26.逃亡先のゴミ屋敷、大人の女の朝ごはん
俺、月島 朔は、深夜の静まり返った見知らぬマンションの一室で、ゴム手袋を装着し、スポンジと住宅用洗剤を両手に構えていた。
(……素晴らしい。汚れが落ちる。研磨剤が水垢を削り取るこの感触。背後から包丁で刺される心配も、毛布で窒息させられる心配もない、完全なる『平穏』がここにある!)
数時間前まで、夜の街を逃げ惑うサバイバルホラーの主人公だった俺は今、御影 志乃さんという、行きずりの大人の女性の部屋で、一心不乱に水回りの掃除をしていた。
彼女は俺を拾い上げ、この部屋に放り込むと、
「好きにしていいわよ」
とだけ言い残し、缶ビールを数本空けてソファで泥のように眠ってしまった。
大人の女性の一人暮らし。本来なら甘酸っぱいドキドキがあるはずのシチュエーションだが、この部屋の惨状――空き缶のタワー、脱ぎ散らかされた服、埃の積もったテレビ台は、俺の持つ「モブとしての生真面目な家事スキル」に火をつけるには十分すぎた。
まずはキッチンのシンクだ。放置された水垢や油汚れが、ステンレスの輝きを完全に奪っている。俺はキッチンの引き出しから『使いかけのサランラップ』を取り出し、クローゼットから拝借した重曹を手に取った。
「(……フフフ、ここでスポンジを使うのは素人だ。モブの知恵を見せてやる)」
俺はラップをクシャクシャに丸めると、そこに少量の水で溶いた重曹をつけ、シンクを円を描くように磨き始めた。
「(スポンジだと、汚れを落とすための粒子がスポンジの目の中に入り込んで逃げてしまう。だが、丸めたラップなら粒子が表面に留まり、ダイレクトに汚れにアタックしてくれる。おまけに素材より柔らかいから、シンクに傷もつきにくい……!)」
キュッ、キュッ、と心地よい音が響き、数分後にはシンクが鏡のようにピカピカと輝きを取り戻した。
「(キッチン周りはよし。次は……洗濯か)」
俺はその達成感に酔いしれながら、次の戦場
――洗面所へと向かった。
俺は洗面所に移動し、溢れ返っている洗濯カゴの中身を仕分け始めた。
シャツ、タオル、ジーンズ。……そして。
「(……ッ!?)」
俺の手が、ピタリと止まった。
カゴの底から出てきたのは、黒やワインレッドの、非常に面積が小さく、精巧なレースが施された布の塊。どう見ても、大人の女性が身につける『勝負下着』というやつだった。
「(アカン!! これはモブの高校生が触れていい領域のアイテムじゃない! 青春ラブコメならここで『わわっ』と落として本人が起きてくるラッキースケベ・イベントが発生してしまう!)」
俺は極限の緊張状態に陥った。
だが、放置すればこの美しいレースも皮脂汚れで傷んでしまうだろう。俺は大きく深呼吸をし、己の精神を『無』にした。
「(俺は全自動洗濯機。俺は無機物。この手に持っているのは、ただのポリエステルとポリウレタンの合成繊維だ。そこには何の色気も、大人の女性の香りも存在しない……ッ!)」
俺は震える手で、それらの繊細な衣類を丁寧に専用の洗濯ネットに入れ、おしゃれ着用のデリケートコースで洗濯機を回した。
全ては、この安全な避難所を提供してくれた恩人への、純粋な奉仕活動に過ぎないのだ。
*****
薄手のカーテンから差し込む初夏の日差しで、御影 志乃はゆっくりと目を覚ました。
「……んぅ。あー、頭痛い……飲みすぎた……」
彼女は寝癖のついた髪を掻き乱しながら、重い体をソファから起こした。
そして、ぼんやりとした視界で自分の部屋を見渡し――完全に硬直した。
「えっ……? ここ、どこ?」
足の踏み場もなかったフローリングは、チリ一つなく磨き上げられている。
山積みだった雑誌は種類別に整頓され、テーブルの上の空き缶は綺麗に消え去っている。
さらに、カビの温床になりかけていたキッチンのシンクは、まるで新築物件のようにピカピカと銀色の光を放っていた。
「……おはようございます、御影さん。勝手に掃除してしまってすみません」
「ヒッ!?」
キッチンからなんか小さくてかわいそうなキャラクターたちが描かれたエプロンを着ている高校生が現れ、志乃はビクッと肩を跳ねさせた。
「あ、ああ……そういえば昨日、公園で変な子を拾ったんだった……。え、ちょっと待って。これ、全部君がやったの?」
「はい。居候させてもらうからには、これくらいは当然の家賃代です。……あ、朝ごはん、できてますけど食べますか? 二日酔いみたいだったので、胃に優しいものにしておきました」
俺がダイニングテーブル(昨日までは書類の山だった)に並べたのは、大根と油揚げの味噌汁、ふっくらと焼けた出汁巻き卵、そして炊きたての白ご飯だった。冷蔵庫にあった限られた食材で作った、ごく普通の和食だ。
志乃は、信じられないものを見るような目で、その朝食と俺を交互に見つめた。
「……これ、君が……?」
彼女はフラフラとテーブルに近づき、椅子に座って味噌汁を一口すすった。
「……っ」
その瞬間、志乃の瞳孔がわずかに開いた。
丁寧に出汁を取られた味噌汁の温かさが、アルコールで荒れた胃袋と、一人暮らしの乾いた心に、じんわりと染み渡っていく。
「(……美味しい。なにこれ。私が普段食べてるコンビニの弁当やカップ麺とは、全然違う……。誰かに朝ごはんを作ってもらったのなんて、何年ぶりだろう……)」
志乃は、無言のまま出汁巻き卵を口に運び、そして白ご飯をかきこんだ。
普段は朝食などコーヒーだけで済ます彼女が、あっという間に茶碗を空にしてしまったのだ。
「……おかわり、ありますよ?」
エプロン姿の俺が、控えめに声をかける。
「……もらうわ。大盛りで」
志乃は、二杯目のご飯を受け取りながら、目の前の高校生――月島 朔をマジマジと観察した。
顔立ちは地味で、どこにでもいる普通の男子高校生。
だが、その存在から滲み出る「圧倒的な無害さ」と「生活力の高さ」は、激務と孤独に疲弊していた彼女の心に、静かな波紋を広げ始めていた。
「(……なんだろう、この子。すっごく、便利。それに……この空間、悪くないわね)」
「あ、御影さん。洗濯物、回しておきましたから。……その、デリケートなものは、なるべく見ないようにしましたので…」
俺が視線を逸らしながら少し赤くなって言うと、志乃は一瞬キョトンとした後、自分の『大人の下着』まで彼に洗わせてしまったことに気づいた。
「……ふふっ。君、本当にいい子ね 」
志乃は笑いながら、食後のコーヒー(俺が完璧な温度で淹れた)を口に運んだ。
俺は彼女の笑顔を見て、心底ホッと息を吐いた。
「(よかった。昨日のヒロインたちの料理みたいな『致死量のニンニク』も『白トリュフ』も『謎の液体』も入っていない、ただの普通の朝食。これを美味しいと笑って食べてくれる、常識的な大人がいてくれて、本当に救われた……!)」
俺は、大人の女性が持つ包容力と常識に、完全に安心しきっていた。
ここは、俺のモブライフを癒やすための、最高で最強のオアシスなのだと。
……だが。
志乃の胸の奥底で、コーヒーの苦味と共に『ある感情』が芽吹き始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
「(……この子、このままウチに置いておけば、毎日このご飯が食べられるのよね。……部屋も綺麗だし。……外は物騒みたいだし、ずっと私が保護してあげたほうが、この子のためにもなるんじゃないかしら……?)」
それは、まだ自覚すらないほどの、小さな『依存』と『独占欲』の種。
連休最終日に向けて、静かに、そして確実に根を張り始める、甘く重い猛毒の始まりだった。
*****
同じ頃。
主を失った月島家のリビングは、葬儀場のように重く冷たい空気に支配されていた。
破壊された結の部屋のドア、散乱したカジノのチップ、切り刻まれたクッション。
その惨状の中央で、四人のヒロインたちが、それぞれ別のデバイスを睨みつけていた。
「……私の情報網をもってしても、あの黒いSUVの行方が掴めないなんて」
絶対女王・若桜 葵依は、ホログラムモニターに映る無数の監視カメラの映像を前に、扇子をギリッと握りしめた。
「あの女、主要な幹線道路の監視カメラの死角だけを的確に縫って逃走したわ。プロの逃がし屋か、あるいはこの街の裏道を知り尽くした人間よ。……SP、街中のドライブレコーダーの映像を全て買い上げなさい。一億円までなら即決で出して構わないわ」
「朔ちゃん……。朔ちゃん、どこにいっちゃったの……」
桃瀬 雫乃は、床に座り込みながら、うつろな目で出刃包丁を砥石で研ぎ続けていた。シャッ、シャッという無機質な音が、リビングに不気味に響く。
「あたしが、あんな車ごと三枚におろして、朔ちゃんを取り返してあげるからね……。待っててね、朔ちゃん……」
「……主君の匂いが、アスファルトの排気ガスで消されている」
三栗屋 翡翠は、窓際に立ち、外の空気を鋭い嗅覚で分析しながら呟いた。
「……だが、諦めない。私には、主君の残した『魔力(生活臭)』の残滓を辿る訓練ができている。……必ず、見つけ出す。そして、あの車を運転していた女の首を刎ねる」
そんな狂気に満ちた三人を尻目に、ソファの隅でスマホを弄っていた小日向 巳波が、ふふっ、とドス黒い笑みを漏らした。
「……先輩たち、相変わらず力任せで非効率ですねぇ」
巳波のスマホの画面には、昨夜の公園の暗闇の中で、彼女の驚異的な動体視力によって記憶された『SUVのナンバープレート』の数字がメモされていた。
手にしていたスマホからシュポッと通知音が鳴り、すぐさま内容を確認する。そして静かに微笑んだ。
「……なるほど。相手はただの『通りすがりの大人』ってわけですかぁ。高校生の恋愛ごっこに大人が首を突っ込むなんて、いい度胸してますねぇ……。絶対に、先輩を取り返して、あの女もめちゃくちゃにしてあげますからぁ」
一方の朔は、そんな絶望が迫っていることなど露知らず、謎の年上女性・御影志乃の部屋のトイレをピカピカに磨き上げながら、平和な休日に涙を流して感動しているのであった。




