第十三章 雨の夜
降りしきる雨の中、晴人は尚人と対峙する。
積み重なった怒りと痛みの果てに、ついに取り返しのつかない一線を越える。
尚人を呼び出したのは、四月の終わりの雨の夜だった。
昼から降っていた雨は、夜になってもやまなかった。
街灯の下では白く、暗い道では黒く見える雨だった。
「話がある」
それだけ送ると、尚人は意外なほどすぐに来た。
待ち合わせたのは、駅から少し離れた古い立体駐車場の脇だった。
人通りは少なく、車の出入りもほとんどない。
雨音がコンクリートに跳ね返り、会話を周りから切り離してくれるような場所だった。
尚人はフードを被ったまま近づいてきた。
「何だよ、こんな時間に」
「少し歩こう」
「雨なんだけど」
「いいから」
尚人は面倒くさそうに肩をすくめたが、ついてきた。
駐車場の裏手、街灯の光が届ききらない場所で、僕は立ち止まった。
「紬のこと、どう思ってる」
尚人は目を細めた。
「またその話?」
「答えろ」
「悪かったと思ってるよ」
「それだけか」
「じゃあ何て言えば満足なわけ?」
尚人の声に、苛立ちが混じった。
「俺だって、あんなことになるとは思ってなかった。兄貴、ずっとその顔で俺を見るけどさ、全部俺だけのせいみたいに言うなよ」
「違うのか」
「紬だって俺に頼ってきたし、俺だけが一方的だったわけじゃない」
その言葉で、胸の奥に溜め続けていたものが、一気に煮え立った。
「頼る?」
僕は笑ってしまった。
自分でも知らない、冷たい笑いだった。
「十七の子が、父親が欲しくて手を伸ばしただけだろ」
尚人の顔色が変わる。
「兄貴にはわかんないよ」
「何が」
「兄貴はいつも正しい側にいる。責任感があって、ちゃんとしてて、だからそういう目でしか見れないんだろ」
尚人は一歩近づいた。
「でも俺は違う。俺は、あの子が普通に俺に笑って、普通に頼ってきたから、そういうもんだと思った。何がそんなに悪いんだよ」
僕は、その瞬間、何かが切れる音を確かに聞いた。
工具袋の中には、会社帰りに車載用品店で買ったレンチが入っていた。
「もしものために」と自分に言い訳しながら買ったものだ。
その“もしも”が、今ここに来た。
尚人はまだ何か言っていた。
でも、もう耳に入っていなかった。
気づけば、僕はレンチを握っていた。
「兄貴?」
一度目は、肩に当たった。
尚人がバランスを崩し、滑った足元で尻もちをつく。
「ちょっと待て、何して——」
二度目は、頭だった。
鈍い音がした。
雨音が一瞬遠ざかる。
尚人が倒れた。
でもまだ、かすかに動いていた。
僕は立ち尽くした。
やめるなら今だった。
警察を呼ぶなら今だった。
でも、その時の僕の頭の中には、紬の手紙と、知佳の濡れた目しかなかった。
三度目を振り下ろした時、もう何も聞こえなかった。
雨が降っていた。
尚人の顔に、血と雨が混じって流れていた。
目は開いたままだった。
僕はその目を見て、ふと思った。
紬も、最後にこんなふうに、誰かの返事を待っていたのだろうか。
その考えが、遅れて僕を貫いた。
何をしてしまったのか。
それでも同時に、どこかで奇妙な静けさがあった。
終わった。
そう思った。
でも、終わりなんて始まってもいなかった。




