
「土砂がどこまで来ているのか、道がどれくらい埋まっているのか。……このままここで座って死ぬのを待つなんて、俺にはできない」
「待ちなさい! 危険すぎるわ!」
葵依が、女王としての命令というよりは、大切な所有物を失うことを恐れるような鋭い声で制止した。
「そうよ、朔君。今はじっとしているのが一番よ……。せめて、雨が弱まるまで待ちなさい」
志乃さんも続くが、俺は首を振った。
「状況がわからないのが一番怖いんだ。もし別荘の裏側が崩れ始めていたら、ここにいること自体が危ない。せめて、避難ルートがあるかだけでも確認させてくれ」
俺の決意が固いと見るや、翡翠が即座に立ち上がり、壁に立てかけていた装備を手に取った。
「……ならば、私が同行する。主君を単独で危険に晒すことは、私の存在意義に反する」
「あたしも行く! 朔ちゃんが行くなら、あたしも絶対に行く!! 離さないもん!!」
雫乃が俺の腕にすがりつく。その必死な形相――自分だけが置いていかれることを極端に恐れるその目に、結局俺は折れるしかなかった。
「……わかった。俺と翡翠、それに雫乃で外の様子を見てくる」
俺はリビングに残る面々を見回した。
「葵依と志乃さんは、ここで待機しててくれ。……小日向、お前もだぞ。……もし何かあったら、任せたぞ」
「……わかりましたぁ。あたしはここで、先輩たちの帰りを『じーっと』待ってますねぇ……ふふっ」
巳波はスマホから目を離さず、暗闇の中でくすくすと笑った。
俺、雫乃、翡翠。
三人が雨合羽に身を包み、ランタンを手に玄関のドアに手をかける。
扉を開けた瞬間、すべてを押し流そうとする水の咆哮と、土の匂いが混じった暴風が俺たちの体を叩いた。
泥濘と化した山道を、一歩一歩踏みしめるようにして進む。
ランタンの光が照らし出す先は、無残な光景だった。
「……ひどいな、これ」
少し進んだ先で、俺たちは絶句した。
別荘へ続く唯一の道は、巨大な岩と倒木、そして大量の土砂によって完全に断たれていた。崖下からは濁流の音が響き、道そのものが消失している。
「朔ちゃん、見て……」
雫乃が指差した先。
俺たちが昨日通ってきたはずの道が、跡形もなく消えていた。
「(……本当に、帰れないかもしれない)」
翡翠は無言で状況を分析していたが、その肩が微かに震えていた。
任務の遂行不能――それは彼女にとって、生存理由の崩壊と同義だ。
「……ねえ、朔ちゃん」
豪雨の中、雫乃が合羽越しに俺の背中に抱きついてきた。
剥き出しの体温と、狂おしいほどの依存。
「……帰れなくていいよ。……このまま、誰もあたしたちを見つけなければいい。……そうすれば、朔ちゃんは、永遠にあたしだけの幼なじみでいてくれるでしょ……?」
雫乃の瞳が、雨に濡れて真紅に輝く。
隣では翡翠が、俺を護衛するという名目で、俺の腕を折らんばかりの力で引き寄せた。
「……外界の消滅を確認。……ならば、ここを新たな『聖域』とする。……主君、死ぬまで、私が貴方を離さない」
土砂崩れという物理的な封鎖。
そして、帰還の希望を断たれたことによる、理性の決壊。
『外界から切り離された終末の箱庭! 戻るべき日常を失った少女たちの執着が、唯一の拠り所である彼を永遠に閉じ込めようとする【終焉のユートピア・五等分の永劫追放確定フラグ】!!!』
「(……俺が何とかしないと)」
俺たちは、絶望の雨が降り注ぐ暗闇の中へと、さらに深く足を踏み入れた。




