23.暗闇の密室と、後輩の甘すぎる猛毒
連休二日目、午後八時。
太陽が完全に沈み、月島家を覆う空が深い闇に包まれると同時に、一階のリビングの照明がパチンと音を立ててすべて落とされた。
「……さあ、朔先輩。お待ちかねの、夜ですよぉ……?」
カチャン。
リビングのドアの鍵が、外からではなく、内側から施錠される音が響いた。
完全な暗闇となった空間。窓のカーテンも分厚い遮光のものが引かれており、外の街灯の光すら一切入り込まない。
俺、月島 朔は、ソファの上で完全に退路を断たれ、息を呑んだ。
「(……来た。午前、午後、夕方と続いたヒロインたちの猛攻を耐え抜き、ついに迎えてしまった最終ラウンド。……一番厄介な、潜伏型の悪魔の時間が)」
オレンジ色の髪を揺らし、一年の腹黒後輩・小日向 巳波が、音もなく俺へと近づいてくる。
暗闇の中でも、彼女から漂う甘ったるいシャンプーの香りが、獲物を絡め取る蜘蛛の糸のように俺の鼻腔をくすぐった。
「先輩ぃ。あの三人の先輩たち、本当に馬鹿みたいですよねぇ。大声を出したり、家を改造したり、毛布を被ったり……。そんな派手なことばっかりして、先輩を疲れさせて」
巳波の猫撫で声が、静寂のリビングにねっとりと響く。
「あたしは違いますよぉ。……先輩が本当に欲しいもの、ちゃーんとわかってますからぁ」
「こ、小日向……。俺が欲しいのは『一人で静かに眠る時間』だ。もう夜も遅い。今日は各自の部屋に戻って……」
「だーめ、ですぅ」
ドンッ。
俺が立ち上がろうとした瞬間、巳波の細くしなやかな腕が俺の胸板を押し返し、強引にソファへと引き戻した。陸上部のエースとして鍛え抜かれたその体幹の強さは、モブである俺の貧弱な筋力では到底抗えるものではない。
そのまま彼女はソファに座り込み、俺の頭を、自分の太ももの上へと強制的に引き寄せた。
「(なっ……!? ひ、膝枕!?)」
「ふふっ。先輩、一日中振り回されて、頭も肩もカチカチじゃないですかぁ。……あたしが、優しく解してあげますねぇ」
真っ暗闇の中、俺の頭の下には、巳波の柔らかくも弾力のある太ももの感触がある。そして顔のすぐ上からは、彼女の甘い吐息が降り注いでくる。
視覚が完全に奪われているため、触覚と嗅覚、そして聴覚だけが異常なまでに研ぎ澄まされ、彼女の存在を何十倍にも巨大に感じさせた。
「……先輩。あたし、天井裏からずっと聞いてたんですよぉ?」
巳波の指先が、俺の髪をゆっくりと梳きながら、耳たぶをなぞる。
「桃瀬先輩の乱暴なマッサージ。若桜先輩の偉そうなカジノ。三栗屋先輩の暑苦しい毛布。……先輩、どれが一番楽しかったですかぁ?」
「(ひぐっ……! これ、絶対に間違えちゃいけない質問だ! 少しでも他のヒロインを擁護すれば、この膝枕のまま俺の首の骨がへし折られる!)」
「……どれも、楽しんでなんていない。俺はただ、巻き込まれただけで……」
「あはは、知ってますよぉ。先輩がずっと嫌がってたことくらい、あたしにはお見通しですぅ」
巳波はそう言うと、俺の耳元に顔を近づけ、フゥ……と熱い息を吹きかけた。
「あの人たち、先輩のこと『自分の思い通りになるお人形』くらいにしか思ってないんですよぉ。先輩の本当の気持ちなんて、誰も見ていない。……でも、あたしだけは違います。あたしは、先輩の全部を見てますからぁ」
スッ、と。
暗闇の中で、巳波の手が俺のワイシャツの胸元に伸び、第一ボタンをカチリと外した。
「(な、何をする気だ!?)」
「先輩……。あの人たちに触られた場所、全部教えてください。……あたしが、一つ残らず、あたしの匂いで上書きしてあげますからぁ……」
巳波の指先が、首筋から鎖骨へと、ねっとりとした動きで這わせてくる。
その声は極上の甘さを保ちながらも、孕んでいる独占欲はドス黒く、重く、俺の精神を確実に絡め取ろうとしていた。
「(ヤバいヤバいヤバい!! 物理的な暴力じゃない! こいつは俺の『精神の逃げ場』を完全に塞いで、依存させようとしてきている!! このままじゃ、俺のモブとしての自我が、この甘すぎる毒に溶かされてしまう!!)」
俺は必死に抵抗を試みた。
「ま、待て小日向! 俺は汗だくだ! まずはシャワーを浴びさせてくれ!」
「いいですよぉ。あたしがここで、一緒に拭いてあげますからぁ」
「いや、トイレ! トイレに行きたい!」
「あたしに見られて困るものなんて、ないですよねぇ?」
「(完全封鎖されている!! どんな言い訳も通用しない!!)」
巳波の顔が、さらに近づいてくる。暗闇の中でも、彼女の瞳が爛々と光っているのがわかった。彼女の唇が、俺の唇を完全に奪い去ろうと、ミリ単位で距離を詰めてくる。
「……さあ、先輩。もう、諦めてくださいねぇ。先輩はここから、一歩も……」
その時だった。
俺の背中に触れていた手が、ソファの隙間に落ちていた『硬いプラスチックの塊』に触れた。
「(……リモコンだ! おそらく、テレビの!)」
俺は一か八かの賭けに出た。
モブの生存本能の全てを右手に込め、ソファの隙間からリモコンを引き抜くと同時に、親指で一番大きなボタン――【電源ボタン】を強打した。
ピッ!
次の瞬間。
完全な暗闇だったリビングに、六十五インチの巨大な液晶テレビ(昨日、葵依が勝手に搬入した最高級モニター)から、強烈な光が爆発するように放たれた。
「きゃあっ!?」
暗順応していた巳波の目が、突然の閃光に眩み、彼女の動きが一瞬だけ止まる。
俺はそのコンマ一秒の隙を逃さず、彼女の膝枕から「横回転」をキメて床へと転がり落ちた。
「はぁっ……はぁっ……! 悪いな小日向! 俺はテレビっ子なんだ! 夜の九時は、絶対にドラマを見なきゃいけない体質でね!」
俺は床に這いつくばったまま、息も絶え絶えに言い訳を叫んだ。
だが。
テレビから流れてきた映像を見て、俺は自分の不運を呪った。
そこには、バラエティ番組でもニュースでもなく――『男女が土砂降りの雨の中で、情熱的に抱き合いながら愛を確かめ合う、超ド級のロマンティック・ラブシーン』
が大音量で流れていたのだ。
『……愛してる!君のすべてが欲しい……!ぶっちゅ!』
『ええ……私もよ!ぶっちゅ!』
テレビの中の俳優たちが、画面越しに熱烈なキスを交わす。
そして、そのテレビの青白い光に照らし出されたリビング。
床に手をついている俺の目の前には、眩しさからゆっくりと目を開けた巳波がいた。
彼女は、テレビの画面と、俺の顔を交互に見つめ。
やがて、その頬を、狂気的なまでの朱色に染め上げた。
「……先輩」
巳波の声が、震えていた。
だがそれは、怒りではなく、極限まで高まった『歓喜』の震えだった。
「……あたしに、こんな素敵なムードの映画を、見せてくれるなんて。……先輩、照れ隠しで逃げたふりをしながら、本当は、あたしのこと……こんな風に、したかったんですねぇ……っ!」
ピコーン!
ピコピコ!!
ピコピコーン!!!!!
リビングの空間そのものが歪むほどの、桁違いの爆音フラグが鳴り響いた。
巳波の頭上に、テレビの液晶の光を乱反射させながら、巨大な【オレンジ色のウェディングドレス】の形をしたフラグが、実体を持つかのような質量で立ち上がる。
『暗闇の密着から逃れたと見せかけ、自らロマンティックな演出を作ってくれた彼! その不器用な愛情表現に、腹黒後輩の独占欲とガチ恋度が限界突破する【完全降伏・永遠の共犯者確定フラグ】!!』
「(違ううううううううッ!!!! 頼むから文脈を正しく読み取ってくれええええええ!!!)」
俺は床の上で絶望のあまり頭を抱えた。
逃げるための閃光弾のつもりが、最悪の起爆剤になってしまった!
「……先輩。もう、我慢しません。先輩の照れ隠しも、全部あたしが飲み込んであげますからぁ……!」
巳波がソファから滑り降り、床にいる俺に覆い被さろうと四つん這いで迫ってくる。
テレビの光に照らされたその笑顔は、完全に理性を吹き飛ばした、愛欲の化身そのものだった。
「(終わった……! 俺のモブとしての貞操が、ついにここで……!!)」
俺が死を覚悟し、ギュッと目を瞑った、まさにその瞬間だった。
ドゴォォォォォォォンッ!!!!!
リビングの頑丈なドアが。
鍵ごと、蝶番ごと、枠ごと、木っ端微塵に吹き飛んだ。
「……なっ!?」
巳波の動きがピタリと止まる。
粉塵が舞う中。
吹き飛んだドアの向こう側――明るい廊下に立っていたのは、三人の「修羅」たちだった。
出刃包丁を両手に構え、般若のような笑みを浮かべる雫乃。
巨大な破城槌を抱えたSPたちを背後に従え、扇子で口元を隠す葵依。
そして、暗視ゴーグルとタクティカル・シールドを構え、先陣を切って突入してきた翡翠。
「……やっぱりね。あの泥棒猫が、大人しくルールを守るわけないと思ったのよ」
葵依が、氷のような声で宣告した。
「朔ちゃあああん!! 今助けるからね!! そのメス狐はあたしが三枚おろしにしてあげる!!」
雫乃が、包丁をチャキチャキと鳴らしながら踏み込んでくる。
「……主君の危機。……障害(後輩)を、排除する」
翡翠が、シールドを構えたまま巳波へ向かって突進の構えを見せる。
「あ、あなたたち……! ルール違反ですよぉ! 夜の部はあたしの……っ!」
巳波が、先ほどまでの甘い声とは打って変わった、本気の殺意を込めた金切り声を上げる。
「あら、そんなの、あなたが朔を独占しようとした時点で破棄されたのよ。さあ、全面戦争の始まりね」
四人のヒロインの殺気と独占欲が、リビングの中で激しく衝突し、バチバチと火花を散らす。
俺は、粉砕されたドアの残骸の横で、完全に白目を剥いていた。
「(……まだ連休二日目だぞ……。あと三日も、この地獄が続くのか……? 誰か、誰か嘘だと言ってくれ……)」
月島家の絶対ルールは、制定からわずか十二時間で完全に崩壊した。
ここからは、ルール無用、一切の妥協なしの「朔争奪・バトルロイヤル」。
俺の平穏なモブライフは、もはや塵一つ残らないほどに蹂躙され、長い長い連休の夜は、狂乱の叫びと共に更けていくのであった。




