Chapter.4-1
日常、その幸福なるや氷細工の如く儚し
御堂ルリネにとっての日常とは何か。
彼女は高校生だ。一日が始まれば、学校に行って授業を受ける。その日の大半を学校で過ごすことになる。そこには、冴島ユウトがいる。内気なルリネにとって、唯一気楽に話すことのできる相手。そして今は、もう一人、九条エリナが日常に加わっている。
ルリネは今、理不尽なゲームに巻き込まれた。たとえそれが自然の摂理であろうとも、命を懸けた戦いにそうやすやすと屈するわけにはいかない。何より彼女には、守ってくれる仲間がいる。彼女の日常を死守しようと、命を賭してくれる人がいる。なぜそこまでしてくれるのだろうか、などとは無粋な疑問だった。それが彼らだからだ。理由など必要ない。
では、逆にルリネには何ができるのか。レギオンから自分を守ってくれる彼らに対して、守られる覚悟はできている。だが、そのほかに、何かできることはないのだろうか。
そんな思いを抱きながら、ルリネは帰り道を歩いている。
東地ケイは、今日も変わらない様子で教鞭をとっていた。教師は仮の姿だが、それでもその役目を負った以上、見事にこなしている。彼はレギオンの攻撃からルリネを救うだけでなく、日常を、学校という場を守ろうとしてくれているのだ。
ユウトも、またエリナもそうだった。ルリネの友人の一人として、学生として接してくれている。心強い仲間だ。
だが、ユウトとエリナには――未だに取り払えないわだかまりがあるようだった。
下校するルリネの側には、ユウトとエリナがいる。警護するように付き添っているのだが、二人の間には沈黙の溝が深々と刻まれていた。
「……えーっと……」
何か声をかけるべきなのだろうか。けれど、何と言えばいい?
ユウトの表情はいつも通りだ。すなわち、無表情でただルリネの少し前を歩いている。一方で、エリナは自責の念に囚われている様子だった。ユウトの疑惑は晴れたのだが、彼に対するこれまでの接し方に負い目を感じているのだ。
どうすれば、エリナの後悔を解してあげることができるのか。
気の重い静寂のまま、ルリネは解決策を見つけることができずにとうとうアパートに到着してしまった。
「それじゃあ、また明日。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「あ、うん……また、明日ね」
ユウトはそのまま部屋へ入ってしまった。その瞬前に、エリナに視線を向けたようだった。だが、エリナはユウトと顔を合わせようとはせず、唇をかんで目を逸らしていた。
このままでいいのだろうか。そうは思うものの、具体的な考えは浮かんでこない。
ルリネもとりあえず部屋に入ろうとするが、エリナに呼び止められる。
「あのね、少し話があるんだけど……」
「話?」
「あ、別にたいしたことじゃないんだけどね」
「えっと、じゃあ……私の部屋に上がる?」
「そうさせてもらうわ」
どこか落ち着かない様子のエリナを部屋に招き入れる。
「実はさ、その……」
奥へと入っていったところで、エリナは彼女らしくない歯切れの悪さでそう口にした。
だが、ルリネの視線は淡いクリーム色のカーペットに――正確には、そこに落ちていた学生服のボタンに向けられていて、エリナの言葉は耳に入っていなかった。
「これって……」
ルリネはボタンを取り上げる。柏葉の校章が彫られたそれは、おそらくユウトのものだろう。ずいぶんと小さいので、制服の袖に付いているボタンの一つだろうか。
「それ、冴島くんの?」
「うん、多分……ちょっと返してくるね」
そう言って部屋を出ようとするが、ふと妙案を思いついたルリネはエリナを振り返る。
「エリナちゃん、ついてきてくれないかな」
「えっ、私も――?」
「三人で、ちょっと話したいことがあって」
「そう……分かったわ」
しぶりながらもエリナは頷いた。
ユウトの部屋の前に行き、インターホンを押そうとしたところで、ルリネはふと手を止める。思えば、こうしてユウトの部屋を訪ねるのは初めてだ。同い年の、異性の、部屋を。
「……」
自分で言い出したことなのに、なんだかとんでもないことをしようとしているような気がして、ルリネは軽い眩暈を起こしていた。インターホンに一回触れるだけなのに、それがとてつもない難題に思えてくる。心臓がうるさい。
「どうしたの、ルリネ?」
「あっ、いや、その、なんでもないよっ!」
自分の感情に整理がつかないまま、慌ててルリネはボタンを押す。
「何かあったのか」
わずかの間の後、早くも普段着に着替えていたユウトが、相変わらずの無表情を覗かせる。
「あ、あの、これ……私の部屋に、落ちてて……」
何も気恥ずかしいことはないはずなのに、ルリネの緊張は頂点に達しようとしていた。
「そうか。わざわざすまない」
差し出された手のひらにボタンを乗せることさえ、とても難しいことのように感じる。
「……えっと」
「――?」
ユウトはその人形のような瞳に疑問符を浮かべている。早く言わなければならないのに、頭の中がどういうわけか真っ白になってしまった。
「どうした、御堂?」
「あ、あの、えっと……!」
支離滅裂な様子のルリネに助け舟を渡したのは、エリナだ。ユウトに遠慮するように、小さく言葉を発した。
「ルリネが、話したいことがあるって。私と、あなたに」
「えっ、あ、うん、そ、そう! だから、その――」
あたふたと手を動かして、何かを必死に弁解しようとする。
ユウトは、ルリネが言わんとすることを悟ったようだった。
「構わない。特に面白いものはないぞ」
「えっ――」
ユウトの返答は、つまり、部屋に入ってもいいということだろうか。それを証明するかのように、ユウトは扉を開けっ放しで奥へと入ってしまった。
思わずエリナと顔を見合わせる。
「ほら、ルリネ」
「えっと、それじゃあ、お邪魔します……」
エリナに背を押されて、かちこちになりながら部屋に入っていく。
まず始めに感じたのは、白い、という印象だった。なぜ白いと思ったのか、自分で理解するのに数秒を必要とした。匂いだ。人が住んでいるという匂いが、まるきり感じられなかった。どんな人の部屋であれ、そこで生活する以上は何かしら嗅覚に触れてくるものがある。しかし、ユウトの部屋は違った。誰も住んでいないと言われれば信じてしまうほど、まったく匂いというものがなかった。
次に気がついたのは、調度品の少なさだ。人が生活において必要最低限だと感じるラインに達していない。それほど物が置かれていなかった。冷蔵庫さえもないのだ。
「見てのとおり、何もない退屈な部屋だ」
自嘲気味に言ってのけるユウトの顔は、窓から差し込む落日の影になって、窺い知れない悲しみを漂わせていた。
「冴島くん、これって……」
台所のシンクはしばらく使われた形跡がない。食器に関しては皿の一枚も見当たらない。コップさえも。
「ああ、御堂の考えている通りだ。食事は、俺には必要ない」
そう語る声音の、いかに寂寥に満ちたことか。ユウトの体はアニマのものだ。栄養を摂取しなくても、古くなった体組織は自然に新しいものに置換される。自然界の法則をまったく無視した理屈だが、それこそがアニマの特徴なのだ。
ユウトは、昼食はいつも購買で買ってきた菓子パンを一つだけ食んでいた。必要ないながらも、周りから不自然な目で見られないように――あくまで人間のように振舞うために、わざとそうしていたのだ。
「それでも、俺を人間だと言ってくれるのか?」
ユウトは、そう問いかける。暗に言っているのだ、自分は人間ではないと。人間なんかとは違う、単なる生きた人形に過ぎないのだと。
ルリネは、小さな、本当に他人に比べれば些細な、それでも彼女にしてみれば相当な怒りを、その眼差しに込めて訴える。
「そんなこと、関係ない。誰がなんて言っても、冴島くんは人間だよ」
「…………」
「私がそうだと思うから……冴島くんは人間だって知ってるから……それだけじゃあ駄目なの?」
不意に胸元で拳を握り締めていた。
「冴島くんは、私のために戦ってくれている。あんなにたくさんの敵と。私のために傷つくこともいとわない……誰よりも、冴島くんは人間だよ。たった一人のためだけに、ずっと……」
もう、ユウトの悲痛な顔を見ていられない。自分こそがすべての元凶だと咎めているような表情が、とても耐え難い。
「もう、そんな顔をしないで。冴島くんが人間かどうかなんて考える必要がない。冴島くんは私にとって大切な友達なんだから」
ルリネの言葉は、果たしてユウトの心の奥底に響き渡った。それは、冴島ユウトの魂に、だけではない。彼のアニマであるルリネの目の前の「冴島ユウト」の意識にも、深く、強く広がっていった。
「……いつも、そうだ」
口許を緩めて、ユウトは独り言のように呟く。
「そうやって、俺を助けてくれる」
「え……?」
ルリネの瞳がユウトの視線と交錯する。吸い込まれるような人形めいた黒瞳が、まるで鏡のようにルリネの姿をそこに映し出していた。真っ直ぐに、ユウトはルリネだけを見つめていた。
「俺が、冴島ユウトのアニマとして救えたのは、御堂が初めてだ。今はAMIAを使って御堂を守ることができる。俺が生きる理由を与えてくれたんだ」
「そんな、私は……私は、ただ守られているばかりで」
「それでいい。今は、それでいいんだ」
ルリネは、小さな首肯を返した。ユウトの決意を、意志を、自分が支えることができるのならば、守られていよう。彼を信じて。
「この気持ちは、俺だけじゃない――そうだろう、九条」
ユウトは、傍らで目を伏せていたエリナに顔を向けた。
ユウトを見返すエリナは、困惑した表情を崩せない。まるで親に叱られる子供のような、決まりの悪そうな顔色だ。
「俺に対する怒りは過ちなんかじゃない。それが九条の信じていた正義なのだから、謝る必要はないんだ」
「私が、私を許せないわ」
「だが、御堂を守ろうとするお前の感情もまた、本物だ。それは俺と同じはずだ」
「……それは、そう、だけど」
「ならば、今はそれだけを考えろ。最後まで御堂を守り抜くことが、俺たちの、アニマの存在する理由だ」
ユウトの眼差しは真っ直ぐエリナに向けられていた。
「……ええ、そうね」
エリナはかすかに口元をほころばせる。
「あ、ありがとう、と言っておくわ」
「ああ。受け取っておこう」
ユウトとエリナの間のわだかまりは、完全になくなったわけではないのだろう。それでも、エリナは普段の気丈な表情を取り戻していた。部屋の空気が、軽くなったような気がした。
――これが幸せなのかな。
ふと、ルリネはそう感じた。自分たちの出会いは偶然だった。きっと、とんでもなく低い確率で、自分たちは出会い、こうして笑みを交わすことができているのだ。深刻な話だろうと、他愛のない会話だろうと、誰かと心を通わせることができる。人は互いに、こんなにも違っているのに、同じ気持ちを共有できる。それはとても、幸せなことではないのか。
それが今、ルリネの手元にある。
幸せを、感じることができる――
だが。
彼女が言う「幸福」をもたらしたのが、神でもなく偶然でもなく、例えばそれがレギオンによるものなのだとしたら――理不尽なゲームが、彼らを結び付けているのだとしたら。
与えたものを壊していくのもまた、人類の敵たるそれらの仕業だ。
「――あ――」
誰が上げたのかも分からない、崖から突き落とされたときのような呆気にとられた声。ぐらり、と眩暈を起こしたのかと錯覚する、視界の揺らぎ。耳元間近で、鼓膜を通り抜けて脳に直接割り込んでくる、とてつもなく巨大な鐘の音。あるいは、それは身体が発する無意識の危険信号なのかもしれない。逃れなければならないと、警鐘として生命の根源から噴出する恐怖のように――
突然の、暗闇。
否、それは影だ。
落暉が空と大地の間に沈んでゆく光景を、その巨大な翼で遮る影がある。
窓外へと全員の視線が向けられる。
一番に反応したのは、ユウトだった。
「きゃっ――」
膂力の任せるままにルリネを突き飛ばす。同時に、窓を割って突進してくる漆黒の影。四肢を持ち、頭を持つそれは、ユウトに襲い掛かる。コマ送りのように奇妙にゆったりと過ぎてゆく光景の中、ルリネの前で、ユウトの姿は漆黒の影と共に部屋の壁を突き破っていた。
破壊される模造の世界。
蹂躙されるユウトの部屋。
終わりを迎えようとする、ひとつの物語。
To be continued.




