15.天使の仮面と密室の甘き猛毒
連休直前の放課後。
俺、月島 朔は、学園の裏手にある「旧体育用具室」で、破れた跳び箱やカビの生えたマットの整理という、体育教師に押し付けられた雑用をこなしていた。
「(素晴らしい。埃とカビの匂いしかしないこの密室。キラキラしたメインヒロインどもが絶対に寄り付かない、鉄壁の安全地帯だ)」
俺の両親は親に借金のない堅実な会社員だ。俺もまた、このカビ臭い空間でひっそりと日陰者の責務を全うし、平穏な休日を迎えるのだ。
俺が重い跳び箱の段を運ぼうとした、その時だった。
用具室の薄っぺらい鉄扉の向こう――廊下側から、何やら騒がしい男子生徒たちの声が聞こえてきた。
『小日向ちゃん! そんな重いボールカゴ、俺たちが運ぶよ!』
『そうだよ! 小日向ちゃんの綺麗な手が汚れちゃうだろ!』
「(……ん? 小日向……だと?)」
俺は跳び箱の陰に隠れ、扉の隙間からそっと外の様子を伺った。
廊下には、大量のバスケットボールが入った鉄製のカゴを押す、1年の小日向 巳波の姿があった。そして彼女の周囲には、学年を問わず十数人の男子生徒が群がり、我先にと手伝いを申し出ている。
「ええーっ、いいんですかぁ? でもぉ、この先はすっごく埃っぽくて、先輩たちのカッコいい制服が汚れちゃいますよぉ?」
巳波は、首をコテッと傾け、上目遣いで男子たちを見つめながら、とろけるような甘い猫撫で声を出した。
『うおおおおっ! なんて健気なんだ! 俺たちの服なんてどうでもいい!』
『小日向ちゃん、マジ天使!』
「ああっ、ダメですぅ! 先輩たちにそんなことさせたら、あたし、申し訳なくて夜も眠れなくなっちゃいますぅ……。お気持ちだけで、すっごく、すっごく嬉しいですからぁ。……ね?」
巳波が両手を胸の前で合わせ、ウルウルとした瞳で微笑む。
その瞬間、群がっていた男子たちは「小日向ちゃんにこれ以上負担をかけられない……!」と謎の使命感に燃え、全員が涙ぐみながら去っていった。
「(……すげえ。群がる有象無象のモブ男子を、たった数秒の『天使の微笑み』で完璧にコントロールして追い払いやがった。恐ろしいほどのアイドル力だ)」
俺が感心していた、次の瞬間である。
ガチャ、バタン。
男子たちが完全に廊下の奥へ消えたのを確認した巳波が、用具室の中へ入り、扉を閉めた。
カチャッ。
ご丁寧に、内側から鍵のサムターンを回す音が響く。
「(……えっ? なんで鍵閉めたの?)」
俺が戦慄していると、扉を背にした巳波の顔から、先ほどまでの「太陽のようなパーフェクト・エンジェルスマイル」が、まるで電源を切られたモニターのようにスッと消え失せた。
「…………はぁー、ダル。男ってホント、どいつもこいつも単細胞で助かるわー」
巳波は、低い、地を這うようなドス黒い声で独り言を呟いた。
彼女はカバンの中から、先日俺が図書室で身代わりとして脱ぎ捨てた『俺の指定ブレザー』を取り出すと、それを顔の半分が隠れるほど深く押し当てた。
「すぅーーーっ……はぁーーーっ。すぅーーーっ……はぁーーーっ。すぅーーーっ……はぁーーーっ。……あぁ、朔先輩の匂い。この埃っぽい部屋でも、先輩の匂いだけはハッキリわかるんですよねぇ、ねぇ先輩?」
「(ヒィィィィィィッ!? なんだあの狂気に満ちた深呼吸は! ここに俺がいること、完全にバレてるじゃないか!)」
俺は跳び箱の裏で、ガタガタと震えを抑えるのに必死だった。
巳波はブレザーに顔を埋めたまま、ゆっくりと、獲物を追い詰める肉食獣のような足取りで、俺の隠れている跳び箱へと近づいてくる。
「……先〜輩。そこにいるの、わかってますよぉ」
声のトーンが、再びあの「甘い猫撫で声」へと切り替わった。だが、その甘さには、致死量の毒が混ざっている。
「かくれんぼは終わりですぅ。あたし、先輩のためにお手伝いに来てあげたんですよぉ?」
「(ひぐっ……!)」
俺が逃げ出そうと立ち上がった瞬間。
巳波の並外れた身体能力が爆発した。彼女は音もなく跳び箱の上に飛び乗ると、そのまま俺の頭上を飛び越え、俺の退路を完璧に塞ぐ位置に着地したのだ。
ドンッ!
俺の背中が、冷たいコンクリートの壁に押し付けられる。
そして、巳波の両腕が俺の顔の横にダンッ!と突き立てられ、完全な「逆壁ドン」の体勢が完成した。
「捕まえましたぁ……先〜輩」
至近距離。
彼女のオレンジ色の髪から、甘いシャンプーの香りが漂う。
だが、その瞳孔は真っ黒に濁り、俺という獲物を絶対に逃がさないという異様な執着で爛々と輝いていた。
「な、なんだお前! 離れろ! 俺は用具室の整理という重要なモブ任務中で……」
「先輩を手伝ってあげる健気な後輩にそんな冷たい言葉失礼じゃないですかぁ。そ、れ、に、あたしすっごく怒ってるんですよぉ」
巳波は俺の言葉を遮り、胸ぐらをグイッと引き寄せた。
顔と顔が触れ合いそうな距離。彼女の吐息が俺の唇を掠める。
「先輩の隣にいていいのはあたしだけですよねぇ……それなのに、あたし以外の変な虫(他のヒロイン)と仲良くするなんて許せないと思いませんかぁ?」
「(なんという理不尽!!)」
「先輩のかっこいいところは、あたしだけが知っていればいいんですぅ。先輩の匂いも、先輩の無愛想な顔も、全部あたしだけのものなんですからぁ……」
ピコーン!!!!
俺の網膜に、もはや見慣れた爆音フラグが突き刺さる。
『密室での完全な包囲網! 彼の全てを独占するためなら手段を選ばない、腹黒天使の【甘すぎる監禁・独占欲爆発フラグ】!』
「(マズい、このままじゃ俺の貞操が物理的に奪われる!!)」
俺が己の全筋肉を動員して脱出しようとした、まさにその時だった。
『――朔ちゃん? 朔ちゃん、この中にいるのー?』
扉の外から、聞き慣れた声が響いた。
幼なじみの、桃瀬 雫乃だ。
「(し、雫乃!? 助かった……! いや、こいつに見つかっても地獄だが、少なくともこの密室での貞操の危機は回避できる!)」
俺が「ここだ!」と叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間。
巳波の柔らかい手が、俺の口をピタリと塞いだ。
そして彼女は、俺を壁に押し付けたまま、扉の方へと顔だけを向け――。
「ああっ、桃瀬先輩ですかぁ?」
あの、背筋が凍るほど完璧な「可愛い後輩の天使ボイス」を、瞬時に作り上げたのだ。
『えっ? その声、1年の小日向ちゃん? 中にいるの? 鍵が閉まってるみたいだけど……』
「はいぃ! すいませーん、お掃除してたら、立て付けが悪くて鍵がガチャンって降りちゃってぇ……。あ、朔先輩なら、さっき『職員室にプリント取りに行く』って言ってましたよぉ!」
息を吐くように、完璧な嘘をつく。
その間も、巳波の瞳は俺から一切逸らさず、ドス黒い独占欲にまみれた笑みを浮かべているのだ。
『あ、そうなの!? ありがとう小日向ちゃん! 職員室ね、急いで追いかけなきゃ! 閉じ込められちゃったなら、用務員さん呼んできてあげるから待っててねー!』
パタパタパタ……と、雫乃の足音が遠ざかっていく。
「(……嘘だろ。あの猪突猛進な雫乃を、声のトーンと一言の嘘だけで完全に誘導しやがった……!)」
足音が完全に消えたのを確認すると。
巳波は、俺の口を塞いでいた手をゆっくりと離し、俺の首元に両腕を回して、しなだれかかるように体重を預けてきた。
「……ふふっ。ちょろいですねぇ、桃瀬先輩」
猫撫で声のまま、巳波が俺の耳元で甘く囁く。
「これで、あたしたちの邪魔をする虫は、みーんな消えましたよぉ。……ねえ、先〜輩。鍵が開くまで、まだたぁっぷり時間、ありますよねぇ……?」
「(悪魔だ! こいつ、純粋な暴力や権力で来る他のヒロインより、よっぽどタチが悪い本物の悪魔だ!!)」
外面は誰からも愛される完璧な天使。
しかし俺の前でだけ見せるその素顔は、他のヒロインを平然と出し抜き、密室を作り上げて俺の外堀を埋めていく、計算高くて重すぎる「潜伏型のガチ恋チョロイン」。
「さあ、先輩……あたしのこと、たくさん、たくさん……見てくださいねぇ」
密室の旧用具室。
月島朔は、絶対に逃げられない後輩の甘すぎる猛毒に絡め取られ、ただ一人のモブとしての平穏が、音を立てて崩れ去っていくのを絶望と共に悟るのだった。




