79. エピローグ
エリナを奪還し、白陽の使徒を討伐してから三日が経った。
あれほど大きな事件があったというのに、ザルツブルグはいつもと変わらない日常が流れていた。それもこれも冒険者や騎士団の迅速な対応のおかげだ。
怪我人はいたものの、死者はおらず、使徒の配下たちを討伐した。この功績は、いつもなら傍観しているシャスティルハーニャ教が協力したのも大きかっただろう。
そんなこんなで、たったの三日で話題にたまに出る程度までに埋まっていった。
『昨日未明、ザルツブルグ郊外に位置するカサンドラ教の教会から隠し通路が発見されました。捜査関係者がいうには、異教徒の侵入ルートと見て間違いないとのことです。同時に教会の責任者が一斉に行方を晦ましたことが明らかとなり、〝旧時代の宗教〟となにか関係があるのではないかと、今も行方を追っているとのことです。続きまして――――』
セキネツ武具店の休憩室。武装の整備が終わり、休憩がてらリックとカンナの二人はだらんとソファに背を預けながら大画面の薄型テレビに移されるニュースを眺めていた。
「今回も色々あったねぇ」
「そうだな。エリナと出会いが、まさかこんなことになるとは思わなかった」
「寺院出身のシスターで、その彼女が聖女になって、攫われて、エリナちゃんも大変だったよねぇ。もう、しばらくはなにもあってほしくないよ」
「だな。まあ、魔力が回復するまでの間、ナタリアがザルツブルグに滞在するらしいし、安心してもいいんじゃないかな」
「それは安心だ。ここは平和な魔境だし、ご飯も美味しいし、聖女様には魔力回復がてら楽しんでってほしいね」
「平和な魔境があってたまるか、って話だがな」
「ははっ、ここにありまーす。とか言ってみたりして」
何気ない会話をしながら、冷たいお茶を啜った。
「エリナちゃんはその後どう?」
「領域に当てられて疲弊はしていたけど、数日休んだら元気になった。昨日あたりから、依頼で診療所の手伝いをしてる」
「そっかぁ。よかった。元気になって」
使徒に乱暴されてトラウマになっていないか、リックは心配していたが、男性に恐怖を覚えたりはせず、けろっとしていて安心した。本人いわく、なんともないようだ。
「おっと。もうこんな時間か」
リックは時間を見て、立ち上がって帰る準備をする。
「今日はどうする? うちで食べてく?」
「いや、エリナが用意してくれてると思うから」
「いいなぁ。エリナちゃんの手料理を毎日食べられて。うやらましいよ」
「俺も作ってるぞ」
「たまにでしょ? 勝手に作るとエリナちゃん落ちこんじゃうもんねぇ」
「うっ」
なんで知ってんだよ、とリックは思いながら誤魔化すように咳払いをした。
「まあ、なんだ。エリナに言っておくから今度食べに来るか?」
「ホントに! いくいく、いきます! 約束ね!」
「約束だ。んじゃ、おやすみ」
「おやすみぃ」
カンナに挨拶をしてリックはセキネツ武具店を後にした。
まっすぐ自宅に帰ったリックは「ただいま」と玄関を開けると、「おかえりなさいませ」とエリナが出迎えてくれた。今では慣れた光景ではあるが、最近まで想像もしていなかった光景で、こそばゆかった記憶も新しい。誰かが出迎えてくれる。それだけなのに心から、ほっ、と安心感と温かさに包まれるのは不思議な感覚だ、とリックは思う。
「ご飯の用意はもうできてます。それとも、先にお風呂に入りますか?」
「先にご飯を食べよう」
この会話も数年間、リックにとって聞くことのなかった言葉だ。時折、同じ冒険の仲間だというのに主従関係のようで少しだけもどかしいかぎりだが、エリナの意思を尊重しようとすると拒絶できない。今の関係に甘えてしまっているのかもな、とリックは思う。
エリナとともに食事をして、先に彼女を風呂に入らせ、次にリックが風呂に入り、自室で夜風に当たる。この流れもいつもと変わらない。
あれから、エリナの種族名が『人間?』から『人間のクォーター』と変化していた。なにがどうあって変化したのかは不明だが、全員が口をそろえて、神様も悩んだんだろう、という結論でこの話は終わっている。エリナの場合、経緯はどうであれ複数の種族の混血であることは明確なので納得のできる変化ではある。
「あの項目って変化するんだなぁ」
リックはそう呟きながら冷たい水を飲んだ。そろそろ寝ようと、リックが立ち上がると同時にドアが開いてエリナが入室してきた。
「どうしたんだ?」
「……。いえ、ちょっと眠れなくて」
なにか言いたげに、もじもじと指を絡ませているエリナ。リックは、どうしたのかな、とドアの前で立ち止まる彼女の前に立った。
「エリナ?」
俯くエリナの顔を覗くようにリックが声をかける。
様子が変だった。感情の起伏が少ないとはいえ、そのぶん言葉で補っている彼女が無言を貫いている。先程まで普通に会話をして食事までしていたというのに。
リックは思わず心配になった。今になって領域の後遺症が出たのか、使徒に関してトラウマができたのかと考えを巡らせた。
すると、エリナの手がゆっくりとリックの胸に押し当てられる。そして、ぐっと押し込まれたリックはなにかの意思表示かと思って逆らわずに足を下げた瞬間、さらに押し込まれてエリナの足が前に出る。
勢いを殺し切れないと思ったリックは後退し、その度にエリナが前進する。
「ちょ、エリナ。いったいどうしたんだ? なにか言ってくれないか?」
リックは慌てて問いかけるが、それでもエリナは押すのをやめない。
ついに、背後にあったベッドにリックの足が引っかかり、そのままエリナに押し倒される形でリックは仰向けで倒れた。
しばしの沈黙。リックの上でうつ伏せに倒れたエリナ。完全に密着した状態となり、服ごしからじんわりと体温がリックに伝わっていく。
洗剤とエリナの匂いが交わった香りが鼻腔を擽った。
エリナの体の感触。柔らかい生地の服がわずかに擦れるたびにその肉感が伝わって、あまりこういうのに慣れていないリックは、思わずドキドキしてしまった。
「エリナ……」
戸惑いながらも、もういちどリックが名前を呼ぶ。
エリナと目が合う。ほんのりと顔を赤く染め、とろんと潤ませた瞳を覗かせる彼女と。
そして、エリナはゆっくりと上半身を起き上がらせた。
「リックさんはどうしてここまで良くしてくれるのですか?」
「どうして、って……そりゃ、困っていたから、だが?」
まだ頭が混乱しているリックは言葉を絞り出した。
「嘘です」
だが、リックが頑張って出した返答をエリナは否定した。そして、彼女は言葉を続ける。
「ほかになにかあってもおかしくありません。いえ、そうであってほしい。なんでもいいですから、もっと私を求める理由があってくれないと困ります」
見下ろすエリナは、必死にまるで訴えかけるようだった。
「ど、どうしたんだ? なにかあったのか?」
リックは問いかけに、エリナは目を反らした。
「……すみません。こんなの初めてで、私もどうしていいのかわからないのです」
そう言ってエリナは再びリックの上に寝そべる。リックの胸に耳を当てるようにして。
「……。リックさんの鼓動が聞こえます。とてもドキドキしてます」
「そ、そりゃ、こんなにも密着されたらな」
リックにもエリナの強く波打つ鼓動を熱を介して伝わってきていた。
「そうなんですね。私は、不思議と安心しています。リックさんが暖かくて、それでいて優しくて……。白陽の使徒に乱暴されそうになったとき、リックさんがどれだけ大切にしてくれてたのかを改めて思い知りました。ここですべて奪われてしまうんだ、って思うとリックさんが思い浮かんで。悲しくなって。でもリックさんは助けに来てくれて。嬉しかった。それに抱き締めてくれて。カンナさんとは違う温かさが、そこにはありました」
大切な思い出を語るかのように、淡々とした口調のエリナの声音から温かみを含んだものをリックは感じ取った。それは今までになかったエリナの確かな変化だった。
「それでも、私には手を出しませんか?」
「手は出さんよ」
「どうして? どうして、そうはっきりと言えるのですか?」
「いや、あの、ちょ……っ!」
「あなたにも欲望があるのではないのですか? 強く、強く、求めるような情欲が」
エリナが淡々と訴えかけるたびに、徐々にリックを這い上がってくる。そのたびに吸いつくような柔らかさと確かな弾力の大きな胸が、ずっ、ずっ、とリックの身体を這う。
その柔らかい感触に刺激され、体を這うたびにリックの身体が痙攣を起こした。
(うぉっ、柔らかいっ! ――ぐっ! 柔らかい!)
掌で味わったあの感触が、今度は自分の上半身が味わっている。そして、エリナの匂いがそれを拍車をかける。この肉感を堪能したい欲望にリックは駆られた。
心臓が強く鼓動する。体に力が入る。そして熱い。周囲の音が遠くなり、自分とエリナの息遣い、そして鼓動だけが鮮明に聞こえた。得も言われぬ熱が腹の底から湧き上がってくる。理性がどこかにいきそうだった。
それでもリックは必死に耐えた。その間に、エリナと視線が重なる。
彼女はリックを見下ろしていた。天井が見えるはずのその視線の先に月明かりに照らされ、より美しく映るエリナの姿がそこにあった。その姿にリックは思わず目を見開いた。
「私は、あなたさまとなら……………………」
ゆっくりと目を細めたエリナの顔が近づいた。そして、あと少しのところで彼女は思い留まるように顔を離した。そして、少しの間を開けて再び口を開けた。
「いえ、これ以上はカンナさんに悪いですね」
なぜそこでカンナの名前が、とリックは不思議に思った。
「すみません。私自身、まだ気持ちの整理ができていませんでした。今回のことは水に流してはもらえないでしょうか?」
「………………。あ、いや、いいんだ。気にするな」
脈絡もなく始まった彼女の言葉と行為に戸惑うリックは許した。なにがどうして、まったくといっていいほど、状況を理解していないリックが出せるその言葉が精一杯だった。
「この先の言葉は、将来にとっておきます。いつかそのときが来たら、この胸のうちの気持ちを聞いてくださいますか?」
「わかった。そのときが来たらちゃんと聞く」
「約束、ですよ」
エリナがどういう気持ちを秘めているのかはリックには皆目見当がつかない。だけど、それは無理やり訊いてはいけないものだと理解し、話してくれるまで待つことを選んだ。
なんだか、なにもかもがうやむやになった感じだが、今はそれでいい、とリックは安堵の息をついた。よくわからない疲労感を感じながらリックは脱力した。
油断したその時だ。エリナの唇がリックの頬にキスをした。
「これはほんのお礼です」
リックはなにが起こったのか理解できなかった。そんな間にもエリナは平然とした様子でリックから退いて、ベッドから降りて、ドアのほうに向かっていく。
あまりの衝撃に、思わず飛び起きたリックはエリナの背中を追った。
エリナはドアを開け、こちらに振り向いて微笑した。
「おやすみなさい」
エリナはそう言って部屋から出ていった。
ガッチャン、とドアが閉まる音とともに部屋に静寂が戻った。
放心状態のリック。エリナの柔らかな唇の余韻が残る頬を触れ、ベットに寝転がった。
「なんだったんだろう……」
キスの意味を考え、リックは、やめよう、とエリナの言葉を思い出して、やめた。
「寝よう」
気持ちをリセットしようと布団を被って目を閉じた。
数分もすれば落ち着くだろう、と思った。
だが、湧き上がった欲望はどうにもならなかった。それも目を閉じたとこで先程のエリナを思い浮かんで、感触が、匂いが、さらに欲望を湧き上がらせた。
リックも男だ。湧き上がった欲望はとうぜん決壊する。
ガバッ、と跳ね起き。
スッタッタッタッタ、ガチャ、とドアに鍵をかけ。
スッタッタッタッタ、ストン、ギィ、椅子に座って棚を開け。
ティッシュをドーーン!
――
早朝。
リックはまだ太陽が上がっていない時間帯から、ドラム缶を切り抜いて作った焼却炉で、一箱ぶん使い切った使用済みティッシュをほかのものと一緒に焼いて処分していた。
「おはようございます」
すると、洗濯籠を持ったエリナが家から出てきた。
「……、ああ、おはよう」
いつものように挨拶を交わし、リックは手作りの焼却炉に目を向ける。
「今日は朝が早いのですね」
「ちょっとな…………ちょっと、夜食用の乾物を腐らせてしまったから焼いているんだ」
「そうなのですね」
それっぽい言い訳を並べたリック。納得したエリナも同じように焼却炉を見つめる。
「エリナも朝が早いんだな。洗濯物までもって」
「はい。昨夜、部屋に戻ってからというもの、体の火照りが収まらなかったので慰めていました。でも、一人で盛り上がりすぎてしまって、色々と汚してしまったので洗いに」
「……、」
静けさが漂う中、リックはまだ薄暗い青空を仰いで口を開く。
「そういうのは言わなくていいんだぞ」




