28.甘やかな軟禁生活と、迫り来るオレンジ色の影
御影 志乃のマンションの一室は、食欲をそそるデミグラスソースの香りと、肉の焼ける香ばしい匂いに包まれていた。
「(……完璧だ。モブの俺が誇る、家庭内ディナーの最高峰……!)」
俺、月島 朔は、キッチンでエプロンを締め直し、フライパンの中でジュージューと音を立てるふっくらとしたハンバーグに、特製のソースを絡めていた。
ハンバーグを焼いた後のフライパンに残った肉汁の旨味を逃さず、そこにケチャップとウスターソースを1:1の割合で投入。さらに隠し味として少量のバターと赤ワイン(志乃さんの冷蔵庫の飲みかけを拝借した)を加えて煮詰める。
たったこれだけで、市販のルーを使わずとも、洋食屋顔負けの濃厚な絶品デミグラス風ソースが完成するのだ。
「朔君、すっごくいい匂い……。もうお腹ペコペコなんだけど」
リビングのソファから、お風呂上がりの志乃さんが、缶ビールを片手に甘えた声を出した。
「今お皿に盛りますから、テーブルを拭いて待っててください」
俺が手際よく盛り付けたハンバーグをテーブルに運ぶと、志乃さんは目を輝かせてナイフを入れた。
肉汁がジュワッと溢れ出し、濃厚なソースと絡み合う。
「……んんっ!! 美味しい……っ! お肉フワフワだし、このソース、本当に家で作ったの!? もう、外食なんて二度としなくていいレベルじゃない!」
志乃さんは、ビールを飲むのも忘れて、無我夢中でハンバーグを口に運んだ。
「喜んでもらえて何よりです。……あ、買い物、行ってもらっちゃってすみませんでした」
そう。今日の夕方、ハンバーグのひき肉が足りないことに気づいたのだが、俺が「スーパーに行ってきます」と言うと、志乃さんは血相を変えて俺を止めたのだ。
『ダメよ! あんな物騒な女の子たちがウロウロしてる外に、君を一人で出すわけにいかないわ。私が買ってくるから、絶対に部屋から出ないで、鍵もチェーンも開けちゃダメだからね』
そう言って、彼女は俺を部屋に残し、一人で車を出して買い出しに行ってくれたのだ。
「(……なんて優しい大人なんだ。俺の身の安全を第一に考えて、面倒な買い出しまで引き受けてくれるなんて。やはり、持つべきものは大人の庇護者だな!)」
俺は、志乃さんの常識的な優しさに、心の底から感動していた。
だが、俺は致命的な勘違いをしていた。
彼女が俺を外に出さなかった本当の理由。
それは「他の女の子たちから守るため」という正当な理由の裏側に、
「この便利な男の子に、外の世界(逃げ道)を一切見せたくない」という、ドス黒い大人の独占欲が潜んでいたことに、俺は全く気づいていなかったのだ。
「ねえ、朔君」
ハンバーグを食べ終えた志乃さんが、頬杖をつきながら、とろんとした目で俺を見つめた。
「君のご両親、連休明けまで帰ってこないんだよね?」
「あ、はい。そうですね」
「じゃあさ……もう、ずっとここにいなよ」
志乃さんの声は、アルコールのせいか、いつもより少し低く、ねっとりとした甘さを帯びていた。
「君の家、あの子たちに目をつけられてるんでしょ? 帰ったらまた危ない目にあうかもしれないじゃない。……だから、君さえよければ、連休が明けても……ずっと、ここから学校に通えばいいわ。私、車で送ってあげるから」
「えっ……? いや、さすがにそれはご迷惑では……」
「全然、迷惑なんかじゃないわ」
志乃さんが身を乗り出し、俺の手をギュッと握った。
「君がいると、ご飯は美味しいし、部屋は綺麗だし……私、本当に助かってるの。必要な着替えとか日用品は、全部私がネットで買ってあげる。君はお金のことなんて一切心配しなくていいのよ。……だから、ね?」
「(……えっ。これって、もしかして……)」
その時、俺のモブとしての危機察知能力が、微弱なアラートを鳴らした。
志乃さんの頭上に、うっすらと、クモの巣のような形をした【重紫色のフラグ】が浮かび上がりかけている。
『……衣食住の全てを与え、彼から生活能力と自立心を奪い去る。大人の財力と母性で彼の人生を完全に囲い込む【一生飼い殺し・合法的な絶対軟禁フラグ】……!!』
「(アカン!! この人、ただの優しいお姉さんじゃなかった! 激務のストレスの反動で、俺を『自分の世話をしてくれる便利なペット(兼ヒモ)』として完全飼育する気だ!!)」
俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
四人のヒロインたちの「直接的な暴力」とは違う。
「働かなくていい」「外に出なくていい」「ずっと守ってあげる」という、人間の根源的な堕落を誘う、甘すぎる猛毒。
「あ、あはは……。お気持ちは嬉しいですが、連休が終われば両親も帰ってきますし、ずっと迷惑をかけるわけには……」
俺が引き攣った笑みで手を引き抜こうとした、その瞬間だった。
『――ピンポーン♪』
静かな部屋に、不意にインターホンの音が鳴り響いた。
「(……ビクッ!!)」
俺は心臓が飛び跳ねた。
「……あら。こんな時間に、誰かしら? 宅配便なんて頼んでないけど」
志乃さんは眉をひそめ、立ち上がってモニター画面へと向かった。
「ま、待ってください御影さん! 出ちゃダメだ!」
俺が止めるより早く、志乃さんはモニターのボタンを押してしまった。
『……あ、もしもしぃ。夜分遅くにすみませぇん』
モニターのスピーカーから聞こえてきたのは。
底なしに甘く、そして氷のように冷たい、あの「猫撫で声」だった。
一年の腹黒後輩、小日向 巳波だ。
「(小日向!? なんで!? なんでこの場所がバレたんだ!!)」
『……マンションの入り口のオートロック、開けてもらえませんかぁ? 届け物が間違えた住所に配達されちゃったみたいなですぅ……』
モニターの画面には、夜のマンションのエントランスで、両手に『巨大な金属製のバール』を持ったまま、天使のような笑顔を浮かべている巳波の姿が映っていた。
「……なに、この子。君の知り合い?」
志乃さんは、モニターに映る女子高生の異様な姿(バール所持)を見て、完全に警戒モードに入った。
「す、すみません御影さん! 昨日言っていた、俺を追いかけ回してるうちの一人です! 絶対にオートロックを開けないでください!」
「……なるほどね。あの子が……」
志乃さんは、ふっ、と冷たい鼻で笑った。
「大人の、それも女性の一人暮らしのマンションに、高校生がバールを持って夜這いね。……舐められたものね」
志乃さんは、インターホンの通話ボタンを押した。
「……ごめんなさいね。ここには、あなたの探している『届け物』なんてないわよ。さっさと家に帰りなさい、お嬢ちゃん。警察を呼ぶわよ?」
『……あははっ。警察ですかぁ。いいですよぉ、呼んでください』
巳波は、カメラに向かって、ゾッとするような至近距離まで顔を近づけた。
『……でも、警察が来るより先に、あたしがそのオートロックのガラスの扉を粉々に叩き割って、お姉さんの部屋まで辿り着くのが早いと思いますけどねぇ……?』
ガンッ!!!!
という鈍い音がスピーカーから響き、モニターの映像が激しく揺れた。
巳波が本当に、エントランスの強化ガラスにバールをフルスイングしたのだ。
「なっ……!? あの子、本気で……!」
大人の常識が全く通用しない「ラブコメのヤンデレ」の暴挙に、志乃さんが言葉を失う。
「(マズい! 小日向のやつ、完全に理性が飛んでる! ここはただの賃貸マンションだぞ! エントランスを破壊されたら、御影さんが多額の損害賠償を……!)」
『……さあ、どうしますぅ? お姉さん。……あたしの届け物を、大人しく返してくれますかぁ? それとも、このマンションの住人全員を叩き起こして、大騒ぎにしましょうかぁ……?』
スピーカーから響く巳波の脅迫。
「……っ。上等じゃない。やってみなさいよ」
志乃さんも、大人の意地と「自分のテリトリー(とペット)を荒らされた怒り」で、一歩も引く気配がない。
連休三日目の夜。
俺の甘やかなオアシス(軟禁部屋)は、ついに最悪の侵入者によって発見された。
「常識と財力を持った大人の女」と、「執念と暴力に狂った女子高生」。
決して交わってはいけない二つの絶対的なフラグが、一枚のオートロックの扉を隔てて、激しく衝突しようとしていた。
俺の平穏なモブライフは、ついに市街地を巻き込んだ「全面戦争」の最終局面へと突入していくのであった。
肉汁たっぷりのハンバーグ…好きですか




