Chapter.4-2
解き放たれた、最後の猟犬
その黒き肉体は、まさしく――
――俺だ。こいつは、俺を見ていた。
衝撃が全身を襲う中、ユウトは反射的にヴァランディンを展開する。黒の機甲兵器が仮初の肉体を覆ってゆく。胸部のコアが脈動し、血管の如きラインが全身を駆け巡り、最後にX字の眼光を灯す火種となる。
宙に身を投げ出されるが、AMIAの自動姿勢制御システムが働き、かろうじて着地に成功する。センサーアイを前方へ向け、襲撃者の全貌を映し出す。
――御堂じゃない。こいつは俺を狙っている。
ガラスを突き破って接敵する寸前、ユウトは眼球を抉られるような錯覚を起こしていた。彼の双眸に直接襲い掛かってくる鋭い殺気。それを感じ取っていたのだ。
『お前は……!』
驚愕に声を漏らす。
その敵は、闇色の鋼鉄に身を包んでいた。憎悪に燃えるような全身のフォルム、威嚇的な両の腕は、ヴァランディンそのものだ。だが、全身には濡れたような光沢があり、Xの狂相を刻むはずの顔面には、この世のものとは思えない混沌と悪逆に満ちた顔があった。体裁は人間の顔だが、皮膚はなく、表情筋や眼球などが剥きだしになっている。縦に裂けた口腔では何列にも並んだ乱杭歯が蠕動し、空気を噛み砕くように呼吸をしていた。
それを人と呼ぶことはできない。
ユウトの心を読み取り、アンチテーゼとして具象化した、レギオンの最後の猟犬が現れたのだ。
復讐の獣、その冒涜者――黒鋼骸。
『俺の前から消えろ!』
脚力を最大限まで発揮して、地を蹴る。その衝撃で地面が抉れ、アスファルトの破片が粉雪のように舞い散る。鋼の拳を握りしめ、肉薄と同時に醜悪な顔面めがけて叩き込む。
黒鋼骸は、上体だけを反らしてヴァランディンの拳を回避する。空気だけを殴り飛ばしたヴァランディンは、勢いを殺さず身体を旋回――複雑な軌道を描いて踵落としを見舞う。手ごたえはあった。だが、直撃したのは身体を庇って挙げられた腕だ。黒鋼骸はヴァランディンの脚を押し退けると、すかさず縦に裂けた口蓋を迫らせる。
第二兵装展開。照射。
体制を崩しながらもヴァランディンは掌を突き出して、極限まで圧縮された波動を解き放つ。圧縮掌底波動槍。目に見えぬ槍は違うことなく黒鋼骸の頭部を突貫し、柘榴のように弾けた血肉が後頭部から撒き散らされる。
兵器を使用した右上腕部から放熱を始めながら、ヴァランディンは死んだはずの敵にセンサーを走らせる。生命反応を確認して――
『――ッ!』
何かに足首をつかまれ、尋常ではない力で引っ張られる。センサーを向けると、天を仰いで倒れている黒鋼骸の左腕から、黒い帯のようなものが伸びてヴァランディンの足に絡みついていた。恐ろしい力だ。蛇が獲物を絞め殺そうとするように、脚部の装甲は徐々に歪みつつあった。
『まだ生きているのか……!』
死んだはずの黒鋼骸へ向けて、広範にわたる掌底波動砲を叩き込む。痙攣したように吹き飛ぶ漆黒の骸は、依然として黒い帯をヴァランディンに絡めたままだ。衰えることのない力は装甲を圧迫し、HUDには脚部の異常を警告する表示がある。
『ぐぅっ!』
突如、視界が遠のく。宵闇に染まりつつある空を、X字のセンサーアイが視覚情報として映し出していた。足を引かれて転倒したのだと気付いたときには、黒鋼骸は頭を失った身体を起き上がらせていた。
いや、微塵に吹き飛ばされたはずの頭部には、まるで肉の芽が生えたようにグロテスクな塊があった。筋繊維が脈打ち、眼球が生まれ、歪な口が再生してゆく。
肉体の不死性までも騙ってみせるというのか。
そのとき、ユウトが感じたのは激怒を通り越した戦慄だった。黒鋼骸の装甲はヴァランディンを象っているものの、ぬらぬらとした光は生物の粘膜のようだ。さらに顔面は間違っても人間のものではない。口腔が縦に裂けている、その一点だけで、こうも自分たちとはかけ離れた存在のように感じさせるものなのか。
だが、その性質は、まるで自分の本来の姿を見せられているようだった。黒鋼骸は頭部に致命傷を負ったにもかかわらず、すでに完全な復活を遂げている。ユウトと同じく再生の能力を持たせて造られたのだろう。
お前は外見こそ人間を装っているが、本質は我と何も変わらないのだ。
そう告げられている。本能が悟っていた。
『俺は……ッ』
百キロを越す躯体が羽毛のように宙を舞う。黒鋼骸が左腕を振り上げたのだ。信じがたい膂力で、鞭を振るうようにヴァランディンを叩き落す。地面に墜落する瞬前、真紅の翼膜を展開して衝撃を緩和するも、成すすべなく再び振り上げられる。身体にダメージはないが、軽い脳震盪がユウトを襲っていた。意識が算を乱したように纏まらない。
何度か空と地面を往復した後、黒鋼骸の帯から解放される。平衡感覚を喪失しながら、なおもユウトは立ち上がる。身体動作はヴァランディンのサポートがある。引き金を引くのが自分の役目だ。
全身のジェネレーターが轟然と唸り、闘争心を表現するように出力を上げてゆく。圧縮掌底波動槍は異常なまでの熱量が発生するため、際限なく連続して放つことはできない。掌底波動砲をメインに、黒鋼骸を塵芥となるまで翻弄してやろう。
う、う、う、と苦しげな声が捉えられたのは、まさに突撃しようというときだった。声の主は、間違いなく黒鋼骸だ。双眸をカメレオンのように合致しない方向へと向けながら、悪夢のような口を開閉させている。その隙間から、う、う、と聞こえてくるのだ。
〈お前は、自己を偽っているに過ぎない〉
『――――――――!?』
頭の中に響く声がある。落ち着き払ったその声音は、男のものでもあり女のものでもあった。二種類の声が同時に聞こえるというのではない。男であり女である、と認識させられる声色だったのだ。
それはまさしく、目の前の化け物から発せられるものだった。だがヴァランディンの聴覚センサーには反応が見られない。一種のテレパシーのようなものだろうか。
う、う、と黒鋼骸は呻く。
〈認めざるを得ない。お前は怪物だ〉
苦しげな呻きは、笑声に違いなかった。こちらを虚仮にしているのだ。
〈死は生の対比ではない。生は状態だが、死はひとつの存在だ。死を与えられ、生の状態は喪失される。それは生物に等しい帰着点だ。だが死を得ないお前は、紛れもない怪物だ〉
その声は、発せられているのではないと気がついた。脳内に伝わってくるのは言語ではない。言葉を介さない、何らかのイメージだ。それは言うなれば、第六感というものに近かった。目でもなく、耳でもなく、皮膚でもない。意識による知覚だ。それを理性で理解するために、ユウトの中で自動的に言語化されている。だから男声にも女声にも聞こえるのだろう。
まるで、ヴァランディンと会話するときのような感覚。
――俺は、怪物じゃない。
〈それはお前自身の欲望だ。自分が人間ではない怪物だと知っていながら、生前の、人間であったときの記憶が、そしてその魂が、肯定することを拒絶している。お前の意識もまた、所詮は冴島ユウトの傀儡に過ぎない。その意識こそ幻想だ〉
――俺は俺だ。
〈虚勢か。お前は冴島ユウトではない。そのアニマだ。しかし、アニマはその発生原因たる冴島ユウトへと帰納される。お前の意識が存在するというのは、明らかな矛盾だ。お前はお前ではない〉
――黙れ。関係あるものか。
そうだ。自分が怪物だと言われようと、冴島ユウトではないと言われようと、自分は確かに存在している。その支えとなってくれる者がいる。人間ではないという憂惧を、断ち切ってくれる存在がいる。
彼女を守ることこそ、自分が自分である証。彼女にとって害悪となる存在ならば、すべてを滅ぼすだけだった。
背後へ顔を向けなくとも分かる。今でも自分を信じて、曇りのない瞳で見ていてくれる人がいることを。
――それ以外に、何が必要だというんだ。
しん、と意識に静寂が訪れる。黒鋼骸はユウトの意識の攪拌を断念したようだ。首を不気味に傾げながら、剥き出しの眼球で視線を送ってくる。みしり、と口が左右に大きく開かれた。威嚇の吐息が乱杭歯の間から漏れ出してくる。
ヴァランディンは両頬のラジエーターから威嚇を返す。獲物を前にした獣が、歓喜に震えて口角を上げるように。
大地を蹴ったのは黒鋼骸が先だ。鈍重な外見にそぐわない俊敏さで接近する。だが、そこはすでにヴァランディンのテリトリーだ。掌が吼え、圧倒的熱量と衝撃波が黒鋼骸に喰らい付く。しかし、強度もヴァランディンと同等だった。掌底波動砲に翻弄されながらも、崩れた体勢を立て直し、身軽に飛びついてくる。咄嗟に振り上げて乱杭歯に見舞われた左腕部装甲が、粘土のように噛み千切られる。その下にあったユウトの腕もわずかながらに傷を受けていた。だが、ユウトは止まらない。左腕を盾にしながら、右掌を相手の腹部に密着させる。ヴァランディンの警報が鳴り響くのも構わず、敵愾心と共に衝撃波を解き放つ。
二連圧縮掌底波動槍。
鋼に向けて弾丸を撃ち放ったような音が、立て続けに巻き起こる。黒鋼骸の腹部には風穴が二つ並んでいた。ユウトの左腕に喰らいつき、骨まで達していた無数の牙が緩む。
ヴァランディンは右手で敵の頭部を掴み、地面に叩き伏せる。その上に馬乗りになると、肉片を租借していた顔面に強烈な殴打を見舞う。左腕の傷も瞬く間に完治し、再展開された装甲が覆ってゆく。
幾度かの打撃の後、振り上げられたヴァランディンの拳を黒鋼骸は受け止めた。血を顔中から垂れ流しながら、う、う、と例の奇妙な笑声を上げる。
再びユウトの意識に干渉するものがある。
〈それだ、その力だ。実に興味深い。絶対的障害を前にしても屈することのない力を、お前は持っている。われわれは、お前に興味がある〉
――お前には分からないだろう、この力の意味が。
〈それは慢心に過ぎない。所詮はその力もアニマだ〉
――だが、お前は勝てない。この俺には。
〈われわれがお前に勝てない可能性は、ゼロではない。だが、お前たちが勝つ確率は、ゼロだ〉
――その言葉、後悔させてやる。
〈忘れてはならない。われわれの本当の目的は、お前ではない〉
――何?
ヴァランディンの索敵センサーに新たな反応がある。それも、背後に唐突に現れたのだ。反射的に意識をそちらへ向けてしまう。その一瞬の隙を黒鋼骸は衝いた。人間的にありえない方向へ関節を回し、掴んでいるユウトの腕の骨をねじり折る。乾いた音が装甲の中で鳴り響いた。痛みがユウトを襲う中、さらに横殴りの打撃が加えられる。黒鋼骸の腕はヴァランディンの頭部へ槌のごとく直撃し、鋼鉄の身体は投げ出される。
朦朧とする頭を振り、ユウトは背後を顧みた。
To be continued.