第4話 異世界で最初に稼いだお金は、パン5個分でした
その夜。
窓から時々外を眺めてみたが、やはり人が出ている気配はない。風の音と、家々から漏れる生活音だけが頼りで、それ以外に怪しいことは特になく、朝を迎えた。
……少しだけ、ユニコーンを期待していた自分がいる。命の危険があるというのに、好奇心というのは恐ろしい。
「ゼノさん。おはようございます。さあ、朝ごはんを食べましょう」
ラフィは、優しい口調で挨拶をする。
「おはようございます……今日も良い天気ですね」
そんな他愛のない一言でさえ、緊張して噛みそうになった。
「あ、あの。その前に、お、お手洗いは、どちらに」
「庭の隅ですわ」
笑顔で言われた。聞き間違いではなかった。
庭の隅に行くと、穴が一つ掘ってあった。紙はなく、代わりの葉っぱが山盛りで置いてある。
……葉っぱには、もう懲り懲りなのだが。
異世界の洗礼を受けて、俺は朝食の席に戻った。
出てきた朝食は、現実世界とは大差がなかった。
肉らしき物は、豚肉か牛肉の、どちらかのようだ。ほうれん草のような青菜のおひたしも添えられている。
そして、美味いのである。
塩加減というか、どこか初めての感覚だった。しょっぱさと甘さの中間で、後味が非常に香ばしい。唾をごくりと飲み込むのさえ、体が欲しがった。
「お口に合いますでしょうか?」
ラフィが、じっとこちらを見ている。
感想を言わなければならない。会話が終わる前に。
「お、おいしい、です。とても」
語彙が死んだ。十八年分の読書は、いったいどこへ行ったのか。
「まあ、よかった」
それでもラフィは、ふわりと笑った。
助かった。この人の笑顔は、俺の語彙力を採点しない。
食べ終えたところで、思い切って切り出した。
「あ、あの。今日、町を見て回りたいんですが」
「あら。でしたら市場がよろしいですわ。ただ、市が開いているのは、日が昇ってから、昼過ぎまでですの。教会の鐘が三つ鳴ったら、おしまいですわ」
「鐘が、三つ……」
時計は、ないらしい。時間は、鐘と太陽が教えてくれるのだろう。
「昼過ぎまで、ですか」
「ええ。日が傾く前に、皆さん店じまいをして、家へ戻りますから」
ラフィが、にこりと笑ったまま、念を押した。
「ゼノさんも、日が傾く前には、必ず戻ってきてくださいね」
笑顔なのに、有無を言わせない。
「は、はい」
つまり、この町の商売は、日の出から昼過ぎまでしか成り立たない。稼げる時間が、半日もない。
……それは、とんでもなく非効率ではないか。
*
市場は、町の中央の広場に開かれていた。
石畳の広場の真ん中に、噴水がある。水を吐いているのは、翼を広げた石の竜の像で、周りでは女たちが桶を抱えて並び、水を汲んでいた。
その周りを、ぐるりと囲むように、木組みの家々が建ち並ぶ。白い漆喰の壁に、黒い梁。
二階が一階より張り出していて、軒先には鉄の看板が揺れていた。パンの絵、靴の絵、樽の絵。
文字が読めない人のために、絵で商売を示しているのだ。
――本で読んだ通りの、中世の街並みだった。
感動する暇もなく、音と匂いが襲ってきた。
売り声。値切る声。家畜の鳴き声。焼きたてのパン、干し魚、獣脂、汗、土。全部が混ざって、鼻の奥にくる。
人も多い。みんな、日が傾く前に用事を済ませようと、必死である。
「塩は貴重ですので、一握りで銅貨三枚しますの」
ラフィが、塩を売る露店の前で足を止めた。
「朝のお料理は、焦がした麦を砕いて、塩に混ぜたものですわ。この町の家庭の味ですの」
なるほど。あの香ばしい後味の正体は、焦がし麦だったらしい。高い塩を節約するための、庶民の知恵である。
……美味いうえに、安上がり。侮れない。
「ゼノさん、こちらへ」
次に案内されたのは、広場の北側に建つ石造りの店だった。
入口が、おかしい。
巨大な竜の頭骨が、壁にはめ込まれている。大きく開かれた顎が、そのまま店の入口になっていた。上顎からは、俺の腕ほどもある牙が、ずらりと垂れ下がっている。
……食べられる。
反射で、そう思った。
「この町の名物ですの。昔、この辺りで倒されたドラゴンの頭だそうですわ。マイナさんのお祖父様の代から、お店の看板なんです」
やはり、ドラゴンはいるらしい。しかも昔は、町の近くまで来ていた。
その牙の下で、恰幅のいい女性が腕組みをして立っていた。入口の前には木箱がいくつも置かれ、野菜と薬草が山盛りになっている。
口の中が薬草屋とは、どういう趣味だ。
「マイナさん。こちら、ゼノさん。昨日からうちに泊まっている方ですの」
「あらまあ、ラフィちゃんが男の子を連れてくるなんて。どこの子だい?」
「あ、あの、えっと……ゼ、ゼノ、です。と、遠い国から……」
言葉が上手く出ない。
「はは、緊張してるのかい。可愛い子だねえ」
助かった。笑ってくれた。
「それではゼノさん、わたくし、お勤めがありますので戻りますわね」
ラフィが、ぱっと振り返った。
「え」
「日が傾く前には、必ず戻ってきてくださいね」
笑顔のまま、念を押された。そして、人混みの中へ消えていった。
……取り残された。
目の前には、初対面の恰幅のいい女性。会話の糸口は、ゼロ。
「…………」
「…………」
気まずい。三秒どころか、十秒は経った。
視線を泳がせて、竜の牙の下に並んだ木箱へ逃げる。
並んでいるのは、束ねた香草だった。緑、緑、緑。パセリに似たもの、ミントに似たもの、よくわからない葉。
その中の一束で、目が止まった。
背筋が冷えた。
見覚えがある。ありすぎる。
あの店で、厨房から持ってきてもらった一房の葉。本の挿絵と照らし合わせて、毒性の低い品種だと確信して、かじった葉。
――つまり、死因である。
十八年の人生で、「再会」という言葉を使う相手が、まさか草になるとは思わなかった。
しかも向こうは、平然と木箱に収まっている。こっちは一度死んでいるのに。
いや、待て。落ち着け。
あのときの俺は、本の挿絵という「理想的な標本」と見比べて、確信して、死んだ。同じ間違いを二度繰り返すほど、俺は馬鹿ではない。……たぶん。
今度は、かじらない。学習能力くらいはある。
俺は木箱の中を覗き込み、気になる葉と、その隣の食用の香草を一枚ずつ取り出して、竜の下顎の上に並べ始めた。
左に食用、右に怪しいやつ。
葉の形。葉っぱの筋の通り方。縁のぎざぎざの深さ。
一枚だけなら、ほとんど同じに見える。だが、並べると、わずかに違う。食用の方は筋が縁まで真っ直ぐ伸びているのに、こちらは途中で曲がっている。
たまたま違うだけかもしれない。だから、もう何枚か並べる。五枚。十枚。
傍から見れば、他人の店先で葉っぱを一枚ずつ並べる、完全な不審者である。
しかも無言で。
十枚並べ終えたところで、結論が出た。
全部、同じ違いがあった。間違いない。
「ちょっと、あんた」
びくりとした。
「うちの商品で、何してんだい」
マイナが、腕組みのまま俺を見下ろしていた。腕が、俺の太ももより太い。
……終わった。二度目の死因が、竜の牙の下で決まる。
「あ、あの。そ、その束、売らない方が、いいです」
「……何だって?」
マイナが、ゆっくりと袖をまくった。
「うちの商品にケチをつけるなんざ、いい度胸だね」
命の危機を感じた瞬間、喉の渋滞が、嘘のように消えた。知識が絡むと、俺の悪癖はこうなる。
「その束には、食用の香草に、とてもよく似た草が混ざっています。見分け方は、葉っぱの筋です。縁まで届かずに、途中で曲がっているものが、そうです。一枚だけ見てもわかりません。並べて、見比べないと」
一息に言ってから、付け加えた。
「口にすると、すごく苦くて、喉が焼けるように熱くなって、立っていられなくなります。少しかじっただけでも、です」
「……やけに具体的だね。食べたことでもあるのかい」
「え、えっと。ほ、本で読みました。それと、昔、一度だけ、痛い目に」
「へえ。よく生きてたね」
「え、ええ、まあ、なんとか」
生きてはいない。完全に死んだ。
マイナは、しばらく俺を睨んでいた。それから、無言で束をほどき、一枚ずつ葉を並べ始めた。
一枚。二枚。三枚。
彼女の顔が、みるみる青ざめていった。
「……あたし、毎日、これを仕入れてたよ。混ざってるなんて、一度も」
手が、震えている。
「先月、うちの香草を食べた客が、喉がひりひりすると言って、寝込んだんだ。風邪だと思ってたけど、まさか――」
危なかった。
もし、見逃していたら。
青ざめた彼女の顔に、あの店の店主の顔が重なった。
客が店で毒草を食べれば、店は終わる。俺が、一度やらかしたことだ。止められたのに、止まらなかった。
今度は、間に合った。
……あのときの店主に、これを教えてやりたい。いや、あの人はもう、俺のせいで大変なことになっているのだが。
「本で読んだって言ったね。あんた、字が読めるのかい」
「え、はい」
「しかも、草のことまで?」
噴水の周りにいた店主や客たちが、ザワザワし出していつの間にかこちらを見ていた。
「おい、マイナ。そいつ、何者だ」
「学者様か?」
「いや、ラフィちゃんが連れてきた子だよ」
「ラフィちゃんの婿か?」
「ち、違います!」
声が裏返った。会話が一往復で終わるどころか、勝手に噂が進んでいく。
マイナが、俺の両手を、がしっと握った。
「ありがとうよ、あなたは命の恩人だ。うちの看板のドラゴンに誓って、この恩は忘れないよ」
目が、うるんでいる。
「これ、持っていきな」
手の中に、銅貨が五枚、押し込まれた。
「え、いや、そんな」
「いいから。これは報酬だよ」
手のひらの銅貨を、見つめた。
小さくて、少し欠けていて、ずっしりと重い。
パンが一つ、銅貨一枚。つまり、パン五個分である。
死因をひっくり返した知識の値段が、パン五個。安い。
だが。
十八年間、勉強して。誰にも褒められなかったのに。
葉っぱ一枚で死んだ知識が、異世界で、初めて金になった。
……悪くない気分だった。
どこかで、筆の走る音が聞こえた気がした。




