第7話 この謎の女は何者でしょうか?
女は、影の中で、ゆっくりと首を傾けた。
「そう怖い顔をしなさんな。用があるのは、その子だけさ」
白い指が、俺の背後のユニコーンを、まっすぐ指した。
ユニコーンが、俺の背中にぎゅっと鼻先を押しつけてくる。震えが、服越しに伝わってきた。
女が、一歩、洞窟の中へ踏み出した。
「ひっ」
情けない声が出た。俺の声だった。
反射で、たいまつを突き出す。
ぱち、と火の粉が跳ねて、女の手の甲に落ちた。
じゅっ。
焼けた紙のように、白い肌が黒く縮れた。小さな火の粉ひとつで、だ。
「……っ」
女が手を引っこめる。腰のあたりで、ちゃりん、と硬い音がした。
ローブの帯に、小さなガラス瓶がいくつも下がっている。中で、黒っぽい赤が揺れていた。
火に、異常に弱い。そして、赤い何かを詰めた瓶。 町で聞いた吸血鬼の話が、頭をよぎる。
決めつけるには早い。だが、少なくとも、この女に火が効くことだけは確かだ。
「若い血はね、高く売れるんだよ」
女は、焼けた手をさすりながら、世間話のように言った。
「隣の国の王様が、お得意様でね。その子の角があれば、もっと上等な品になる」
女の目が、ユニコーンから俺へ移った。
「坊やの血も、高く売れそうだねぇ」
生まれて初めて、自分の頭に値段がついた。それは、最悪の形で。
*
にらみ合いが続く。
たいまつ一本では、心もとない。この女が本気で飛びかかってきたら、防ぎきれるかどうか。
炎に目をやる。
火が、入口の方へ、わずかに傾いていた。
……風だ。
洞窟の空気が、入口へ向かって流れている。
頭の中で、昨日のページが、もう一度めくれた。
『火が燃える三つの条件 燃えるもの・熱・空気』
熱は、このたいまつ。空気は、入口へ向かう風。燃えるものは、青年が寝ていた、乾いた苔と枯れ草の寝床だ。
三つそろえて大きな火を起こせば、炎も火の粉も、風に乗って、全部あの女の方へ流れていく。
問題は、集める時間だった。
女の気を、こちらから逸らさなければならない。
つまり、会話で時間を稼ぐ。
……終わった。
会話が三秒で終わる男に、課せられた使命がこれである。閻魔大王の前に立ったときより、よほど足が震える。
だが、やるしかない。
俺は、背中に回した手で、ラフィに枯れ草を指さした。ラフィが小さく頷く。
そして、口を開いた。
「き、今日は、いい天気、ですね」
洞窟の中が、静まり返った。
洞窟の中で、天気の話。我ながら、意味がわからない。
「……そうだねぇ。坊やの墓参りには、いい日和だ」
「ご、ご趣味は」
「ゼノさん、なぜお見合いを……」
枯れ草を抱えたラフィの小声が、背中に刺さる。
「趣味かい。そうだねぇ。若い子の血を、瓶に詰めることかね」
聞かなければよかった。
「お、お住まいは」
「森の向こうさ」
「ご、ご家族は」
「とうの昔に、みんな土の下だよ」
重い。三問目で、もう地雷を踏んだ。
沈黙が落ちる。だめだ。ここで黙ったら終わる。
「す、好きな食べ物は」
「若い子の――」
「あっ、やっぱり大丈夫です」
女が、喉の奥でくつくつと笑った。
「面白い坊やだねぇ。命乞いの代わりに、身の上話を聞いてくるなんて」
どうやら、この女は、俺をからかって楽しんでいるらしい。追い詰めた獲物が、じたばたしているのを眺めるように。
好都合だった。からかわれている間は、襲われない。
好きな季節。得意な料理。最近あった嬉しいこと。俺は、思いつく限りの質問を並べ続けた。どれも、会話の続かない人間が、本で読んだ「会話が続く質問集」の受け売りだ。
十八年間、一度も使う機会のなかった知識が、まさか魔女相手に役立つとは思わなかった。
質問は、二十三個に及んだ。
頭の中で数えていた時間は、十五分。受験で鍛えた体内時計は、こういうときだけ正確だ。
「坊や」
二十四個目を口にしかけたとき、女の目が、すっと細くなった。
「さっきから、何を企んでいるんだい」
背中を、とん、と叩かれた。ラフィの合図だ。
足元に、枯れ草の山ができている。
俺は、そこへ、たいまつを突っこんだ。
ぼう、と炎が膨れあがった。
流れる空気に乗って、炎と火の粉が、入口へ向かって吹き出していく。
「――っ、この坊や!」
女が、影の奥へ飛びのいた。火の粉が、黒いローブに降りかかる。
「……覚えておおき」
煙の向こうで、女の声が低く響いた。
「また会おうね、坊や。その頭、大事にとっておきな」
煙が晴れたとき、入口には、もう誰もいなかった。
*
しばらく、誰も動けなかった。
「……ゼノさん。あの火、狙っていらしたのですね」
「は、はい。風が、入口へ流れていたので」
「天気のお話も、作戦でしたの?」
「それは、ただの事故です」
そこだけは、はっきり否定した。
胸元に、こつん、と鼻先が当たった。ユニコーンの震えは、もう止まっていた。
「この子、ゼノさんから離れる気は、なさそうですわね。お名前を、つけて差し上げては?」
白い体。人を助け、守ろうとした獣。
ふと、昔図書館で読んだ、古い話を思い出した。大きな船の話だった。
「……ノア」
ユニコーンの耳が、ぴくりと動いた。そして、俺の胸に、こつん、と二回。
気に入ってくれたらしい。
*
町に戻ると、行方不明だった青年の母親が、泣きながら駆け寄ってきた。
だが、その涙は、すぐに悲鳴に変わった。
「き、吸血鬼……!」
人々の目が、俺の背後に釘付けになっていた。
「ユニコーンだ」
「吸血鬼を、町に連れてきやがった」
「追い出せ!」
誰かが、石を投げた。俺の足元で、乾いた音を立てて転がる。
ノアが、俺の背中に隠れて、小さく震えた。
「ち、違います。この子は……」
声が、出ない。人だかりの視線が、全部こちらを向いている。三秒どころか、一秒も持たない。
「やめろ!」
前に出たのは、助けられた青年だった。
「こいつが、俺を助けてくれたんだ。足の傷だって、こいつが治してくれた」
ざわめきが、少しだけ揺れた。
「それに、森に魔女がいた。吸血鬼の話は、そっちのことかもしれない」
「魔女だぁ?」
年配の男が、鼻で笑った。
「そんなもん、婆さんの昔話だろう」
信じない。当然だ。俺だって、この目で見ていなければ、信じなかった。
「この子は、教会でお預かりします」
ラフィが、静かに、けれどはっきりと言った。
「何かあれば、わたくしが責任を持ちます」
教会の娘の言葉に、人々は渋々道を開けた。だが、向けられる目は、冷たいままだった。
俺は、ノアの首にそっと手を置いた。
人だかりを見渡す。
朝、あの輪の端にいた老婆の姿は、どこにもなかった。
*
その夜。
「今夜だけは、ノアさんのそばにいて差し上げてくださいな」
ラフィがそう言って、教会の庭の隅に、小さな小屋を用意してくれた。古い板を立てかけて、藁を敷いただけの、簡単なものだ。
つまり、馬小屋である。
異世界に来て三日目。俺の寝床は、部屋から馬小屋に格下げされた。自分から望んで、である。
藁に寝転がると、ノアが隣に来て、ぴたりと体を寄せてきた。温かい。藁がちくちくするのも、すぐに気にならなくなった。
昼間の光景が、頭から離れない。
石を投げられたのは、ノアだった。
十八年間、俺は、ずっと投げられる側だと思っていた。陰口も、冷たい目も。
だが、今日わかった。
知らない、ということは、こんなにも人を怖がらせる。
ノアの寝息が、首筋にかかる。
誰かと並んで眠るのは、いつ以来だろう。思い出せないくらい、昔のことだ。
どこかで、筆の走る音が聞こえた気がした。




