第1章:40歳の終着駅と、奇妙な契約
四十歳。
昔の人はこの年齢を「不惑」と呼んだらしいが、ひどい嘘だ。
俺、成瀬智也の心は、惑い続けている。いや、惑うエネルギーすらとうに枯れ果てて、ただ後悔という名の泥水の中でゆっくりと腐敗しているだけだった。
「……すいません、生ビール、もう一杯」
薄汚れた赤提灯の居酒屋。
刺すような蛍光灯の光の下、俺は油の染み付いたテーブルに突っ伏すようにして、ぬるくなった枝豆をかじっていた。
今日、俺は四十歳の誕生日を迎えた。
祝ってくれる人間は誰もいない。中堅専門商社の平社員である俺のスマートフォンは、朝から一度も鳴っていない。
――もし、あの時、違う選択をしていれば。
何杯目かのアルコールが脳を麻痺させても、その呪いのような言葉だけは消えてくれなかった。
小学校の時、クラスの中心だったガキ大将に逆らえず、いじめを見て見ぬふりをしたこと。
高校の時、本当に好きだった高嶺の花、葵に声をかける勇気すら持てなかったこと。
就職活動で早々に妥協し、今の斜陽企業に逃げ込んだこと。
そして。
今、この瞬間も、狭いマンションで一人起きているであろう妻、美咲のこと。
かつては、100円のカップラーメンを二人ですすりながら「美味しいね」と笑い合える女だった。
だが、今の俺たちに会話はない。
仕事のストレスと自己嫌悪を抱え込んだ俺は、彼女の笑顔を直視できなくなり、いつしか背中を向けた。仮面夫婦という言葉すら生ぬるい、ただの同居人になってから、もう何年が経つだろうか。
「俺の人生……どこで間違えたんだろうな」
グラスの底に残ったビールを見つめ、自嘲気味に呟いた。
すべてをやり直したい。
だが、人生にリセットボタンなんて存在しない。四十歳という年齢は、人生の終着駅のホームに立たされているようなものだった。
「お誕生日おめでとう、智也くん。なんだか、自分のお葬式に参列してるみたいな顔ね」
不意に、鈴を転がすような、それでいてどこか哀愁を帯びた声が鼓膜を揺らした。
顔を上げると、いつの間にか向かいの席に女が座っていた。
年齢は分からない。二十代にも見えるし、俺と同じか、それ以上にも見える。漆黒のワンピースに身を包んだその女は、手にした細長い煙草から、紫煙をふわりと吐き出した。
煙の向こう側で、長いまつ毛に縁取られた瞳が、値踏みするように俺を見つめている。
「……誰ですか、あんた。相席なんて頼んでないぞ」
「あら、冷たいのね。迷える子羊を救いに来てあげたのに」
女はクスリと笑った。
こんな安居酒屋には場違いなほど美しい女だった。周囲の酔客は誰一人として彼女の存在に気づいていない。まるで、世界からそこだけが切り取られているような、奇妙な感覚。
「私の名前は、レイ。ねえ、智也くん。人生の返品交換、興味ない?」
「……は?」
「あなたのその『後悔だらけの人生』、私が特別に引き取ってあげるって言ってるの。もう一度、小学生からやり直させてあげるわ」
何を言っているんだ、この女は。
新手のキャッチセールスか、宗教の勧誘か。それとも、俺がついに狂って幻覚を見ているのか。
「馬鹿馬鹿しい。酔っ払いをからかうな」
「本気よ」
レイは煙草を灰皿に押し当て、スッと身を乗り出した。
ふわりと、どこかで嗅いだことのあるような、懐かしくて胸が締め付けられるような匂いがした。
「ルールは簡単。あなたは目を覚ましたら、小学四年生に戻っている。記憶を持ったままね。いじめっ子を倒すのも、初恋のあの子と結ばれるのも、大企業でエリート街道を突っ走るのも、あなたの自由」
「…………」
「ただし、条件が一つだけあるわ」
レイの瞳が、スッと細められた。
そこには、底知れぬ深淵のような光が宿っていた。
「あなたがもう一度『四十歳』になった時。つまり、今この年齢までやり直した人生を進めた時――『元の人生』と『やり直した人生』、どちらを生きるかを選択してちょうだい。そして、選ばなかった方の人生は、私がもらうわ」
背筋に冷たいものが走った。
悪魔の契約。そんな言葉が脳裏を過る。
だが、彼女の瞳の奥には、邪悪さよりも、もっと深く、切実な何かが隠されているように見えた。
「……選ばなかった方を、あんたがもらう? あんたの目的は何だ?」
「さあ? ただのコレクション趣味かもしれないわよ」
レイは悪戯っぽく微笑むと、テーブルの上にあった紙のコースターを裏返し、万年筆と共に俺の前に滑らせた。
「サインをすれば、契約成立。さあ、どうする?」
狂っている。
こんなもの、信じる方がどうかしている。
だが、俺の震える右手は、吸い寄せられるように万年筆を握っていた。
脳裏に浮かぶのは、薄暗い部屋で一人膝を抱える美咲の背中と、何者にもなれなかった自分の無様な姿。
どうせ、今の人生には一ミクロンの価値もない。
失うものなど、何もなかった。
「……後悔、するなよ」
俺は半ば自棄になりながら、コースターの裏に『成瀬智也』と殴り書きをした。
「ええ。あなたこそ、後悔しないようにね」
レイが満足げに微笑んだ瞬間。
鼓膜を突き破るようなノイズが鳴り響き、視界が強烈な白い光に包まれた。
居酒屋の喧騒も、蛍光灯の光も、レイの姿も、すべてが溶けていく。
光の奔流の中で、俺は確かに聞いた。
『いってらっしゃい。どうか、あなたの本当の幸せを見つけて』
その声は、なぜか少しだけ、泣いているように聞こえた。
――チリリン、チリリン。
遠くで、自転車のベルの音がする。
鼻をくすぐるのは、アスファルトの焦げる匂いと、麦茶の香り。
そして、耳をつんざくような、狂ったような蝉時雨。
「……ともや! 智也、早くしないと遅れるぞ!」
俺は、ゆっくりと目を開けた。




