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第5話 ここの住民は、火と酸素の関係すら知らないようです


 銅貨五枚を握りしめたまま、俺は竜の牙の下をぼんやり眺めていた。


 店の奥に、棒が何本か束ねて立てかけてある。昨夜、窓の外で見たものと同じ形をしていた。


 松明(たいまつ)だ。


「あ、あのー。そこに置いてある、松明は、いくらですか?」


 突如である。


 先ほど賛美を浴びたばかりの男が、次の瞬間には値段を聞いている。話の展開としては、唐突かもしれない。


 ……まあ、気にしない。気にしたら、また喉が渋滞するだろうから。


 マイナは、一瞬きょとんとして、それから笑った。


「松明かい? あれは、一本、銅貨五枚だよ」


 ちらりと、手の中を見る。


 銅貨、五枚。ついさっきもらったばかりの報酬が、ちょうど、たいまつ一本分だった。


 ……命がけの知識が、松明一本。


「火はね、とても大切だからね。あたしだって、もう少し安くしたいんだけど。みんな、高くても買っていくのよ」


「みんな、買っていく、んですか」


「当たり前だろ。夜に火がなきゃ、吸血鬼に襲われちまうんだから」


 なるほど。やはりこの国では、火は重宝されているらしい。


「どうして、安くできないんですか?」


 口が、勝手に動いていた。値段の理由が気になると、悪癖が出る。


「松脂だよ」


 マイナが、肩をすくめた。


「たいまつに染み込ませる松脂は、森の奥の松からしか採れないんだ。しかも、行けるのは日が高いうちだけ」


「奥には魔物もうろついてるしね。命がけで採ってくる人がいるから、どうしても高くなるんだよ」


「……なるほど」


「それに、一本で二、三時間しか持たないだろ。夜は長いんだ」


「日が落ちたら家族みんなで一部屋に集まって、寝るときは暖炉の灰に埋めた炭火で凌ぐのさ。たいまつは日当の四分の一もするからね、みんな必死で節約してるよ」


 昼間は、灯りに火を使わない。夜も、必要な分だけ。この町の人々は、火を惜しんで生きている。


 昨夜、窓の外で見た小さな火が、急に貴重なものに見えてきた。


「そ、その、松明を、買わせてください」


 俺は、さっきもらった銅貨を差し出そうとした。


「あんたは命の恩人なんだから、お金は要らないよ。それにそれ、あたしがあげたお金じゃないか」


 マイナが、にやりと笑った。


 ……自分で渡した報酬を、返す形で払おうとしていた。商売としては最悪の取引である。


「いいから、持っていきな」


 押し付けられるように、松明を受け取った。この世界で重要とされる松明について知りたかった。好奇心には勝てない。


 棒の先に、麻布のようなものが巻きつけてあり、黒っぽいものがべったりと染みている。これが松脂らしい。指先が、少しべたついた。


 ……待てよ。


 巻きが、ゆるい。


 布と布のあいだに、隙間がある。昨夜、窓から見たたいまつも、太くて、煙が多くて、すぐに弱っていた。


 記憶を探る。すると、目の前に、教科書のページが浮かんだ。


『火が燃える三つの条件 燃えるもの・熱・空気』


 高校の理科の、最初の方のページである。図解の中の炎が、ゆらりと揺れた。


 こんなことは初めてだ。頭上に教科書が浮かび上がるそんなイメージ。現実世界にいたときは、こんなことできなかったのに。

……便利だ。ただし、これは本に描かれた「理想的な標本」であって、実物ではない。知識の応用が必要だ。


 この松明で成り立つか、自分の目で確かめるまでは、確信しない。


「ちょっと、あんた」


 マイナが、怪訝な顔をしていた。


「誰もいないところを見て、何してんだい」


 空中のページを、指でめくっていた。


「す、すみません。ちょっと、考え事を」


 不審者の振る舞いである。弁解の余地がない。


「あ、あの。これ、巻き方を変えれば、もっと長持ちすると思います」


 悪癖が、また顔を出した。


「ひ、火に息を吹きかけると、ぼっと勢いよく燃えますよね」


「ああ、竈(かま)の火を起こすときのやつかい」


「は、はい。あれと同じで、このたいまつは、布の隙間から風が入りすぎているんです。だから、あっという間に燃えてしまう。きつく巻き直して、隙間を減らせば、同じ量でも、ゆっくり燃えるはずです」


 マイナは、ぽかんと口を開けていた。


「風が、火を食べちまうってことかい」


「ま、まあ、そんな感じです」


 厳密には違う。だが、高校の理科の最初の方の内容を一から説明していたら、日が暮れる。


 ……「はず」と付けたのは、実物で確かめていないからだ。


「……あんた、本当に何者だい」


 その目が、さっきとは違う種類の光を帯びていた。


「す、すみません。ただの、通りすがりの……学生です」


「学生ってのは、みんなあんたみたいなのかい」


「い、いえ。たぶん、俺だけが、変なんだと思います」


 マイナは、腹を抱えて笑った。


「面白い子だね。その松明、うまくいったら教えとくれ。町中の連中が、黙っちゃいないよ」


 そのとき、広場の向こうの教会から、鐘の音が響いた。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン。


 三つ。


 ――しまった。市場の終わりの合図だ。


 広場の店主たちが、いっせいに片付けを始める。日が傾く前に、家に帰らなければならない。ラフィとの約束である。


「か、帰ります! あ、ありがとうございました!」


 松明を抱えて、走り出した。


 背中で、マイナの笑い声が聞こえた。



 *


 その夜。


 部屋の机の上に昼間の松明を置いて、俺は腕まくりをした。


 布を、一度ほどく。松脂のにおいが、鼻をついた。


 今度は、隙間が出ないように、きつく、きつく巻き直す。


 理想どおりにいけば、燃える時間は倍になるはずだ。


 ……はずだ。


 問題は、ひとつ。


 火を、どうやってつけるか。


 暖炉の火を分けてもらうには、ラフィに頼まなければならない。


 ……噛まずに、言えるだろうか。


 台所の入口で、五分は立ち尽くした。


「ラ、ラフィさん。ひ、ひ、ひ……」


「ひ?」


「ひを、いただけませんか」


「……ひを?」


 一瞬の間があった。


「まあ、お寒いんですの? 毛布をお持ちしますわね」


「ち、違います。火です、火!」


 顔が熱い。三秒で終わるはずの会話は、誤解のおかげで延長された。


 ラフィは、くすくす笑いながら、暖炉の火を小枝に移してくれた。


「それと、あの。この家で使っている松明を、一本、お借りできませんか。同じ長さのものを」


「もちろんですわ。でも、どうして?」


「くらべたいんです。同じ火が、どれだけ持つのか」


 ラフィは、きょとんとして、それから頷いた。


「ゼノさんは、不思議なことを考えますのね」


 外には出ない。日が落ちたら家から出ない、は鉄則である。


 玄関の内側の土間に、砂を入れた鉄の桶を置いて、二本のたいまつを並べて立てた。右が、教会でいつも使っているもの。左が、俺が巻き直したもの。


 同じ長さ。同じ太さ。違うのは、巻き方だけ。


 火をつける。


 ぼっ、と二つの炎が上がった。


 最初は、ほとんど同じに見えた。右は、少し煙が多い。左は、静かだ。


 ラフィと並んで、階段に腰を下ろす。


 会話が、途切れる。ラフィは気にした様子もなく、桶の火を眺めていた。


 沈黙が、不思議と苦しくなかった。


 *


 どれくらい経っただろう。教会の鐘が、二つ鳴った。


 右のたいまつは、半分以下になっていた。炎は小さくなり、煙ばかりが目立つ。


 左は、まだ三分の二ほど残っている。炎は安定していて、煙も少ない。


 ……成功だ。


 実物で確かめた。今度は、挿絵どおりだった。


「まあ」


 ラフィが、目を丸くしていた。


「同じ松脂ですのに。ゼノさんは、魔法使いですの?」


「ち、違います。ただの理屈、です」


「理屈……」


 ラフィは、左のたいまつを、じっと見つめていた。


「これなら、夜を越える火が、半分で済みますわね」


 ぽつりと、そう言った。その横顔が、思ったより真剣だった。


 この町の火は、ずっと高かった。使うたびに、お金が消えていく。巻き直しただけで、その出費が半分になるのなら。


 ……商売になる、という話以前に。


 助かる人が、いる。


 火が、使えるようになった。それも、今までより長く。閻魔大王の側近が言っていた、文明が未発達とはこのことなのか。この世界では、誰かの役に立てそうだ。


 ならば、次にやることは決まっている。


 夜を、少しでもどうにかできるようになったのなら。


 その夜を支配している、あの吸血鬼のことを、調べたい。


 頭の中に、教科書ではなく、昔読んだ本の挿絵が浮かんだ。


 白い馬。額に、一本の角。


 ユニコーン。


 ただし、これも「理想的な標本」だ。実物は、血を吸うらしい。


 火に弱くて、日が出ている間は現れない。ユニコーンの姿で、近づいてくる。


 そんな生き物は、本には載っていなかった。


 ならば、調べるしかない。


 明日、日が高いうちに。


 火が使えるようになった。じゃあ次は、あの吸血鬼の正体を、暴きに行こうじゃないか。


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