第2章:完璧なオセロ
ジリジリと肌を焼くような陽射し。
アスファルトから立ち上る蜃気楼の向こうで、麦わら帽子を被った少年が俺に向かって手を振っていた。
「……ともや! 智也、ボーッとしてんなよ! 遅刻するぜ!」
甲高い声。
見覚えのある顔だ。小学校時代の親友、大樹だった。彼は俺より少し背が低く、日焼けした顔に絆創膏を貼っている。
俺はゆっくりと自分の両手を見下ろした。
小さく、ふっくらとした手。キーボードを叩き続けてできたタコも、ストレスで荒れた指先も、そこにはない。
背中には重いランドセルの感触。足元には泥だらけの瞬足スニーカー。
交差点のカーブミラーに映る自分の姿を見て、俺は息を呑んだ。
黄色い通学帽を被った、小学四年生の俺が、そこで目を丸くしている。
(……マジかよ。本当に、戻ってきたのか)
あの薄汚れた居酒屋で、謎の女・レイと交わした奇妙な契約。
あれは幻覚でも夢でもなかったのだ。俺は今、三十年の時を巻き戻し、1996年の夏に立っている。中身は四十歳の擦れっ枯らしのオッサンのまま。
「おい、智也! 置いてくぞ!」
「あ、ああ! 今行く!」
駆け出しながら、俺の胸の奥底からドクン、ドクンと激しい鼓動が湧き上がってきた。
恐怖ではない。それは、何十年ぶりかに味わう「希望」という名の麻薬だった。
* * *
教室に入ると、ワックスと古い木の匂いが鼻を突いた。
騒がしい笑い声。チョークの粉が舞う光景。すべてがノスタルジーの塊だったが、感傷に浸っている暇はなかった。
朝のホームルーム前。
教室の後ろで、俺の人生の「最初の後悔」が、まさに今、始まろうとしていたからだ。
「おい洋平、お前んとこの母ちゃん、昨日スーパーの試食コーナーでめっちゃ食ってたぞ! 貧乏人!」
クラスのガキ大将である剛が、小柄で大人しい洋平の筆箱を奪い上げ、ゲラゲラと笑っていた。取り巻きの男子たちも愛想笑いを浮かべている。
洋平は顔を真っ赤にして、泣き出しそうになりながら下を向いていた。
――元の人生での俺は、この時、自分の席で震えていた。
剛の標的が自分に向くのが怖くて、必死に算数のドリルを見つめるフリをして、洋平を見殺しにした。それがきっかけで洋平は不登校になり、俺は「自分は卑怯者だ」という呪いを長年抱えることになったのだ。
だが。
(……くだらねえ)
四十歳の俺から見れば、剛なんてただの「イキった十歳のガキ」でしかない。
クレーマーまがいの取引先のオヤジや、理不尽に怒鳴り散らすパワハラ上司に比べれば、児戯にも等しい。
俺はゆっくりと立ち上がると、剛たちの輪に向かって歩き出した。
クラスの空気が、少しだけピリッとする。
「おい剛。その辺にしとけよ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、静かだった。
「……あ? なんだよ智也。お前、文句あんのか?」
「文句っていうかさ」
俺は剛の目の前に立つと、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
怯えは一切ない。大人が駄々をこねる幼児を諭すような、圧倒的に冷ややな視線。
「お前、洋平の筆箱取って何が楽しいの? それ、洋平のお母さんが一生懸命働いて買ってくれたやつだろ。それを馬鹿にするって、お前んとこの親はそういう教育してんのか?」
「なっ……!?」
剛が怯んだ。
十歳の小学生が使う語彙ではない。俺から発せられた見えない「大人の威圧感」に、剛の取り巻きたちも一歩後ずさりした。
「それに、お前のやってること、超ダサいぞ。強い奴に立ち向かうならともかく、言い返せない奴を大勢でイジメて喜んでるなんて、一番カッコ悪いだろ」
「う、うるせー! お前には関係ねーだろ!」
「関係あるよ。俺のクラスで、そういう胸糞悪いことされると、俺の気分が悪いんだわ」
俺は剛の手から、スッと筆箱を抜き取った。
剛は抵抗できなかった。俺の目に宿る「これ以上やったら、社会的に殺すぞ」という営業マン特有の冷徹な殺気に、完全に気圧されていたのだ。
「……チッ、覚えてろよ!」
捨て台詞を吐いて、剛は逃げるように自分の席へ戻っていった。
教室中が、しんと静まり返っていた。
俺は筆箱を洋平の机に置いた。
「ほらよ。もう大丈夫だ」
「あ……ありがとう、成瀬くん」
洋平の目からポロリと涙がこぼれ、クラスのあちこちから、ほっとしたような息遣いや、「智也、すげえ」という囁き声が聞こえ始めた。
その瞬間。
俺の脳内で、真っ黒だったオセロの盤面が、カチャン、と音を立てて純白にひっくり返ったような気がした。
(……やれる)
俺は拳を強く握りしめた。
過去の後悔を、すべて塗り替えていける。
テストの答えも、時代の流れも、大人の対応も、すべて知っている俺なら、これからの人生を完全な「イージーモード」で進めることができる。
窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。
待っていろ。
中学受験も、憧れだった外資系企業への就職も、そして……高校時代の初恋の高嶺の花、葵のことも。
今度こそ、俺は「完璧な人生」を手に入れてみせる。
それからの俺の人生は、まさに裏技を使ったゲームのようなものだった。
四十歳の精神年齢と、論理的思考能力。それに加えて「過去の失敗から学んだ教訓」という最強の攻略本を持っているのだ。
中学時代の勉強など、少し復習すれば満点が取れた。部活動でも無理をして怪我をすることなく、効率的なトレーニングでそこそこの成績を残し、周囲からは「文武両道の天才」ともてはやされた。
そして、俺は県内トップの進学校へと余裕で合格を果たした。
高校に入学してすぐ、俺は「彼女」と再会した。
篠原葵。
透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。成績は常に学年トップクラスで、元の人生では、俺など口をきくことすら許されないような高嶺の花だった。
元の人生の俺は、彼女を遠くから見つめているだけの、ただのモブキャラだった。
だが、今の俺は違う。
図書室で、高い棚の本を取ろうとして背伸びをしている葵を見つけた時。
元の人生の俺なら、顔を赤くして通り過ぎていただろう。しかし、俺は自然な足取りで彼女に近づき、スッとその本を取って渡した。
「ほら。これ、面白いよね」
「あ……ありがとう。成瀬くん、だよね。この本、読んだことあるの?」
「うん。でも、高校生が読むにはちょっと翻訳が硬いかな。原書で読んだ方が、筆者の皮肉が効いてて笑えるよ」
四十歳の知識と、大人の余裕。
同世代の男子たちが、自意識過剰で幼稚なアピールを繰り返す中、俺の落ち着いた態度は、大人びていた葵の目にひどく魅力的に映ったらしい。
俺たちは自然と惹かれ合い、付き合うようになった。
誰もが羨む、美男美女のパーフェクトカップル。文化祭でも体育祭でも、俺たちは常に主役だった。
手を繋いで歩く帰り道、夕日に染まる彼女の横顔を見ながら、俺は確信していた。
『ああ、これが正解だ。俺はついに、完璧な青春を手に入れたんだ』と。




