表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/16

第十二章 依頼

生きる意味を失った知佳が、晴人に託した歪んだ願い。

愛と絶望は、やがて許されない形へと姿を変える。

紬の四十九日が過ぎた頃から、知佳は少しずつ壊れ始めた。


最初は、食事をしなくなった。

次に、眠れなくなった。

夜中に目が覚めると、紬の部屋の前に座っていることがあった。

朝になると、何もなかったように身支度をして仕事へ行く。けれど帰ってくると、また空っぽになっていた。


「病院、行こう」


何度も言った。

でも知佳は首を振るだけだった。


「病気じゃないから」


「病気じゃなくても、助けてもらえる」


「助からなくていい」


最初、その言葉の重さを甘く見ていた。

ただの投げやりな愚痴だと思おうとしていた。


でも、ある夜、知佳ははっきり言った。


「私を殺してほしい」


僕は聞き返すこともできなかった。


リビングの照明は半分だけついていて、知佳の横顔に影が落ちていた。

彼女は泣いていなかった。

泣いていないことが、かえって怖かった。


「…何言ってるかわかってる?」


「わかってる」


「ふざけるな」


「ふざけてない」


知佳は僕を見た。


その目は、濡れていた。

でも悲しみだけじゃない。

憎しみ、諦め、空虚、そういうものが濁って混ざった瞳だった。


「自分で死んでも意味がないの」


「意味って何だよ」


「自殺だと保険がおりない」


僕は一瞬、言葉を失った。


「何言ってるんだ……」


「私、紬に何も残せなかったから」


「紬はもう——」


その先を言えなかった。

言った瞬間に、それが絶対の事実になる気がした。


知佳はゆっくり続けた。


「せめて最後に、何か残したい。私が死んだら、少なくともお金だけは——」


「やめろ」


僕は思わず声を荒げた。


「そんなことのために、お前を殺せるわけないだろ」


「晴人さんしか頼めない」


「頼むな!」


知佳は、それでも静かだった。


「私、もう無理なんです」


「無理でも生きるんだよ」


「どうやって?」


その一言に、僕は詰まった。


どうやって。

たしかに、その問いに答えられるほど、僕は彼女の痛みを知ってはいなかった。


「紬が死んでから、ずっと考えてる。どうして私はまだ生きてるんだろうって」


「知佳………」


「晴人さんといると、少しだけ楽になる。でも、その分、もっと苦しくなるの」


「なんで」


「普通の幸せを思い出すから」


知佳は、そこで初めて涙を落とした。


「紬がいたらって、考えちゃう。三人でご飯食べて、笑って、たまに喧嘩して、そういう未来があったかもしれないって。そんなの、考えない方が楽なのに」


僕は彼女を抱きしめた。

知佳は最初、抵抗しなかった。

でも腕の中で、小さく震えながら言った。


「終わらせて」


「無理だ」


「お願い」


「無理だ」


「……私も、愛してる」


その言葉が何より残酷だった。


愛しているから死なせてほしい。

愛しているから終わらせてほしい。


そんな理屈があっていいはずがないのに、その時の僕は、彼女を突き放せなかった。


それから何度も、知佳は同じことを言った。


私を殺して。

終わらせて。

お願い。


僕は毎回拒んだ。

拒んだはずなのに、そのたびに知佳の絶望だけが深くなっていった。


そしてある夜、知佳は別の言葉を口にした。


「じゃあ、せめて」


「何」


「尚人くんを殺して」


部屋の空気が止まった。


「……本気で言ってるのか」


「本気です」


知佳はゆっくりと僕を見た。


「紬は最後に、尚人くんに電話してる」


「…………」


「助けてって言ったのかもしれない。怖いって言ったのかもしれない。それなのに、あの人は、今も何もなかった顔で生きてる」


「知佳」


「私は、紬を失って、毎日死んでるのに」


その声は怒鳴り声じゃなかった。

だからこそ恐ろしかった。

感情を燃やし尽くした後に残る、灰みたいな声だった。


「お願い」


知佳は、膝の上で両手を組み、まっすぐ僕を見た。


「晴人さんしか、頼めない」


その時、僕の中で何が揺らいだのか、今でもうまく説明できない。

愛だったのか。

同情だったのか。

救済願望だったのか。

それとも、自分だけが彼女を救えると信じたい傲慢さだったのか。


たぶん、その全部だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ