21.暗闇の密着逃亡劇と、絶対女王の狂宴
連休二日目、午前十一時。
俺、月島 朔は、幼なじみ・桃瀬 雫乃による『人体構造を無視した暗殺級マッサージ』から逃れるため、一階の廊下へと飛び出した。
だが、そこは決して安全地帯ではなかった。
天井の点検口からコウモリのように音もなく降りてきたのは、一年の腹黒後輩・小日向 巳波。
彼女は俺の腕を力強く掴むと、そのまま一階の階段下にある「床下収納庫」の扉を蹴り開け、俺の身体を強引に暗闇の中へと引きずり込んだ。
「(なっ……!? 床下収納!? ちょ、小日向、暗い! 狭い!)」
バタンッ! と、頭上で重い木の扉が閉まる。
ここは本来、醤油のストックや非常食の缶詰を置いておくための、畳半畳ほどの狭い空間だ。
当然、高校生二人が入れば、身動き一つ取れないほどの密着状態になる。
「……シーッ。声を出したら、あの野蛮な先輩に見つかっちゃいますよぉ」
完全な暗闇の中。
巳波の甘ったるい声が、俺の耳元――いや、鼓膜に直接触れるほどの至近距離で囁かれた。
彼女の柔らかい身体が俺の胸板に完全に密着しており、俺の足に絡みつくように重なっている。オレンジの髪から漂う甘いシャンプーの香りが、狭い空間で致死量に達していた。
「(近い近い近い! 暗闇のせいで視覚が奪われて、他の感覚がバグりそうだ!)」
『……朔ちゃん? どこ行っちゃったの? マッサージはまだ、右半身の骨格調整しか終わってないよ……?』
頭上――床板のすぐ上から、雫乃の足音が聞こえた。
ドスッ……ズズッ……という、まるでホラー映画の殺人鬼が獲物を探して徘徊するような足音だ。さらに、彼女が手にしているであろう出刃包丁が、壁紙をチリチリと削る音が響く。
「(こわっ!! なんでマッサージの途中で刃物を持ち出してるんだ! 絶対に骨格調整以外のことをする気だっただろ!)」
俺が恐怖で息を呑むと、巳波が俺の首元に顔をすり寄せてきた。
「……ふふっ。桃瀬先輩、必死ですねぇ。……でも、先輩はあたしの腕の中です。……ねえ、朔先輩」
巳波の指が、俺のワイシャツのボタンを一つ、ゆっくりと外す。
「あの女は、先輩の身体を痛めつけるだけですけど。……あたしは、先輩をとっても『気持ちよく』してあげられますよぉ……? ここは絶対に見つからない、あたしたちだけの秘密基地ですからぁ……」
「(ヒィィィィッ!! 前門のサイコパス幼なじみ、後門の腹黒捕食者!!)」
ピコーン!!!
暗闇の床下収納に、巳波の執念が結実した爆音フラグが鳴り響きかける。
だが、そのフラグが完全に立ち上がる、まさにその瞬間だった。
『――ポォーン。時刻は、正午をお知らせいたしますわ』
突如、月島家の全館(いつの間にスピーカーを設置したんだ)に、優雅なオーケストラのBGMと共に、絶対女王・若桜 葵依の威厳に満ちた声が響き渡った。
『桃瀬さんの野蛮な時間は終了よ。これより午後の時間帯は、私、若桜葵依が朔の時間を独占するわ。SPたち、朔を私の部屋(元隣家)へ連行しなさい』
そのアナウンスが終わるや否や。
「チッ……」
俺の耳元で、甘い声を出していた巳波が、地の底から響くような本気の舌打ちをした。
「……時間切れですかぁ。まあいいです。今日のところは、この辺で許してあげますねぇ、先~輩」
巳波はパッと俺から離れると、床下収納の扉を押し開け、一瞬で「パーフェクト・エンジェルスマイル」の仮面を被り直した。
「(こいつの切り替え速度、プロの詐欺師でも勝てないぞ……!)」
床下から這い出した俺の目の前には、すでに黒服のSPたちが三人がかりで整列していた。
「月島様。お迎えに上がりました。お嬢様がお待ちです」
俺は肩の痛みを引きずりながら、SPに連行されて二階へと向かった。
昨日、葵依の圧倒的な財力によってぶち抜かれた、俺の四畳半の部屋の壁。
その向こう側に広がっていたのは――。
「……ようこそ、朔。私の『遊技場』へ」
「(……ここは、ラスベガスか何かか!?)」
俺は絶句した。
お隣の磯野さん一家が住んでいた空間は、完全なる『VIP専用カジノ』へと変貌を遂げていたのだ。
天井には豪華絢爛なシャンデリアが輝き、床には真紅の絨毯。中央にはプロ仕様の巨大なルーレット台が鎮座し、タキシードを着た凄腕のディーラーがカードをシャッフルしている。
「若桜……! お前、半日で家をカジノに改造したのか!? ここは日本だぞ! 法律はどうなってるんだ!」
「安心なさい。ここは治外法権、若桜家の領事館という名目で国に届け出を出しているわ」
「(国を動かすな! モブの俺の日常が国際問題に発展しそうじゃないか!)」
純白のイブニングドレスに身を包んだ葵依が、ワイングラス(中身は最高級のぶどうジュース)を揺らしながら、ルーレット台の向こう側から俺に微笑みかけた。
「午前中、桃瀬さんのような貧相な手口で随分と疲弊したようね。……でも、私の愛はもっとスマートで、そして『絶対』よ。さあ、朔。私とゲームをしましょう」
葵依は、テーブルの上に『一枚の契約書』を滑らせた。
「ゲームはルーレットの一発勝負。もしあなたが勝てば、この連休中、私の時間帯はあなたに『完全な自由』を確約してあげる。ずっと部屋で寝ていても構わないわ。……でも」
葵依の瞳が、捕食者のように妖しく細められた。
「もし私が勝てば……あなたにはこの『若桜家・終身専属パートナー(婚約)契約書』にサインしてもらうわ。一切の拒否権はないわよ」
「(いきなり人生を賭けたデッドオアアライブが始まった!!)」
俺は冷や汗を流した。
勝てば自由。負ければ、一生この絶対女王のヒモ(という名の所有物)として、鳥籠の中で飼われることになる。
モブとしての平穏な未来を守るため、絶対に負けるわけにはいかない!
「いいだろう、やってやる! ……で、俺はどうすればいいんだ?」
俺はルーレットのルールなど、映画で見た程度の知識しかない。
ディーラーが恭しく口を開いた。
「月島様には、こちらのチップ十万ドル分(約一千五百万円)をお渡しいたします。若桜お嬢様と交互に一点賭けを行い、玉が落ちた数字を当てた方の勝利となります」
「(一千五百万円!? 渡されたチップの重みで手が震えるんだが!)」
「私が先に行くわ。……『黒の17』にオールインよ」
葵依が、一切の躊躇なく自分のチップの山を盤面に押し出した。
「(いきなり一点賭けかよ! 確率論を無視した女王の強運……だが、逆に言えば俺が当たる確率も限りなく低い!)」
「さあ、朔。あなたの番よ。どこに賭けるのかしら?」
俺はチップの山を抱えながら、盤面を睨みつけた。
適当な数字に賭けて、外れたらどうなる? 俺の負けが確定し、婚約書にサインさせられる!
ならば、ここは一番安全な『赤か黒』の二分の一に賭けて、勝負を長引かせるべきか? いや、一点賭けのルールだと言われた。
俺の脳内で、絶望的な計算式が駆け巡る。
「(どうする……どうすれば……!)」
極度の緊張と、午前中のマッサージによる疲労。
そして、足元に敷かれた毛足の長すぎる超高級ペルシャ絨毯。
これらが最悪の化学反応を起こした。
「……よし、俺は『赤の……』」
俺が一歩前に踏み出した瞬間。
ズルッ。
「(……あ)」
ペルシャ絨毯に足を取られ、俺の身体が前のめりに豪快に転倒した。
同時に、俺が抱えていた一千五百万円分のチップが、まるでスローモーションのように宙を舞い、ルーレット台の上にバラバラと降り注いだ。
ガシャシャシャシャシャッ!!!
「いっった……! し、しまった! チップが!」
俺が顔を上げると、チップは盤面の至る所に散らばっていた。ルール違反で失格か!?
だが、ディーラーと葵依は、盤面の一点を見つめたまま、完全に凍りついていた。
「こ……これは……っ!!」
マカオの凄腕ディーラーが、信じられないものを見るような目で俺を見た。
宙を舞ったチップの山。
その中の、たった一枚のチップが。
盤面の中央、最も確率が低く、誰も賭けないとされる【緑の00(ダブルゼロ)】の枠内に、ピタリと直立して刺さっていたのだ。
「……なっ! 月島様、あなたは……まさか……!!」
ディーラーが震える声で叫ぶ。
「転倒したと見せかけ、チップの雨を降らせて私の視界を遮り……その一瞬の死角を突いて、最も配当の高い『00』に、神業のようなスナップでチップを直立させたと言うのですか……!! どんな伝説のギャンブラーでも、こんな芸当は不可能だ……!!」
「(違う!! ただ絨毯で滑って転んで、チップをぶちまけただけだ!!)」
俺が真実を叫ぼうとしたが、時すでに遅し。
ディーラーは「勝負あり!!」と叫び、玉をルーレットに投げ入れた。
カラカラカラ……。
カチッ。
玉が落ちたのは、当然のように。
俺のチップが刺さっている、【緑の00】だった。
「……っ!!」
葵依が、持っていたワイングラスを取り落とした。
ガチャン、とガラスが砕ける音が、カジノルームに響き渡る。
「……朔。あなたって人は……」
葵依は、信じられないものを見るように俺を見つめ、やがてその頬を、彼女には珍しいほどの紅潮に染めた。
「私の富も、権力も、確率論すらも……その無造作な一挙手一投足で、全てひっくり返してしまうのね。……転んだふりをして盤面を支配する、その圧倒的なまでの『勝負師の余裕』……!!」
ピコーン!!! ピコピコピコピコーン!!!!!
カジノルームの天井を突き破るほどの、超特大の電子音が鳴り響いた。
葵依の頭上に、まばゆいばかりの黄金のフラグが、王冠のように輝いて降り注ぐ。
『権力で彼を支配しようとした絶対女王が、彼の底知れぬ器の前に完全敗北! 支配欲が、彼に傅きたいという狂信的な愛情へと反転する【常軌を逸した勝負師の覇気・絶対女王の忠誠確定フラグ】!!』
「(だからちがあああああああああああうッ!!!!)」
俺はルーレット台の前で、両手で顔を覆って絶叫した。
ただ絨毯で転んだだけだ! なぜそれが「伝説のギャンブラーの神業」として解釈されてしまうんだ! 某賭博黙示録の主人公でもこんなミラクルは起こさないぞ!
「……負けたわ、朔。約束通り、午後の時間はあなたの自由よ」
葵依が、ドレスの裾を翻して俺の前に歩み寄り、そして。
スッ……。
絶対女王である彼女が、俺の足元に、恭しく跪いたのだ。
「(なっ……!? 若桜!? お前、何をして……!)」
「でも、これだけは言わせてちょうだい。……私の全てを懸けても勝てない男。……ああ、ますますあなたを、私の隣に……いいえ、私の『王』として迎え入れたくなったわ」
葵依の瞳は、これまでの「所有物を愛でる目」ではなく、心から敬愛する王を見つめる「忠犬の目」へと完全にシフトチェンジしていた。
俺のモブとしての平穏な連休は。
午後一時を回った時点で、絶対女王の陥落(勘違い)という最悪のミラクルにより、さらなる絶望の修羅場へと突き進んでいくのであった。
「(もう嫌だ……連休なんて、早く終わってくれ……ッ!!)」
俺の心の叫びは、ディーラーの拍手喝采にかき消され、虚しくカジノの天井へと吸い込まれていくのだった。




