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2.絶対女王のひざまずき

幼なじみという名の物理法則のバグ、桃瀬雫乃ももせしずくのによる四次元的ラッキースケベと【好感度MAXフラグ】の強制成立から数十分後。


俺、月島朔つきしまさくは、すでにHP(精神力)が赤ゲージで激しくピコンピコンと点滅している状態のまま、這々の体で学園の生徒玄関にたどり着いた。


「……胃が痛い。帰って知らない天井を見上げたい」


朝の占いのラッキーカラーを回避するためにわざわざ着てきた真っ黒なカーディガンは、雫乃との激突による砂埃で少し汚れてしまっている。

俺は周囲を油断なく見回しながら、自分の下駄箱へと慎重に歩みを進めた。


下駄箱。それは、学園という名の戦場において最も危険な地雷原の一つである。

偶然肩がぶつかる、靴を履き替えるタイミングが重なる、あるいは間違えて誰かの靴箱を開けてしまう……。ありとあらゆる些細な接触が、致死量の恋愛イベントへと発展しかねない「フラグの温床」なのだ。


「よし、周囲半径3メートル以内に女子生徒なし。今だ」


俺は素早く自分の下駄箱を開け、上履きを取り出そうとした。その時だった。


「ああっ、もう……! どうしよう!」


すぐ真横から、情けない悲鳴が聞こえた。

見ると、隣のクラスの女子生徒――確か、図書委員をやっている鈴木だか加藤とかいう地味なモブ女子だ――が、両手で抱えきれないほど大量の小テストのプリントを見事に床へぶちまけていた。


ピコッ!


「……っ!」


俺の脳内に、本日二度目の電子音が鳴り響いた。

鈴木の頭上に、ポツンと【緑色の小さなフラグ】が突き刺さる。メインヒロインたちの放つバカでかい旗に比べれば、戦闘力たったの「5」しかないゴミのようなサイズだ。


『落ちたプリントを一緒に拾い集め、最後に拾った一枚で偶然指先が触れ合い、「あ、ごめん」「ううん……」と見つめ合う微小フラグ』


「こんなところにも地雷フラグが埋まってるのかよ……!」


俺は戦慄した。

フラグはメインヒロインの専売特許ではない。この学園は、すれ違うだけのモブ女子ですらフラグのトリガーを引きかねないのだ。


普通なら「あ、大丈夫?」などと声をかけて一緒に拾ってやるのが人間としての情だろう。だが、その常識的な優しさが命取りになる。


「(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……いや、全力で逃げる! だがモブとして悪目立ちせずにだ!)」


俺は息を鋭く吸い込み、床に散らばったプリントの束に向かって、素早く右足を滑り込ませた。

俺の足の甲がプリントの束を的確にすくい上げる。

俺は過去の体育の授業で一度だけ見たサッカー部の動きを脳内で完全トレースし、プリントを空中に蹴り上げた!


スパパーンッ!!

空中で綺麗にまとまったプリントの束が、驚いて固まっている鈴木の腕の中へと、すっぽりと綺麗に収まった。指一本触れることなく、手伝い完了。完璧なフラグ回避だ。


「ふっ……。紙の束は、足で拾うに限るな」


俺はハードボイルドなモブを気取り、上履きに履き替えてその場を立ち去ろうとした。


「あのっ……月島くん!」


背後から鈴木に呼び止められ、俺はピクリと足を止めた。振り返ると、分厚い眼鏡の奥で、鈴木の瞳がキラキラと輝いている。


「恐ろしく速いリフティング……私でなきゃ見逃しちゃうね……! 月島くんって、帰宅部じゃなくて実はサッカー部のエースだったんだ……!」


ピコピコピコーン!

鈴木の頭上の爪楊枝フラグが、少しだけサイズアップして【隠れイケメン発見・気になる男子フラグ】へと昇格した。


「(ちがああああう!! 名も無き殺し屋みたいなこと言うな! 俺はサッカーのルールすら怪しい正真正銘の帰宅部だ!!)」


心の中で絶叫しながら、俺は逃げるように廊下へと駆け出した。

俺の両親は至極真っ当な会社員で、親に借金もない。そんな至ってノーマルなDNAしか持っていない俺には、この非日常の連続は荷が重すぎる。


ピンポンパンポーン♪

その時、校内放送のスピーカーから、やけにハイテンションなマイクのノイズ音が鳴り響いた。


『あー、あー、テステス。学園の迷える子羊たち、おはようございますわ!』


派手な縦ロールにイブニングドレス姿で扇子を仰いでいるであろう女理事長の声だ。彼女は俺たちとは親族でもなんでもない、ただ純粋に「若者たちのカオスな青春劇を高みの見物で楽しみたい」という理由だけで学園を私物化している理不尽の権化である。


『本日は皆様に素晴らしいお知らせがありますの。今日から当学園の校則を一部改定し、【恋愛過激推奨】といたしますわー! 男女が廊下で3秒以上見つめ合ったら即座にデート成立! 青春を謳歌しない者は片っ端から反省文ですのよ! おーっほっほっほっ!』


「……終わった」


俺は廊下の壁に手をついた。学園のトップが率先してフラグの乱立を推奨し始めたのだ。狂っている。

だが、絶望に浸る暇すら俺には与えられていなかった。


『ゴゴゴゴゴ……!』という幻聴の擬音が聞こえてきそうなほどのプレッシャーと共に、前方から歩いてくる生徒たちが、両脇に避けて道を開けていく。

その中央を、優雅な足音を響かせて歩いてくる一人の女子生徒。


若桜わかさ 葵依あおい

この学園の頂点に君臨する、絶対的な支配者。

腰まで届く、圧倒的な艶を放つ輝くようなブロンドのロングストレート。射抜くような深紅クリムゾンの瞳。肩にふわりと羽織ったカーディガンは覇者のマントのようだ。


そして何より、彼女の頭上には、校舎の天井を突き破り大気圏にまで到達しそうな勢いの【超絶巨大な黄金のフラグ】がそびえ立っていた。


もし俺が左目にスカウターをつけていたら、間違いなく『私のフラグの戦闘力は53万です』という無慈悲な数値と共に、レンズがボンッと音を立てて爆発しているレベルの質量だ。


『落としたシルクのハンカチを拾い、見返りを一切求めずにスマートに手渡して立ち去る。その無欲さに、王者の心が激しく揺さぶられるフラグ』


(朝のテレビ占い……双子座のラッキーアイテムは『シルクのハンカチ』だったな)


俺は真っ黒なカーディガンの裾をギュッと握りしめた。

目の前にシルクのハンカチが落ちたとしても、絶対に触れてはならない。触れれば最後、この途方もない質量を持った覇王色のフラグに飲み込まれる。


数秒後、俺と葵依がすれ違う。

その瞬間。


――ひらり。

彼女の制服のポケットから、純白のシルクのハンカチがスローモーションのように床へと舞い落ちた。俺の靴の、わずか数センチ横に。


(見えない、聞こえない、気づかない。俺はただの風景だ。呼吸を止めろ。心拍数を下げろ。「絶」の状態で通り過ぎるんだ!)


俺は極限の集中力で眼球の動き一つすら制御し、一瞥もくれず、歩調を一切乱すことなく、ハンカチの横を通り過ぎた。

完璧だ。俺の靴底はハンカチを踏むことすらなく、空気の乱れすら起こさずにスルーをキメた。これでフラグは完全に折れ――。


――ガシッ!!!


「…………っ!?」


突如、俺の右足首に、鋼鉄の万力のような恐ろしい握力が加わった。

ビターン!という派手な音と共に、俺は廊下の床に引き倒されそうになる。ギリギリで体勢を立て直し、振り返った俺の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。


学園の絶対女王であるはずの若桜葵依が。

廊下の床に四つん這いになり、俺の足首を両手でガッチリとホールドしているではないか。


「(お、親父にも足首をホールドされたことないのに!?)」


「……逃がさないわ」


葵依は俺の足首を掴んだまま、ゆっくりと顔を上げた。

深紅の瞳が、獲物を見つけた肉食獣のようにギラリと狂気的な光を放っている。


「私のハンカチが落ちたのに……拾おうともしない男がいるなんて。あなたの視線は一瞬、確実にハンカチを捉えていた! あなたは『あえて』無視したのよ!」


「(こいつ、俺の高度なモブ回避技術を完全に見抜いている……!?)」


葵依の体が小刻みに震え、その白い頬がみるみるうちに異常なまでの熱を帯びて紅潮していく。


「私は若桜財閥の次期当主。これまで、私が何かを落とせば、周囲の人間は我先にと群がり、媚びへつらってきた。でも、あなたは違った……!」


まさか。嘘だろ。お前も幼なじみと同じ、物理演算ならぬ『思考回路のバグ』の持ち主なのか。


「あなたは私に取り入ろうとしないばかりか、関わることすら完全に拒絶した! この絶対的な『若桜葵依』という存在すらも、あなたにとっては路傍の石ころと同義……! 」


「いや、だから俺は朝の占いのラッキーアイテムを回避しただけの小市民で――」


「なんて無欲で、なんて高潔な魂の持ち主……! 私のすべてを無価値だと切り捨てるその傲慢さ! 圧倒的なまでの塩対応! 最高に痺れるわ……っ!!」


ドッッッッッバーーーーーン!!!!!

葵依の頭上で蠢いていた黄金のフラグが、ビッグバンのような大爆発を起こした。

廊下の窓ガラスがビリビリと震え、周囲の生徒たちがその凄まじい「覇王色のオーラ(幻覚)」に圧倒されて次々と泡を吹いて倒れそうになっている。黄金のフラグは無数の燃え盛る鎖へと姿を変え、俺の体に絡みつくような強烈な【絶対服従&激重執着フラグ】へと進化を遂げたのである。


「あなた、名前は?……月島朔ね。いいわ、今日からあなたを『私のただ一人の対等な存在』として扱ってあげる!」


「断固拒否する! 俺は平穏に生きたいんだ! 手を離せ!」


「うふふっ……無駄よ。私をここまで熱くさせた責任、生涯かけてきっちり取らせてあげるから」


周囲の生徒たちの視線が、驚愕から「若桜様をひざまずかせた謎の実力者」を見るような畏怖の目へと変わっていく。

終わった。俺が「占いを回避するために徹底的に無視した」という生存戦略そのものが、彼女の重すぎる愛に火をつける最大の燃料になってしまったのだ。


「誰か……俺のフラグを折ってくれ……」


絶対女王に足首をホールドされたまま、俺は天井を見上げてただただ絶望の涙を流すことしかできなかった。


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