17.開戦の連休、蹂躙される俺の聖域
五月の声を聞くと同時に、空の色はどこまでも高く、澄み渡る。
窓の外を揺らす風は、若葉の匂いを孕んだ「初夏の爽やかな風」だ。これほどまでに絶好の行楽日和、本来であれば人々は列をなして観光地へと繰り出すのだろう。だが、俺、月島 朔にとっての「連休」は、それら世俗の喧騒とは無縁の、至高の孤独を享受するための期間であった。
午前七時。
俺はリビングのキッチンに立ち、神聖な儀式を執り行っていた。
そう、コーヒーだ。
俺の両親は、親に借金など一円もない、極めて真っ当で善良な会社員である。そんな平和な家庭で育った俺が唯一、モブらしからぬ「こだわり」を見せてしまうのが、この朝の一杯だった。
俺が愛用しているのは、手動式のセラミックコーヒーミル。
自動のボタン一つで済ませるのは、合理主義者の絶対女王や効率重視の隠密後輩のやり方だ。俺は、ハンドルを回す感触から伝わる豆の抵抗感を愛している。
「……まずは、中煎りのブラジル・サントス。これを二十五グラム」
俺は、一粒の欠けもない完璧な豆を計量し、ミルに投入した。
ゴリゴリ、という硬質な音が静かなキッチンに響く。この音こそが、俺の平穏な一日を保証する開幕のファンファーレだ。挽き具合は中細挽き。お湯の温度は、一度沸騰させてから正確に八十八度まで下げたものを使用する。
ドリッパーにセットしたペーパーに、挽きたての粉を盛り、まずは少量の湯で三十秒の「蒸らし」を入れる。
「……いい。この膨らみ(ブルーム)こそが、豆が生きている証拠だ」
ふっくらと盛り上がるコーヒー粉のドームから、香ばしく、かつ甘い香りが立ち上がる。これだ。この瞬間だけは、俺は「恋愛フラグが見える不運な男」ではなく、ただの「コーヒーを愛する一人のモブ」になれる。
最後の一滴まで慎重にドリップを終え、俺はお気に入りの無地のマグカップを手に取った。
「(ふぅ……。完璧だ。雑味のない、この至福の一杯……。今日から始まる四日間、俺は一歩も外に出ず、このコーヒーと共に過ごすんだ。誰にも邪魔されず、誰のフラグも立てずにな……)」
俺が、勝利を確信した一口を喉に流し込もうとした、その時だった。
「お兄ちゃん、なんか朝から『禁欲中の修行僧』みたいな顔してコーヒー淹れてるね。そんなにその液体、美味しいの?」
「……ッ!? げ、結か。心臓に悪いから音もなく背後に立つな。それとこれは液体じゃない、俺の魂の休息だ」
ボサボサの寝癖をつけた妹の結が、階段を降りてきた。
彼女は俺の淹れたコーヒーの香りを鼻でふんふんと嗅ぐと、冷蔵庫から麦茶を取り出してグイッと飲んだ。
「お兄ちゃん、連休は『絶対に家から一歩も出ない』って言ってたけど、それ本気? お父さんもお母さんも、町内会の福引きで当てた一泊二日の温泉旅行、さっき『いってきまーす』って超ハイテンションで出かけていったよ?」
「ああ。これ以上ない最高のタイミングだ。両親の不在、妹は二階でゲーム、俺は一階で読書。これぞ鉄壁の布陣。俺の聖域は今、人類史上最も安全な場所となっている」
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
俺が「安全」という単語を口にした瞬間、鼓膜を劈くようなインターホンの連打が響き渡った。
「(……ビクッ!!)」
「あ、誰か来た。あたしが出るねー」
「待て結! 出るな! そのチャイムの鳴らし方は、確実に『文明的な訪問者』のそれじゃない! 居留守だ、居留守を使うんだ!」
「えー、お兄ちゃん失礼だよ。宅配便かもしれないし」
結は何のためらいもなく、戦場の防壁(玄関のドア)をフルオープンにした。
その瞬間、俺の「魂の休息」であったコーヒーの香りは、一瞬にして上書きされた。
圧倒的な「高級ブランドの香水」の匂いと、そして――「強力な殺菌剤入りの洗剤」の匂いによって。
「さぁ朔ちゃん! おはよう! あたしが連休中、朔ちゃんの健康を二十四時間体制で管理してあげるために、泊まり込みで来てあげたよ!」
玄関の主導権を握ったのは、巨大なクーラーボックスを背負い、首からは数本のマイ包丁を吊るした幼なじみ、桃瀬 雫乃だった。彼女の後ろには、大量のニンニクが山のように積まれている。
「……桃瀬さん。他人の家に上がり込むのに、そんな野蛮な食材を剥き出しにするなんてマナー違反よ。朔、安心なさい」
雫乃を押し退けるようにして、赤い絨毯を勝手に広げながら絶対女王・若桜 葵依がエントリーしてきた。彼女の背後では、黒服のSPたちが「月島」という表札を「若桜別邸・朔の間」という純金製のプレートに付け替えようとしている。
「ちょっと待て! 何だそのプレートは! それに若桜、親は一泊二日で明日には帰ってくるんだぞ! 泊まり込みなんて許可されるはずが……」
「あら、ご両親なら心配いらないわよ」
葵依が、月島家の安っぽい玄関には全く似合わない優雅な仕草で扇子を広げた。
「お父様とお母様には、私から『日頃、朔を支えてくださっていることへの感謝』として、温泉旅行を四泊五日の豪華超大型客船・世界一周クルーズツアーの一部区間にアップグレードして差し上げたわ。今頃、太平洋のど真ん中で衛星放送でも見ながらキャビアを食べているはずよ」
「(買収されてるぅぅぅ!! うちの親、一泊二日の町内会福引きから、四泊五日の豪華客船に秒速で魂を売ってるよ!!)」
俺は愕然とした。親に借金がないのはいいことだが、まさかこれほどまでに「富」という名の暴力に脆弱だったとは。
「……安全確認、終了。一階の各出入口にセンサー配置済み。……朔、おはよう」
絶望する俺の視界に、音もなく「逆さまの顔」が現れた。
二階の吹き抜け、天井の梁からぶら下がってきたのは、銀髪のクールな騎士・三栗屋 翡翠だった。
「ひ、翡翠! お前はいつから二階に!? というかその格好、寝袋を背負ってどこで寝るつもりだ!」
「……騎士は、主君の枕元で眠るのが定石。……朔の部屋のクローゼット、奥行きが足りなかった。……だから、朔のベッドの右半分、ここを、私のキャンプ地とする」
「勝手に俺のベッドを占領するな! それに俺の部屋は四畳半だ、三人も四人も入ったら酸欠で全滅するぞ!」
俺が悲鳴を上げていると、翡翠の背後――二階の廊下から、結の肩に馴れ馴れしく手を置いた「オレンジ色の悪魔」がゆっくりと階段を降りてきた。
「あははっ、朔先輩のお部屋、すっごく整理されてて素敵でしたぁ。……あたし、こういう『男の人の一人部屋』っていう空気感、大好きですぅ」
一年の腹黒潜伏後輩、小日向 巳波だ。
「なっ……!? 小日向!? お前、いつの間に二階に!!」
「えへへ、結ちゃんとは昨日、SNSで繋がってすっかり意気投合しちゃったんですよぉ。だから今朝は、玄関で先輩たちが大騒ぎするもっと前に、勝手口からお邪魔してぇ、結ちゃんにお勉強を教えてあげてたんですぅ。……ね? 先輩のお部屋、いい匂いがしましたよねぇ、結ちゃん」
「うん、巳波ちゃんお勉強教えるのめっちゃ上手だし、あたしの知らないお兄ちゃんの『秘密のコレクション』も一緒に探してくれて、すっごくいい子だよ。お兄ちゃん、こんな可愛い子を今まで隠してたなんて不潔だね」
「(この計算高いストーカーめ……! 妹という最弱のセキュリティホールを完璧に買収して、俺がコーヒーを淹れている間に本拠地(自室)を完全に蹂躙していやがった!!)」
巳波は、結の前では「親切な家庭教師」の仮面を被っているが、俺と視線が合った瞬間、その瞳の奥はドス黒い独占欲に濁った。彼女の頭上には、俺の視界を物理的に塞ぐほどの巨大な【オレンジ色のフラグ】が、ロケットのように直立している。
ピコーン! ピコーン! ピコピコピコーン!!!!
俺の家の、狭くて、古くて、四畳半しかないはずの空間に、もはや耳鳴りに近いフラグ成立音がオーケストラのように鳴り響いた。
『両親を財力で太平洋へと放逐し、妹を甘い言葉で籠絡して本拠地を制圧! 実家という密室環境で、誰が一番「月島家の真の嫁」にふさわしいかを証明する、四泊五日の【連休・修羅場ホームステイ・フラグ】!!』
「(四泊五日……! クルーズ船が港に戻るまで、俺はこのヒロイン四人と、この密閉された一軒家で、寝食を共にしなきゃいけないのか……!?)」
俺は、先ほどまで「魂の休息」を捧げていたコーヒーのマグカップを見た。
そこには、四人のヒロインたちのあまりのプレッシャーにより、表面に細かい波紋が立ち続けている。
「さぁ朔ちゃん! あたしが世界で一番美味しいスタミナ朝食(ニンニク三倍)を作ってあげるから、キッチン貸して!」
「いいえ、月島家のキッチンでは火力も衛生面も不足しているわ。庭に設営した仮設キッチンで、私の専属シェフが松阪牛のフィレを焼くわよ。朔、さあ『あーん』の準備なさい」
「……朔。……不審な匂いが、まだ残っている。……除菌のために、まずはシャワー。……私が、洗う」
「ああっ、ダメですよぉ先輩たちぃ! 朔先輩はこれから、あたしと結ちゃんと一緒に、リビングで『連休の計画』を立てるんですからぁ! 先輩、あたしの隣、空けておきましたよぉ?」
四人のヒロインが、リビングで俺を囲み、ジリジリと、物理的にも精神的にも距離を詰めてくる。
包丁を研ぐ幼なじみ。
財力で家を「若桜領」に変えようとする女王。
護衛という名目で俺のパーソナルスペースを抹殺する銀髪騎士。
そして、妹を味方につけ、俺の部屋をすでに把握しきっている腹黒後輩。
「お兄ちゃん、連休からハーレムアニメの主人公みたいで大変だね。あたしは巳波ちゃんからもらった限定版のゲームがあるから、二階に引きこもるねー。あ、家が壊れたら若桜先輩に直してもらってね、バイバーイ」
「待て結! 兄を見捨てるな! 報酬に釣られるな! 俺はモブだぞ! ただのモブの連休が、四人の美少女による『実家占拠事件』であっていいはずがないだろうがぁぁぁっ!!」
俺の絶叫は、もはやヒロインたちの「朔の隣の席争奪戦」によって巻き起こる暴風にかき消された。
「絶対に家から一歩も出ない」という俺の籠城作戦は、開始わずか五分で、身内の完全なる裏切りによって瓦解した。
月島朔の平穏な連休は、逃げ場のない「四泊五日の地獄の修羅場・密室共同生活」へと、無慈悲に突入していくのである。
そして、俺の手の中に残された、冷え切った一杯のコーヒー。
その苦味だけが、これから始まる地獄のような四日間の、唯一の「現実」であった。




