22.絶対防衛の夕暮れと、銀髪騎士のタクティカル・ブランケット
連休二日目、午後。
カジノと化した自室での「奇跡の転倒」により、絶対女王・若桜 葵依を完全に心酔させてしまった俺、月島 朔。
だが、その代償として得た「午後の自由時間」は、想像以上に快適なものだった。
「……王の休息を邪魔する者は、この私が許さないわ。SP、リビングの半径十メートルを完全封鎖しなさい」
葵依は約束を完璧に守った。彼女は黒服たちを動員し、幼なじみの雫乃と腹黒後輩の巳波が俺に近づけないよう、鉄壁のバリケードを築いてくれたのだ。
おかげで俺は、実家のリビングで約三時間ぶりとなる「モブとしての平穏」を取り戻し、ソファでゆっくりと文庫本を読むことができた。
「(素晴らしい……。これだ。これこそが俺の求めていた連休だ。葵依の勘違いの方向性は最悪だが、実利としては最高じゃないか)」
だが、楽しい時間は永遠には続かない。
壁掛け時計の針が、無情にも「午後四時」を指し示した。
『――ポォーン。時刻は、午後四時をお知らせいたしますわ。私の至福の時間は終わり。これより【夕方の部】の担当者に、朔の護衛を引き継ぎます』
スピーカーから葵依のアナウンスが流れた瞬間、リビングを囲んでいた黒服のSPたちが、一糸乱れぬ動きで撤収していった。
「(……来たか。夕方の担当は、誰だ?)」
俺が文庫本を置き、身構えた、その時。
カチャン。コロコロコロ……。
リビングの床を転がってきたのは、パイナップルのような形をした手のひらサイズの金属球だった。
「(な、手榴弾!? いや、スタングレネード!? なんで我が家にそんなミリタリーな代物が!!)」
俺が悲鳴を上げてソファから飛び退こうとした瞬間、ポンッ!という軽い音と共に、金属球から真っ白な煙が噴き出した。
いや、煙じゃない。これは――。
「(……アロマの香り? ラベンダーとカモミール……?)」
「……伏せて、朔」
突如、煙の中から音もなく現れた人影が、俺の身体をソファに押し倒した。
銀髪のクール騎士・三栗屋 翡翠だ。
彼女はいつもの制服姿ではなく、なぜか『全身黒ずくめのタクティカルスーツ(防刃仕様)』に身を包み、暗視ゴーグルを額に載せている。
「ひ、翡翠!? お前、何をして……」
「……夕方の部は、私が担当する。……ここは、西日が差し込み、狙撃手から最も狙われやすい『キルゾーン』。……すぐに、遮蔽物へ」
「狙撃手なんてこの舞台のどこにいるんだ! 平和な住宅街だぞ! そしてそのアロマの煙幕は何だ!」
「……主君の精神をリラックスさせるための、特製タクティカル・アロマ。……さあ、中へ」
翡翠は俺の抗議を完全に無視し、どこからともなく取り出した『分厚い迷彩柄のブランケット(アルミ保温シート内蔵)』を、俺と自分の頭からバサリと被せた。
瞬時に、視界が完全に遮断され、暗闇の空間が作られる。
二人用の毛布の中に、高校生の男女が密着して入り込む形になった。
「(近い近い近い! 暗闇のせいで、翡翠の体温とアロマの香りがダイレクトに伝わってくる!)」
「……これで、赤外線センサーやサーモグラフィからの探知は防げる。……だが、夜の冷え込みは体力を奪う。……規定マニュアルに従い、『体温の共有』を実行する」
翡翠は無表情(暗闇なので声のトーンからの推測だが)のまま、俺の胸板にピタリと背中を預け、腕を絡ませてきた。
タクティカルスーツ越しとはいえ、彼女の女性らしい柔らかな曲線が、俺の身体に完全にフィットしている。
「待て翡翠! 今は五月だ! 室温は二十五度ある! 保温シート付きの毛布の中で密着したら、冷え込みどころか熱中症で死ぬぞ!」
俺は汗だくになりながら、ブランケットを跳ね除けようとした。
だが、翡翠の身体は俺にピッタリとくっついたまま離れない。
「……ダメ。……外は危険。……朔を、絶対に守り抜く。……たとえ、私の命に代えても」
彼女の声は、真剣そのものだった。
冗談でも、からかっているわけでもない。翡翠の脳内では、俺は本当に「守るべき絶対の主君」であり、ここは「敵地に囲まれた戦場」なのだ。
「(こいつ……根が真面目すぎるが故の暴走だ。力尽くで引き剥がせば、騎士としての彼女のプライドを傷つけてしまうかもしれない……!)」
俺はため息をつき、モブとしての冷静な判断を下した。
ここは、彼女の『戦場(妄想)』のルールに従いつつ、自然な形でこのサウナ状態から脱出するしかない。
「……わかった、翡翠。お前の忠義は確かに受け取った。だが、戦場においては『状況の変化に応じた柔軟な対応』も必要だ。熱中症で倒れては、元も子もないだろう?」
「……状況の変化?」
「ああ。俺が今から、このシェルターに『換気用のカモフラージュ・ベント』を構築する。敵に気づかれず、空気を循環させる高度な技術だ」
俺は適当なミリタリー用語(映画の知識)を並べ立てながら、ブランケットの裾を絶妙な角度で少しだけ持ち上げ、リビングのエアコンの風が入り込む『隙間』を作った。
スゥ……ッ。
一陣の涼しい風が、密閉されたブランケットの中に流れ込む。
同時に、俺は自分の呼吸音を限界まで消し、微動だにせず気配を隠した。モブとしての『背景同化スキル』の応用だ。
「……っ!」
その瞬間、俺の腕の中にいた翡翠の身体が、ビクンと大きく震えた。
「(……しまった。何か間違えたか!?)」
「……朔。……すごい」
暗闇の中で、翡翠の震える声が響いた。
「……音もなく、一瞬で空調の流れを読み切り、敵の死角となる角度で完璧な換気口を作り出した。……しかも、今の朔からは、生命の気配すら全く感じられない。……完全なる『アサシン・クラスのステルス技術』……」
「(違う! ただ毛布をめくって、息を止めてるだけだ!)」
「……私の騎士としての技術など、主君の前では児戯に等しかった。……あなたは、守られるだけの存在ではなかった。……暗闇の中で共に戦い、背中を預けられる、真の『戦場の王』……」
翡翠が、俺の胸の中でゆっくりと振り返った。
暗闇の中、彼女の透き通るようなエメラルドグリーンの瞳だけが、熱を持った光を放って俺を見つめている。
「……朔。……私を、あなたの『剣』にして。……この身も、心も、全て……あなたに捧げる」
ピコーン!!!! ピコピコピコピコーン!!!!!
毛布の密閉空間の中で、俺の鼓膜を物理的に破壊せんばかりの爆音フラグが鳴り響いた。
翡翠の頭上に、白銀に輝く巨大な剣の形をしたフラグが、天を貫くように屹立する。
『守護対象であったはずの彼が、己を凌駕する圧倒的な戦場サバイバル術を披露! 尊敬が狂信的な愛情へと昇華し、生涯の忠誠と添い遂げを誓う【銀髪騎士の絶対的伴侶・生涯の剣フラグ】!!』
「(だからちがあああああああああああうッ!!!!)」
俺はタクティカル・ブランケットの中で、声なき絶叫を上げた。
ただ涼みたかっただけなのに! なんでそれが「伝説の傭兵のサバイバル術」として解釈されてしまうんだ!
「……朔。……体温、上がってきた。……心臓の音も、早くなってる。……私も、同じ」
翡翠の熱い吐息が、俺の首筋に触れる。
彼女は俺のワイシャツの胸元をギュッと掴み、さらに距離を詰めてこようとした。
「(アカン!! このままじゃ戦場サバイバルが、戦場のロマンス(R-15)に発展してしまう!!)」
俺がモブ・エスケープを試みようとした、まさにその瞬間だった。
『――ピンポーン、パンポーン♪』
再び、リビングのスピーカーから無機質なチャイムが鳴り響いた。
『あー、あー。マイクテスト、マイクテスト。……三栗屋先輩、お疲れ様ですぅ。夕方の部はそこまでですよぉ。ここからは、いよいよ【夜の部】……あたしの時間ですからぁ』
スピーカーから聞こえてきたのは、底なしに甘く、そして背筋が凍るほどドス黒い、一年の腹黒後輩・小日向 巳波の猫撫で声だった。
「……チッ」
翡翠が、わずかに舌打ちをした。
「……時間切れ。……朔、また後で。……あなたの剣は、常に傍にある」
翡翠はブランケットをバサリと取り払い、音もなくリビングの影へと消えていった。
残された俺は、夕陽が完全に落ち、薄暗くなり始めたリビングで一人、肩で息をしていた。
午前中の暗殺マッサージ。
午後のカジノ・ルーレット。
夕方のタクティカル密着。
三人のヒロインの猛攻をなんとか生き延びた俺だが、体力と精神力はすでに限界(HP1)だった。
「(……ついに、夜が来る。ルールを無視して天井裏や床下に潜伏していた、一番厄介な『あの悪魔』の担当時間が……)」
カチャン。
リビングのドアの鍵が、外から閉められる音がした。
そして、部屋の照明が、パチンと音を立ててすべて消された。
「……さあ、朔先輩。お待ちかねの、夜ですよぉ……?」
完全な暗闇となったリビングの奥から。
オレンジ色の髪を揺らし、獲物を逃がさない絶対の捕食者の笑みを浮かべた巳波が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
連休二日目、夜。
月島朔の実家防衛戦は、ついに最も恐ろしく、最も甘い「絶望の最終ラウンド」へと突入するのであった。




