第6話 ユニコーンを探索します
ゴーン。
早朝、鐘の音が一度鳴ると、朝六時の合図らしい。
ラフィはすでに起きていて、家事をしていた。
「おはようございます。ラフィさん、今日は朝食は結構です」
「あら、そうですのね。どちらかにお出向きになりますの?」
そう、今日は吸血鬼と囁かれ、恐れられているユニコーンの聞き込みに行くのだ。
「えっと、朝の街を見たくて……ちょっと出掛けてきます」
その言葉を残して、教会を出た。
いくらコミュ症の俺でも、若干の慣れが出てきた。ラフィの優しさのおかげだろう。
言葉が詰まっても、上手く話せなくても、笑顔で聞いてくれる。そのうちに、すっかり心を許していた。
そして、噛まなくなってきた。
*
街に出ると、人だかりができていた。
その輪の端、軒下の日陰に、青ざめた老婆が立っていた。朝だというのに、フードを深々とにかぶっている。
「あぁ、遂に出てしまったようだ……」
え、何が。
興味が湧いて、俺は聞き耳を立てた。
一人の青年が、話し始める。
「昨夜、仲間内四人で、夜に森へ行ったんです。この街では、夜の外出は控えるのが暗黙のルールですが……好奇心には、勝てなくて」
若気の至り、というやつだろうか。確かに、ルールに縛られるのを嫌がる年頃だもんな。
俺も、母親に反抗したいと何度も思ったことがある。結局、妄想で終わったが。
「森には無事に着いたんですが、特に何もなくて。結局、吸血鬼なんて嘘だろう、ということになったんです」
彼らにとってユニコーンは、名前しか知らない存在らしい。
俺は本で、空想の生き物として知っていたが、この世界には、そもそも本がろくにない。姿かたちも、全部口伝えなのだそうだ。
「そしたら、一人が突然いなくなったんです。街に戻る道中で、赤い血痕が点々と続いていて。攫われてしまったんじゃないかと……」
周囲が、ざわめいた。
老婆が、胸の前で手を組む。誰かが、小さく祈りの言葉を呟いた。
そんな中、俺は頭の中を整理していた。
いなくなった時刻。場所。血痕の量。点々と続いていたなら、向きがあるはずだ。
気づいたときには、口が動いていた。
「あの、すみません」
全員が、こちらを向いた。
……噛まなかった。
「その血痕は、街に向かって続いていましたか。それとも、森の奥に向かって? あと、いなくなったのは、たいまつが消えたあとですか、前ですか」
沈黙。
老婆が、目を丸くしている。青年は、口を開けたまま固まっていた。
しまった。やってしまった。人が行方不明になっているときに、事情聴取みたいに質問する奴があるか。絶対に、失礼なことを言った。
「……坊や」
老婆が、ゆっくりと口を開いた。
「今の質問は、どこで覚えたんだい」
しまった、怒られる。
反射的に頭を下げかけて、俺は踏みとどまった。ここで逃げたら、本当にただの失礼な奴になる。
「ち、血の、落ち方を、考えていました」
噛んだ。だが、止まらなかった。
「攫われて引きずられたのなら、線のような跡が残るはずです。でも、血が点々と、同じ間隔で落ちていたなら、少なくとも、引きずられてはいません。歩いていたのかもしれません」
誰かが、息を呑んだ。
「それに、吸血鬼は、血を飲む魔物ですよね。飲むのが仕事の魔物が、道に血をこぼしながら歩くでしょうか。行儀が悪すぎます」
……なぜ俺は、吸血鬼の食事マナーを指摘しているんだ。
「……消えたあと、です」
青年が、戸惑いながら答えた。
「それなら、真っ暗な中で、足を踏み外したのかもしれません。襲われたと考えるより、転んで怪我をしたと考える方が、ずっと自然です」
言い切った。
沈黙が落ちる。
やりすぎた。あと三秒で、この会話は終わる。
「……俺たち、一晩中、攫われたとしか考えられなかったのに」
青年が、呆然と呟いた。
老婆が、深く息を吐く。
「お前さん、何者だい」
「ゼ、ゼノです。ただの、その、本で読んだことが、あるだけで……」
本。
その単語に、周囲が一斉にどよめいた。
「本だって?」
「文字が、読めるのか」
「学者様か」
違う。ただの、ガリ勉だ。
「ゼノさん!」
人垣の向こうから、ラフィが駆けてきた。手には、布をかけたかごを提げている。
「やっぱり、こちらにいらしたのですね。教会にも、行方不明の方の知らせが参りまして。それで、ゼノさんが朝食も召し上がらずに出ていったのを、思い出して」
籠が、ずいっと差し出された。
「お腹が空いてはいけませんわ。パンと、チーズです」
……朝食は結構です、と言ったはずなのに。
結構ではなかった。腹が、正直に鳴った。
「ふふ。ほら、やっぱり」
顔が熱くなる。この世界に来てから、赤面の頻度だけが、日に日に上がっている。
事情を聞くと、ラフィは両手を胸の前で組んで、きっぱり言った。
「わたくしも、参りますわ」
「え。いや、危ないかもしれないので……」
「教会の娘として、行方不明の方の無事を祈りたいのです。それに、ゼノさんお一人では、心配ですもの」
断る言葉が、見つからなかった。
こうして、道案内の青年と、俺と、ラフィの三人で、森へ向かうことになった。
*
昼の森は、思ったより明るかった。
木漏れ日が揺れて、鳥の声がする。夜は恐ろしい場所だと聞いていたが、今はただの、静かな森だ。
道の脇の平たい石や落ち葉の上に、乾いた赤い染みが点々と続いていた。
しゃがんで、石の上の染みを観察する。土の上ではにじんでしまうが、平らな石の上なら、形がそのまま残る。
遠目には丸く見えた染みが、近くで見ると、少しだけ細長い。しかも、縁のぎざぎざが、全部同じ側に寄っている。
頭の中で、ページがめくれた。
高校一年、物理。慣性の法則。動いている物から離れた物は、それまでの勢いを持ったまま、前へ進みながら落ちていく。
続けて、もう一枚。図書館で読んだ、科学捜査の本。水滴は、真上から落ちれば丸く広がり、斜めにぶつかれば細長く伸びる。
二枚のページが、頭の中で重なった。
動きながら垂れた血は、進んだ向きに、わずかに伸びる。
染みのそばの土には、足跡が一人分。歩幅は狭く、乱れていない。走っていたなら、歩幅も血の間隔も、もっと広がるはずだ。
その足跡のすぐ横に、馬の蹄のような跡が並んでいた。
「この人、森の奥へ向かって、自分の足で歩いています」
「な、なんでわかるんですか」
青年が、ぎょっとした顔をした。
「血の形と、足跡です。血のぎざぎざが寄っている方が、進んだ向きなので」
十八年、机の上で覚えてきたのは、ばらばらの知識だった。テストが終われば、使い道のない知識だった。
それが今、森の地面の上で、一本につながっていた。
染みは道を外れて、森の奥へ伸びていた。
「昨日は、ここから先に入る勇気が、なくて……」
青年が、申し訳なさそうに言う。
無理もない。普通は、怖い。
「ゼノさん」
ラフィが、俺の袖をそっとつまんでいた。
……近い。
袖から伝わる体温のせいで、推理が三割ほど飛んだ。落ち着け、俺。
染みを辿ると、岩が積み重なった斜面のふもとで、途切れていた。
目の前に、割れ目がある。人が屈んで入れるくらいの、暗い穴だ。
血の跡は、穴の中へ続いている。
自分の足で歩ける人間が、わざわざ真っ暗な穴に入る理由はない。あるとしたら、何かに、ついて行ったときだ。
「ここに、いると思います」
ラフィが、俺の袖を握り直した。
俺は懐から、昨日巻き直したたいまつを取り出した。青年に頼んで、火を移してもらう。
「……煙が、少ない」
青年が、感心したように呟いた。
そして、三人で、穴の中へ入った。
*
数歩で、広い空洞に出た。
奥に、白いものが見えた。
息が止まった。
馬だ。いや、馬より一回り細い。雪のように白い体。そして、額から伸びる、一本の長い角。
ユニコーンだった。
本の中でしか見たことのない生き物が、目の前で、静かに横たわっていた。
その傍らには、一人の青年が、丸まって眠っている。
「おい!」
案内してくれた青年が、叫んだ。
その声に、ユニコーンが跳ねるように立ち上がった。耳を伏せ、眠っている青年の前に立ちはだかる。
守っている。そう見えた。
「ま、待ってください。大きな声は、たぶん、だめです」
俺は、青年の肩を押さえた。
襲うつもりなら、眠っている人間の横で、じっと寝そべっているはずがない。
たいまつを低く下ろして、一歩だけ近づく。
ユニコーンは、しばらく俺を見つめていた。それから、ふっと力を抜いて、元の場所に伏せた。
「……あれ。ここ、どこだ」
眠っていた青年が、目を開けた。
「お前、無事だったのか!」
案内の青年が駆け寄って、二人で抱き合う。
行方不明だった青年は、きょとんとしていた。
「暗いところで転んで、足を切って、歩いてたら、白い馬みたいなのがいて……そこから、覚えてなくて」
足の傷は、跡だけが残って、血は止まっていた。
攫われたのでも、血を吸われたのでもない。助けられたのだ。
ふと、足元に気配を感じた。
ユニコーンが、すぐそばまで来ていた。
何をされるのかと身構えた俺の胸に、ユニコーンは、こつん、と鼻先を押し当てた。
……え。
もう一度、こつん。それから、すりすりと頬を擦りつけてくる。
「まあ……」
ラフィが、そっと手を伸ばした。
ユニコーンは、ぷいっと顔を背けて、俺の背中の後ろに隠れた。
「わ、わたくしには、懐いてくださらないのですね……」
青年たちが手を伸ばしても、同じだった。ぷいっ。そして、また俺の胸に、こつん。
十八年間、向こうから寄ってきてくれた相手は、一人もいなかった。
人生で初めて懐かれた相手は、角の生えた馬だった。
「……思い出しましたわ」
ラフィが、囁いた。
「祖母が、昔話してくれたことがあります。ユニコーンの角は、傷を癒す。出会った人には、幸運が訪れる、と」
「でも、いつの間にか、夜に出る怖いお話ばかりが、残ってしまって……」
口伝だ。
語り継がれるうちに、助けられた話が、攫われた話に変わっていった。誰も書き留めなかったから、誰も、元の話を確かめられなかった。
本さえあれば。
……いや、待てよ。
火に弱い。日の下には出てこない。それが、町で聞いた話だった。
だが、火に弱いはずのユニコーンは、俺のたいまつの火を、平気な顔で見つめている。
火の話が嘘なら、日の下に出てこないという話も、怪しい。
つまり、あれはユニコーンの話ではない。別の何かの話が、どこかで混ざったのだ。
火を嫌い、日の光を避け、夜に人を襲う。本物の吸血鬼は、どこにいる。
そう思った、そのときだった。
「あぁ、やっと見つけたよ」
洞窟の入口から、場違いなほど甘い声が降ってきた。
振り返る。入口の影の中に、黒いローブを着た女が立っていた。
息を呑むほど、美しい女だった。透けるように白い肌。長い髪。口元だけが、笑っている。
「長かったねぇ。随分、探したんだ」
女は影の中に立ったまま、日の当たる場所へは、一歩も出てこない。
その視線は、俺たちを通り越して、まっすぐ奥のユニコーンを見ていた。
ユニコーンが、震え始める。
俺の火にも、青年の大声にも、怯えなかったのに。
ユニコーンが怖がっているのは、この女だ。
女が、ようやくこちらを見た。
「礼を言うよ、坊や。お前さんの頭のおかげで、ここまで来られた」
……おかげ?
俺は、こんな女に会ったことなど、一度もない。




