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27.堕落のワンルームと、謎のパトロン

「(……信じられない。休日に誰からも命を狙われず、誰からも愛という名の暴力を押し付けられないなんて!)」


俺、月島朔は、掃除機をかけ終わった清潔なフローリングの上で、深い感動に打ち震えていた。

キッチンからは生ゴミの匂いが消え、散乱していた服は全てクローゼットに収まり、窓を開ければ初夏の爽やかな風が、リビングを吹き抜けていく。


「んー……。なんか、空気が美味しい……」


ソファで二度寝から目覚めた御影志乃さんが、大きな伸びをした。

彼女は休日の大人らしく、薄手のスウェットにノーメイクという極めて無防備な格好だ。


だが、そのだらしない姿すらも、同年代のヒロインたちが発する「ギラギラした独占欲」に比べれば、俺にとっては菩薩の慈悲のように感じられた。


「あ、御影さん。起きましたか。昼ごはん、チャーハンでよければ作りますけど」


俺がエプロン姿で尋ねると、志乃さんは目を丸くした。


「えっ、お昼まで作ってくれるの? 君、本当に高校生? 実は家事代行サービスのプロだったりしない?」


「ただの器用貧乏なモブです。タダで匿ってもらっている以上、これくらいはさせてください」


「なら……お願いしようかな」


志乃は呆然としたまま、ダイニングテーブルに座った。


俺は冷蔵庫を確認した。冷やご飯と卵、ネギ。最低限の具材しかないが、これだけで十分だ。


「御影さん、チャーハンをお店みたいにパラパラにするコツって知ってますか?」


俺はフライパンを温めながら、何気なく尋ねた。


「え? 火力を強くするとか……? うちのコンロ、弱いから無理なのよね」


「いえ、実は油の代わりに『マヨネーズ』を使うんです」


俺はボウルに入れたご飯に、大さじ一杯のマヨネーズを混ぜ合わせた。


「マヨネーズには油分と卵黄が含まれています。これでご飯の一粒一粒をコーティングしてから炒めることで、家庭の弱い火力でも、お米同士がくっつかずにパラパラに仕上がるんですよ。酸味は熱で飛ぶので、味もまろやかになります」


俺が中華鍋(風のフライパン)を振ると、数分後にはパラパラと心地よい音を立てる黄金色のチャーハンが完成した。


「はい、お待ち遠さまです」


志乃は、信じられないものを見るような目で、そのチャーハンを一口食べた。


「……っ!! なにこれ、本当にパラパラ……! しかもコクがあって、すっごく美味しい……!」


志乃は、スプーンを口に運ぶ手が止まらない様子で、無我夢中でチャーハンをかきこんだ。

昨日まで「人生どうでもいい」という顔でビールを煽っていた大人の女性が、今はまるで子供のように目を輝かせている。


「おかわり、ありますよ?」


「……もらう。これ、一生食べてられるわ……」


「そんなに喜んでもらえると、作り甲斐があります」


そんなことはつゆ知らず俺は温かいお茶をすすりながら、志乃さんの食べっぷりを眺めていた。

あの四人のヒロインたちは、俺に料理を作らせる暇など与えず、一方的に狂気的なフルコースを押し付けてきた。だが、この人は違う。俺の作った普通の料理を、普通に喜んで食べてくれる。


「(……これが『日常』だ。大人の余裕と常識を持った人がいる空間。俺は今、モブとしての尊厳を完全に取り戻している!)」


「…一生、ね」


志乃の瞳の奥には、本気で「この便利な存在を逃したくない」という、大人特有のドロリとした独占欲が、ほんの少しだけ顔を覗かせていた。


「(……この子、このままウチに置いておけば、私は一生何もしなくていい……)」



食後。

志乃さんはノートパソコンを開き、何やら難しそうな書類仕事(ただのOLの持ち帰り仕事にしか見えない)を始めた。


「連休中なのにお仕事ですか?」


俺が淹れたてのコーヒーを差し出すと、彼女はパソコンから目を離さずにため息をついた。


「んー、ちょっとね。連休明けから新しい職場だから、その準備。……あーあ、ずっと連休が続けばいいのに。外に出たくない」


「わかります。俺も、できれば一生この部屋から出たくないです」


俺が本音を漏らすと、志乃さんのパソコンを打つ手が、ピタリと止まった。


「……朔君はさ。なんで昨日の夜、あんな女の子たちに包丁とか向けられて追っかけられてたの?」


「それは……その……」


俺は言葉に詰まった。まさか「全員がヤンデレ化して実家を占拠されたからです」とは言えない。


「……俺が、逃げたからです。彼女たちの気持ちに、応えられないから。俺はただ、目立たず平和に生きたいだけなのに、みんな俺を自分の思い通りにしようとして……息が詰まりそうだったんです」


俺の絞り出した言葉に、志乃さんはコーヒーカップを置き、じっと俺の顔を見つめた。

その気怠げな瞳の奥に、ふっと、大人特有の静かな熱が灯ったような気がした。


「……そっか。大変だったね、朔君」


志乃さんは立ち上がり、俺の隣に座ると、ポンポンと優しく頭を撫でてきた。


「(……っ! 大人の女性の、頭ポンポン!)」


高校生の俺にとって、それは破壊力のあるスキンシップだったが、そこに「過剰な独占欲」や「命の危機」は感じられなかった。ただ純粋な、年上の包容力だ。


「高校生の恋愛なんて、視野が狭いからね。思い通りにならないとすぐヒステリックになる。……君みたいな優しくて家庭的な男の子が、あんな野蛮な子たちに振り回されるなんて、可哀想に」


志乃さんの手が、頭からゆっくりと頬へと滑り落ちる。

少し冷たい大人の指先が、俺の肌に触れた。


「……君が外に出たくないなら。ずっとここにいればいいわ」


「え……?」


「君がご飯を作って、掃除をしてくれるなら。私が君を、あの子たちから隠してあげる。……ここは大人だけの、安全な聖域だから。誰も君を傷つけたりしないわ」


志乃さんの声は、信じられないほど優しく、甘かった。

俺は、その言葉に完全に心を許してしまっていた。


「(……なんて素晴らしい人なんだ。この人なら、俺の『平穏』を理解してくれる。連休が終わるまで、いや、ずっとこの人の家で家事をして過ごすのも悪くない……)」


俺は安心しきって、深く頷いた。


このときの俺は知らなかったのだ。

大人の女性の執着というものは、高校生のそれのように「爆音」や「派手な光」を伴わないことに。


志乃の瞳の奥。

そこには、激務と孤独にすり減った大人の心が、突如として現れた「自分だけを世話し、自分の部屋に引きこもってくれる完璧な存在(朔)」を見つけたことによる、致死量の依存と母性がドロドロと渦巻いていた。


「(……あの子たちのところになんて、絶対に帰さない。この子は私が、この部屋で、一生安全に飼い殺してあげる。……私の、可愛いお人形……)」


大人の女性の、理性的で、計算高く、そして底なしの独占欲。

志乃の瞳の奥で、高校生たちとは次元の違う『絶対に逃がさないための檻』が、着々と構築されていく。


「ねえ、朔君。……夕飯は、ハンバーグが食べたいな。ソースの作り方、また教えてくれる?」


「あ、いいですよ。ケチャップとウスターソースがあれば、肉汁と合わせて絶品のデミグラス風ソースが作れますから」


「ふふっ。……ずっと、ここにいてね。……………………………朔君」


静かに、音もなく。

御影志乃の頭上に、透明で重い、クモの巣のようなフラグが広がり始めていた。

それは、高校生たちの派手なフラグとは違う、社会的な地位と大人の狡猾さを兼ね備えた、逃げ場のない「完全飼育」へのカウントダウン。

朔ちゃん逃げてぇぇぇぇ!

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