29.エントランスの攻防戦と、大人の本気のカーチェイス
俺、月島 朔の平穏な逃避行は、一枚のインターホンのモニター越しに、無情にも打ち砕かれようとしていた。
ガンッ!!
ガガンッ!!!!
スピーカーから響く、金属が強化ガラスを打ち据える恐ろしい音。
『あははっ! さすが最近建ったマンションですねぇ、ガラスが分厚くてなかなか割れませんよぉ! でも、あと十回も叩けば粉々になりそうですけどねぇ……!』
モニターの向こう側――マンションのオートロック付きエントランスで、一年の腹黒後輩・小日向 巳波が、巨大なバールをフルスイングしていた。
その顔には、狂気と歓喜の入り混じった「極上の天使スマイル」が張り付いている。
「(ヤバいヤバいヤバい!! あの女、ラブコメの範疇を完全に超えて器物損壊の現行犯になってる! このままじゃ警察沙汰だ!)」
俺はパニックになり、隣に立つ御影 志乃さんを見た。
「み、御影さん! すぐに警察を呼んでください! あいつは完全に理性が飛んでます!」
だが、志乃さんはスマホを取り出そうとはしなかった。
彼女はモニターに映る女子高生の異常な行動を、信じられないほど冷ややかな、そして据わった目で見つめていた。
「……警察を呼べば、君がウチにいることも説明しなきゃいけなくなるわ。……それは、面倒よ」
「えっ……?」
「せっかく、君と二人で静かな夜を過ごそうと思ってたのに。……どこの馬の骨ともしれない小娘に、私のテリトリーを荒らされるなんて。……大人を舐めるな、って話よ」
志乃さんの声が、普段の気怠げなものから、ドス黒い怒りを孕んだ絶対零度のトーンへと変化していた。
その瞳には「可愛いペット(朔)の平穏な生活を脅かす外敵への、絶対的な殺意」が宿っている。
「(……ひぃっ! 御影さんまでヤバいスイッチが入っちゃった!?)」
俺が志乃さんの変貌に戦慄した、まさにその瞬間だった。
『――そこまでよ、泥棒猫』
モニターのスピーカーから、巳波の声ではない、凛とした、そして聞き覚えのある威厳に満ちた声が響き渡った。
『……チッ』
画面の中の巳波が、舌打ちをしてバールを下ろし、エントランスの外を振り返る。
モニターの画角の端に、猛烈なスピードで黒塗りの高級リムジンが滑り込んでくるのが見えた。
後部座席のドアが開き、レッドカーペットが敷かれる暇もなく、絶対女王・若桜 葵依が優雅に、しかし圧倒的な怒りのオーラを纏って降り立った。
『私の情報網とドローン部隊を掻き潜るなんて、少しは褒めてあげるわ、小日向さん。……でも、朔の居場所を特定して単独で抜け駆けしようだなんて、万死に値するわよ』
『あははっ。若桜先輩、遅いですよぉ。あたしはもう、先輩を迎えに行くところだったのにぃ』
さらに、リムジンの後ろから、一台のタクシーが急ブレーキをかけて停車した。
中から飛び出してきたのは、両手に愛用の出刃包丁を握りしめた幼なじみ・桃瀬 雫乃だ。
『朔ちゃあああん!! そこにいるのね!? 今あたしが、その泥棒猫たちをミンチにして、朔ちゃんを助け出してあげるからね!!』
『……安全確保のため、周囲の制圧を開始する』
空から、パラシュートを展開した銀髪の騎士・三栗屋 翡翠が音もなく降下し、タクティカル・シールドを構えて着地した。
「(全員集合しちゃったあああああ!! 俺の隠れ家の前に、四人のヤンデレ・アベンジャーズが集結してしまった!!)」
マンションのエントランス前は、バール、包丁、シールド、そして黒服のSPたちが入り乱れる、完全なる特異点と化していた。
近所迷惑どころの騒ぎではない。
「……次から次へと、なんなのよ、まったく」
モニターを見ていた志乃さんが、呆れを通り越して戦慄の声を漏らす。
「す、すみません御影さん! 俺がここにいると、このマンションごと破壊されかねません! 俺は外に出ます!」
俺が責任を感じて玄関へ向かおうとした時。
志乃さんが俺の腕を、信じられないほどの力でガシッと掴んだ。
「ダメよ。……あんな野蛮な子たちのところに、君を帰すわけにいかない」
その時。
モニターの中の葵依が、監視カメラのレンズ――つまり、部屋にいる志乃さんと俺の目を、真っ直ぐに見据えて言い放った。
『……御影志乃さん。そこにいるのでしょう?』
「(……っ! 葵依のやつ、すでに御影さんの身元まで特定してる!?)」
『あなたがどこの誰かは知らないけれど、私の朔を匿った罪は重いわ。……先ほど、若桜財閥の力で、このマンション一棟を丸ごと買い取らせてもらったわ。たった今、私がこの建物のオーナーよ』
「……は?」
志乃さんの口から、素の驚きの声が漏れる。
『家主の権限で、あなたにはたった今、立ち退きを命じるわ。SP、マスターキーを使ってオートロックを解除。各個突入し、朔を奪還しなさい! 御影志乃は不法侵入者としてつまみ出しなさい!』
『あははっ、若桜先輩がお金で解決してくれるなら、あたしは裏口から先輩の部屋に直行させてもらいますねぇ!』
『あたしはベランダからよじ登る!!』
『……窓からの突入経路を確保する』
ヒロインたちが、一斉に俺のいる部屋へと向かって動き出した。
モニター越しに見るその光景は、もはやゾンビ映画のクライマックスである。
「……マンションを、丸ごと買い取った……?」
志乃さんは、そのあまりに現実離れした女子高生の「財力の暴力」に、一瞬だけ呆然とした。
だが。
「大人の常識」を金で粉砕された志乃さんの心に、ついに修復不可能なヒビが入り、同時に「絶対的な執着」が完全に覚醒した。
ピコーン!!
ピコピコ!!!
ピコピコーン!!!!!
俺の網膜を焼き切るような、けたたましい電子音が鳴り響く。
志乃さんの頭上に、これまで見たこともないほど巨大で、重く、そして蜘蛛の巣のようにドロドロとした【重紫色のフラグ】が、部屋の天井を突き破る勢いで立ち上がった。
『モブの圧倒的な家事力に完全に依存した大人の女! 金と暴力で彼を奪おうとする外敵の存在が、彼女の「社会的地位」すら投げ打つ狂気の庇護欲を呼び覚ます【合法パトロンの駆け落ち・一生飼い殺し確定フラグ】!!!』
「(アカンアカンアカン!!! 一番ヤバい大人のルビコン川を渡ってしまった!!)」
志乃さんは、ゆっくりと俺の方を振り返った。
その表情からは、気怠げなOLの面影は完全に消え去り。
獲物を絶対に離さない、魔性の女の笑みが張り付いていた。
「……朔君」
志乃さんの両手が、俺の頬を優しく包み込む。
「お金でなんでも解決できると思ってる、可哀想な子供たちね。……朔君は、あんな狂った世界に戻りたくないよね?」
「み、御影さん……俺は……」
「大丈夫よ。……大人の、本当の『逃避行』を教えてあげる。……上着を持って。行くわよ」
志乃さんは、ソファにあった車のキーを掴むと、俺の手を強く引き、玄関のドアを開けた。
正面の廊下からは、まだ誰も来ていない。
「非常階段から、地下駐車場に降りるわ。急いで!」
俺たちは、手を繋いだまま、暗い非常階段を駆け下りた。
上の階からは、エレベーターの到着音や、「朔ちゃあん!」「……突入する」といったヒロインたちの足音が響いてくる。間一髪だった。
地下駐車場に飛び込み、志乃さんの黒いSUVに乗り込む。
エンジンが咆哮を上げ、ヘッドライトが暗い駐車場を照らし出した。
「しっかり捕まっててね、朔君。……もう一生、君を離してあげないから」
志乃さんがアクセルをベタ踏みする。
SUVは、駐車場のスロープを猛スピードで駆け上がり、マンションの裏口から夜の街へと飛び出した。
「(……俺は、なんということをしてしまったんだ。……四人のヒロインから逃れるために、五人目の、最も逃げ場のない『大人の檻』に自ら入ってしまった……!)」
ルームミラーには、マンションの周囲を囲む黒服のSPたちと、こちらに気づいて絶叫するヒロインたちの姿が小さく映っていた。
『朔ちゃあああああああん!! 待ってえええええええ!!!』
『SP、あの車を追いなさい! 絶対に逃がすんじゃないわよ!!』
怒号が夜風に溶けていく。
だが、志乃さんのSUVは、迷うことなく高速道路の入り口へと向かっていた。
「……御影さん。俺たち、どこへ……?」
助手席で俺が震える声で尋ねると、志乃さんはハンドルを握りながら、艶やかな唇を舐め、妖しく微笑んだ。
「……誰も、私たちの邪魔ができないところ。……私の実家が持ってる、山奥の別荘よ。……そこで、連休が終わっても、ずっと二人きりで……ふふっ、楽しみね、朔君」
「(……終わった。連休明けに学校に行くという、俺の当たり前のモブの日常が、完全に終わった……!!!)」
連休三日目の深夜。
月島朔の戦場は、市街地での鬼ごっこから、大人の女性との「逃避行(という名の永続的な軟禁)」へと、後戻りのできない最終フェーズへと突入してしまった。
狂乱のヒロインたちの追撃を背に受けながら、SUVは深夜の高速道路を、絶望の彼方へと向かって爆走していくのであった。
その後…朔の姿を見た者はいなかった…




