第十一章 紬のいない部屋
紬の死によって、知佳の中で何かが決定的に壊れてしまう。
残された者たちは、喪失の重さに立ち尽くすしかなかった。
警察の話は、現実感がなかった。
紬は、ネット上で知り合った悩み相談のコミュニティを通じて、ある集まりに参加していたらしい。場所は都内近郊の一軒家。数人の若者が集まり、室内で炭を使って命を絶っていた。
自殺だったのか。
流されただけなのか。
途中で怖くならなかったのか。
何もわからないままだった。
ただ、結果だけが残った。
白いシーツの下に眠る紬の顔を見た時、僕は何の言葉も持てなかった。
病院の蛍光灯の下で、紬は驚くほど静かだった。
眠っているみたいだった。
目を閉じたまま、今にも「晴人さん」と声をかけてきそうなくらい、いつもの顔だった。
知佳は泣かなかった。
ただ、紬の髪に触れて、小さく言った。
「ごめんね」
それだけだった。
葬儀の日も、知佳は泣かなかった。
骨壺を抱えたまま、まるで自分の中身までなくした人みたいに静かだった。
帰宅して、紬の部屋のドアを開ける。
机の上には筆箱、参考書、ヘアゴム。ベッドの上には読みかけの文庫本。
カーテン越しに入る午後の光が、何も知らない顔でそこにある。
その時、知佳が突然言った。
「……あの子、最後に電話してたんだって」
「誰に?」
「尚人くん」
僕は振り返った。
「警察が、通話履歴にあったって」
喉の奥が熱くなった。
その日のうちに尚人を呼び出した。
顔色の悪い弟は、僕を見るなり目を逸らした。
「何て言われた」
「……」
「紬に、最後、何て言われたんだ」
尚人は唇を噛んだ。
「泣いてたよ」
「それで?」
「よく聞こえなかった」
「ふざけるな」
「ほんとなんだよ!」
尚人も声を荒げた。
でもその声は自信のある人間の声じゃなかった。
「最後に……赤ちゃん、生まれたら、ちゃんと育ててくれる?って」
僕は息を止めた。
「お前、何て答えた」
尚人は顔を覆った。
「わからないよ… 覚えてない。俺もパニックで」
その瞬間、弟の顔面を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
でも僕は、その場で何とか堪えた。
帰り道、知佳にはまだその内容を言えなかった。
言えば、もう戻れなくなる気がしたからだ。
けれど、知佳は僕の顔を見るなりわかったようだった。
「何か、言われたんですね」
僕は頷いた。
知佳は追及しなかった。
それが逆に、恐ろしかった。
紬のいない家は、静かすぎた。
知佳が苦手だと言っていた“静かすぎる時間”が、今では部屋そのものになっていた。
テレビをつけても、意味がない。
キッチンで皿を洗う音も、冷蔵庫のモーター音も、全部空白を際立たせるだけだった。
ある夜、知佳が窓の外を見たまま言った。
「私、あの子のこと守れなかった」
「知佳」
「二回も」
僕は意味を理解するのに時間がかかった。
二回。
自分自身と、紬のことだ。
「一回目は、子どもの私。二回目は、母親の私」
「知佳、それは——」
「違わないよ」
彼女は振り向かなかった。
「私がちゃんとしてたら、あの子はあんなふうにならなかった」
「それは違う」
「違わない!」
初めて、知佳が声を荒げた。
その背中が、小刻みに震えている。
「私が、ちゃんと普通のお母さんだったら! あの子はこんなふうに、自分がいない方がいいなんて思わなかった!」
僕は近づいた。
近づいて、肩に触れようとした。
でも知佳はそれを振り払った。
「触らないで」
その声に、僕は立ち尽くした。
しばらくして、知佳は小さく言った。
「……ごめんなさい」
「いい」
「もう、自分が何を言ってるのかもわからない」
「わかる必要ない」
知佳はそこで、ようやく力を失ったように床に座り込んだ。
僕はそっとその前にしゃがみ、何も言わずにそばにいた。
知佳はその夜、僕にもたれかかったまま朝まで眠らなかった。




