弟の部屋で
ハルが帰ってきたのは、その日の夕方になってからでした。
私は、車寄せに馬車が止まる音を、ぼんやりと聞いていました。
もう何かを考える気力もなくて、ただ暗い部屋の中に突っ立っていました。
そのとき、静かにドアをノックする音が聞こえて。
「……だれ?」
「僕だよ、姉さん。……入ってもいい?」
「……」
「入るよ」
ハルはドアを開けて、しばらく部屋の入り口に立って、暗い部屋の中にいる私を見分けようとしたみたいでした。
そして、ハルは私を見つけて、私に歩み寄って、
「まだ起きてるかなって思って」
そういって、私の背中に触れました。
「姉さん、眠れないなら、僕の部屋においでよ。あったかいお茶でも飲もう?」
「……」
本当は、来てくれてうれしいって思っていたくせに、私はずっとハルから顔を背けて立っていました。
そんな私にハルは、文机の椅子にかけてあったストールを羽織らせてくれて、腰を抱くようにして。
そのとき私は、すこしだけ違和感を覚えました。
私の腰を抱く手に、いつものハルの、遠慮がちなところがなかったからでしょうか。
「姉さん」
私は何もいえなくて、ただ頷きました。
ハルの部屋。
本当に久しぶりに来た気がしました。
ハルの部屋は、もともとお父様の部屋でした。
入って右手のほうに、暖炉を挟むように応接用のソファとテーブルがあって、真正面には大きな机、左の奥のほうにベッドがあって。
落ち着いた雰囲気のこの部屋は、ハルの人となりとよく合っていて、この部屋にいるハルは、なんだか私よりずっと大人に見えました。
私たちがハルの部屋に入ったとき、応接用のソファにはクルが座っていて、私たちの姿を見て立ち上がりました。
「苦情やら陳情やら、たくさん溜まってましたよ」
「いや明日にしよう。明日の朝、また来てくれ」
「かしこまりました」
「それから、お茶と軽い食事を持ってくるように、誰かに言っといてくれ」
「お茶ですか? 眠れないときは、温めた牛乳がいいって爺さんが言ってやしたが?」
「そうか? ……姉さん、どう?」
私は、ただ頷きました。
クルが出て行って、私たちはクルが座っていたのと反対側のソファに座りました。
私は手を握りこぶしにして膝の上にのせて、うつむいてじっとしていました。
ハルはそんな私の頭をなでてくれました。
お姉ちゃんを子ども扱いしないで。
そんな言葉がのどのところまで来て、でも、やめられたらどうしようって思って、口には出せませんでした。
そのままふたりで、ソファに並んで座っていました。
ふたりとも何も話さなくて、暖炉にくべられた薪のはぜる音が聞こえていました。
明るくて温かい、ハルの部屋。
どうしてでしょうか……目に涙があふれて、とまらなくなりました。
ハルは何も言いませんでした。
私に寄り添うようにして、私が泣いている間ずっと、私の背中をなでてくれました。
牛乳を飲んで、クラッカーを食べて。
そのあとは、ハルの肩に頭を預けてぼんやりしていました。
頭の中に、いろんなことが浮かんでは消えていって。
私は、なんとなく思いついたことを、そのまま言葉にしていました。
「……ねえ、ハル。明日からまたお仕事するの?」
「うん」
「体、大丈夫なの? へーき?」
「うん」
「向こうで、ちゃんと眠れたの?」
「うん」
「狩りは、どうだった? うまくいった?」
「うまくいったよ。……獲物、見る?」
「え……見たくないよう」
「うん……そう言うと思って……埋めてきた」
「なあに、それ」
変なの。私は、そう思っただけでした。
とりとめもなく話していると、柱時計の鐘が鳴り始めました。
鐘の音は十二回聞こえて、そしてまた、部屋はシンとしました。
「姉さん、今日は僕の部屋で寝ようよ」
「……うん」
「おやすみ、姉さん」
「……おやすみ、ハル」
ふたりでベッドに入って、おやすみの挨拶を交わしました。
しばらくすると、ハルの規則正しい寝息が聞こえてきました。
聞いていると、とても気持ちが落ち着きました。
おふとんから手を出して、ハルの頭をなでました。
さっきのお返しです。
ハルのやわらかい髪の毛の感触がとても心地よくて、ずっとなでていたい気がしました。
そんなことをしていると、また、頭の中にあのときの光景がよみがえりました。
私は、おふとんにもぐってハルに抱きついてみました。
ハルの体は温かくて、ハルのにおいがして……。
かくれんぼをしているみたい。
頭の中で、わざと「こわいよう、こわいよう」って言いながら、ハルにくっついていました。
怖いのに、どきどきして、安心できて……。
私はおふとんから顔を出しました。
ハルの寝息は途切れることなく続いています。
おふとんの中のハルの手をにぎって目を閉じたら。
私は、安心して眠ることができました。




