16.密室、攻防、幼なじみ
旧体育用具室という密室で、俺、月島 朔は、1年の腹黒チョロイン・小日向 巳波に完全なる「逆壁ドン」を決められていた。
「さあ、先輩……あたしのこと、たくさん、たくさん……見てくださいねぇ」
巳波のオレンジ色の髪から香る甘い匂いと、俺の逃げ場を塞ぐように押し付けられた彼女の柔らかい感触。
至近距離で見つめてくる瞳は、とろけるような甘さと、底なしの独占欲に濁りきっている。
「(アカンアカンアカン! ここで絆されたら、俺の残りの高校生活は『ヤンデレ後輩の飼育箱ルート』に直行してしまう!)」
俺は必死に顔を背け、モブとしての尊厳を守るために抵抗を試みた。
「ち、近づくな小日向! 俺はモブだぞ! モブの唇を奪っても、ラブコメのトロフィーにはならないんだ!」
「ええーっ、そんなことないですよぉ。あたしにとっては、先輩のその無愛想な唇が、世界で一番のレアアイテムなんですからぁ……。さあ、ほら、力抜いてくださいねぇ」
巳波が、俺のワイシャツの襟元に指をかけ、ツーッと色っぽくなぞってくる。
物理的な腕力で押さえつけられているため、無理に振り解こうとすれば俺の細腕が折れかねない…。
「(……終わった。俺のファーストキスが、カビと埃の匂いがする用具室で、腹黒後輩によって強制徴収される……ッ!)」
俺がギュッと目を瞑り、来世こそは絶対にラブコメのない世界に生まれたいと思いを馳せた、その瞬間だった。
『――ちょっと待ちなさい、そこの1年!!』
バンッ!!! と、用具室の重い鉄扉が、外から激しく叩かれた。
「えっ……?」
巳波の動きがピタリと止まる。
扉の向こうから聞こえてきたのは、先ほど「プリントを取りに行った」という巳波の嘘に騙されて去っていったはずの、幼なじみ・桃瀬 雫乃の怒りに満ちた声だった。
『よく考えたらおかしいと思ったの! 朔ちゃんが放課後に「プリントを職員室に取りに行く」なんて、絶対にありえない!!』
「(……し、雫乃!?)」
『朔ちゃんはね、放課後になった瞬間にコンマ1秒の狂いもなくクラウチングスタートを決めて、1分1秒でも早く実家に帰って、冷蔵庫の麦茶を飲んでゴロゴロしたい男なんだよ!? そんな子が、自分から雑用を引き受けるわけないじゃない!!』
「(俺の解像度が高すぎる!! 嬉しいけど人間としては最低な評価だぞそれ!!)」
俺は心の中で絶叫した。幼なじみの長年の観察眼が、巳波の完璧な嘘を見事に論破してしまったのだ。
『……ええ。桃瀬さんの言う通りね』
さらに、扉の外からもう一人――いや、二人の声が追加された。
『私の生徒会のデータベースにも、月島朔が勤労意欲を見せたという記録は過去10年間存在しないわ。つまり、その1年は嘘をついている。……私の所有物を密室に連れ込むなんて、万死に値するわね』
絶対女王・若桜 葵依の、氷点下の声。
『……扉、壊す。……私の騎士様を、あのオレンジのメス猫に、汚される前に』
図書委員の銀髪クール騎士・三栗屋 翡翠の、殺意100%の呟き。
「(全滅部隊が勢揃いしやがった……!)」
扉の外で、重機のような駆動音(おそらく葵依のSPが破城槌を構えた音)が響く。
「……チッ。あの幼なじみ、めざとすぎでしょ。マジでダルい」
巳波が、先ほどの甘い猫撫で声から一転、舌打ちと共にドス黒い本性を丸出しにして吐き捨てた。
だが、ドゴォォォンッ!!! と、鉄扉がSPたちによって物理的に吹き飛ばされた瞬間。
「ヒィィィィッ!? こ、怖かったですぅ……っ! 先輩っ!!」
巳波は、俺の胸元に顔を埋め、ガタガタと震える「か弱い後輩」へと、コンマ1秒で完璧にシフトチェンジしていた。
「(こ、こいつ……! 切り替えの速度がF1カー並みだ!!)」
土煙を上げて踏み込んできたヒロイン3人の前で、巳波は涙目になりながら俺の背中に隠れた。
「ああっ、桃瀬先輩、若桜先輩、三栗屋先輩……っ! 急に風で扉が閉まって、鍵が壊れちゃってぇ……! あたし、暗くて怖くて……月島先輩に守ってもらってたんですぅ……!」
「……」
「……」
「……」
ヒロイン3人の冷ややかな視線が、巳波の「完璧な被害者アピール」と、俺に向けられた。
「……朔ちゃん。その泥棒猫の言い分は、本当なの?」
雫乃が、マイ包丁(今日は果物ナイフ)をチャキッと構えて微笑む。
「……朔。あなたがそんな『古典的な密室イベント』に引っかかるほど、安っぽい男だとは思いたくないけれど」
葵依が、スタンガンのスイッチをカチカチと鳴らす。
「……朔。……その女の匂いが、朔のワイシャツに、ついてる。……洗剤で、落とす」
翡翠が、どこからともなく取り出した『業務用の漂白剤』を掲げる。
ピコーン! ピコピコピコーン!!!
用具室の空間が、4人のヒロインたちの巨大なフラグの乱反射で、ディスコのように明滅し始めた。
『密室で後輩を守り抜いた彼に対する、先輩ヒロインたちのジェラシーと独占欲が大爆発!「私以外の女に頼られるなんて許さない」という、四つ巴の【修羅場・デッドヒートフラグ】!』
「(だから俺は何もしてない! こいつが全部仕組んだんだ!!)」
俺が真実を叫ぼうとしたが、俺の背中に隠れている巳波が、俺の腰の肉を「絶対に喋るなよ」という無言の圧力と共に、とてつもない握力でギュウゥゥッとつねってきた。
「(痛いいいいいっ!! 腹黒後輩のフィジカル強すぎる!!)」
このままでは、俺は巳波の計算高い罠にハメられたまま、ヒロイン3人に八つ裂きにされる!
どうする? 言い訳は通用しない。ならば、モブに許された唯一の生存戦略を取るしかない!
「(……逃げるが勝ちだ!)」
俺は、巳波が俺の腰をつねっている手を強引に振り解いた。
「悪いが、俺は今日の『帰宅部としての業務を遂行しなければならない! 密室イベントはこれで終了だ!!」
俺は、ヒロインたちが言葉を失っている一瞬の隙を突き、用具室の奥にある高窓に向かって、モブとは思えない跳躍力で飛びついた。
「えっ!? 朔ちゃん!?」
「待ちなさい、朔! その窓は地上から3メートルは――!」
「(モブ・エスケープッ!!)」
俺は窓枠をすり抜け、夕陽の差す裏庭へと、鮮やかな前転受け身をキメて着地した。
「朔せえええんぱあああいっ!! どこ行くんですかぁぁぁ!!」
用具室の窓から、巳波の悲痛なドス黒い絶叫が響き渡る。
「じゃあな! 俺は明日からの連休中、絶対に家から一歩も出ないからな!! お前らも良い休日を過ごせよ!!」
俺は学園の裏門に向かって、陸上のスプリンターも顔負けの全速力で走り出した。
背後からは、4人のヒロインたちが「逃がさないわよ!」「……追う」「朔ちゃあああん!」と一斉に窓から飛び降りてくる音が聞こえたが、俺は一度も振り返らなかった。
かくして、月島朔の学園での波乱に満ちた1週間は終わりを告げた。




