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第2話 天国にも地獄にも行けないようで、俺は文明遅れの異世界に行くことになりました。

 死んだ?


 ……なんて思わないで欲しい。


 俺がここで息をしている、言葉を発している時点でそれは、死を意味しないのだ。

 視界が開けると、白く靄(もや)のかかる場所にいるとわかった。足に感覚がなく、妙に眠気だけが襲ってくる。状況の理解に苦しみながら、俺は悟った。


 ……ここ現世じゃないな、と。


 足元を見下ろす。白い。床がない。いや、立ってはいる。立ってはいるのだが、何の上に立っているのかがわからない。

 生きている、という仮説が一つ消えた。


 辺りを見渡すと、大群のアリのような列があった。

規則正しく、みなが行儀よく並び、場を乱す者もいない。老人も、スーツ姿の男も、制服の女子高生もいる。誰も喋らず、誰も振り返らない。ただ、同じ方向へ進んでいく。


 ここに並べばいいのか。


 前に進む老人に着いていき、並んだ。


 幸い、列に黙って並ぶというのは、俺の数少ない得意分野である。


 そして五歩も進まないうちに、怒鳴り声が飛んできた。


「おいィ! そこ! 勝手に入んなっつってんだろうが!」


 振り返ると、妙な男が立っていた。


 和服のような、しかしどこか軍服めいた黒い装束。手には分厚い帳簿。顔は青白く、目だけがぎょろりと大きい。


「列に並ぶなァ! お前は対象外だ、対象外!」


「あ、え、えっと……」


「うるせぇ、口答えすんな!」


 まだ一言も言えていない。


 理不尽である。


 生前も理不尽だったが、死後も理不尽らしい。一貫性があるという意味では、この世界はよくできている。


 男はずかずかと近づいてくると、帳簿を乱暴にめくり始めた。


「名前は」


「み、御門、膳、です」


「ミカドゼン。ミカド……ミカド……」


 男が指で紙面をなぞり、ぴたりと止まった。そして、こちらを見た。


「お前、御門“善”?」


「あ、いえ、その……ぜ、膳、です。食膳の……」


「あ? 聞こえねぇよ」


「……食膳の、膳、です」


「……」


 男は無言で帳簿を見下ろし、それから鼻で笑った。


「ハッ。名前だけかよ」


 何がだ。


 聞きたいことは山ほどある。だが、口が動かない。頭の中では完璧な質問文ができあがっているのに、出口で渋滞している。


「あ、あの……た、対象外、って……」


「あ? 何だよ、はっきり言え」


「……っ」


 男はしばらく俺の口の開閉を眺めていたが、やがて舌打ちした。


「言葉のまんまだよ。ここに来た奴は善行と悪行を量られて、多い方に振り分けられる。上か、下か。それだけだ。小学校で習うだろ」


 習っていない。


「で、お前のがこれ」


 男は紙面を俺に向けた。


 白かった。一行も、何も書かれていない。


「空欄なんだわ」


「す、すみません……」


 なぜか謝っていた。空欄で謝る人間も、そういないだろう。


「ったく、定時で上がれると思ったのによ」


 死後の世界にも、定時があるらしい。


 男は帳簿を閉じ、靄の奥へ向かって声を張り上げた。


「閻魔様ァ! また出ました、判定不能! 今日三件目です!」


 ――閻魔様。


 その単語に、俺は思わず姿勢を正した。


 閻魔大王。冥界の裁定者。本で読んだ。読んだが、実在するとは思っていなかった。


 死んだ直後に採点基準が気になっている人間は、たぶん俺くらいのものだろう。


 靄の奥から、ゆっくりと影が近づいてきた。


 鬼の形相の巨漢を予想していた。だが現れたのは、やけに静かな老人である。背は高いが痩せており、黒い衣をゆったりと羽織っている。目は半分閉じていて、こちらを見ているのかどうかもわからない。


 そして、何も言わない。ただ、そこに立っている。置物かと思ったが、たまに瞬きをする。


「ご覧の通りです。十八年生きて、まるまる空欄。善行も悪行もゼロ。上にも下にも振り分けられません」


 男が帳簿を掲げた。


「しかもこいつ、友人関係の欄まで空欄ですよ。十八年間、一人も。ある意味すげぇわ」


 事実なので、反論の余地がない。


「感謝された回数、ゼロ。人を助けた回数、ゼロ。唯一の記録は、母親に『勉強やった』って言って、やってなかった日が一回。以上」


 ……あれは、記録されているのか。


「特技、勉強。で、その勉強で何したよ。死因、草。葉っぱ。かじって死亡」


 男は肩を揺らして笑った。


「葉っぱ一枚で来た奴、初めて見たわ」


 やめてほしい。


 言い返したかった。だが、いくら頭の中で反論を組み立てても、出口で渋滞して、一言も出てこない。教室でもそうだった。


 閻魔大王は、黙って聞いていた。半分閉じた目のまま、微動だにしない。


 助けてくれ、と思うのも違う気がした。全部、事実だったからだ。


「ルール上は、輪廻に戻すのが筋ですね」


 男が、帳簿をぱたんと閉じた。


「記憶消して、ゼロからやり直し。まあ、こいつの場合、消して困る中身もねぇでしょうけど」


 記憶を、消す。


 その言葉に、背筋が冷えた。


 俺の十八年は、褒められもせず、愛されもせず、友人の一人も作れなかった。惨めな人生だったと思う。


 男の言う通り、消えて困るものではない。


 ――はずだった。


 公式も、年号も、化学式も。図書館で読んだ本の中身も。十八年、机に向かい続けて得たものが、一行残らず消える。


 それは、俺が十八年、何もしなかったのと同じことだ。


 ……いや、待て。


 俺は、もう死んでいる。


 笑われても、馬鹿にされても、これ以上、失うものはない。生前の俺が一度もできなかったことを、今ならできるのではないか。


 どうせ死んでいるのだ。恥をかいたところで、悪くなりようがない。


 顔が熱い。手が震えている。心臓が、うるさい。


「……き、記憶を」


 声が裏返った。死ぬほど恥ずかしかった。もう死んでいるが。


「記憶を、消さないで、ください」


「はぁ?」


「俺は、何もしてません。人も助けてないし、寄付もしてないし、感謝されたこともありません。空欄なのは、その通りです」


「だから言ってんだろ」


「でも」


 息を吸った。


「勉強は、しました」


 男が、口を閉じた。


「十八年、机に向かいました。意味がないのは、知ってます。廊下で、言われたことがあります。あいつは勉強だけできても、社会に出たら通用しない、って」


 聞こえていた。普通に、聞こえる声だった。あのとき俺は曲がり角の手前で立ち止まって、彼らが通り過ぎるのを待った。顔を合わせたところで、何を言えばいいのかわからなかったからだ。


「たぶん、正しいと思います。実際、友達もできませんでしたし、最後は、葉っぱで、死にましたし」


「……まあな」


「でも、やめなかったんです」


 喉の奥が、詰まった。


「他に、何もなかったので。朝起きて、学校行って、帰って、机に向かう。それしか、やることがなかったので。偉くもなんともないです」


 目の奥が、熱くなった。


 ――まずい。


 そう思ったときには、もう遅かった。視界が歪んで、頬を伝うものがあった。


 生まれて初めてだった。


 テストの点が悪くても泣かなかった。母が通知表を見ずに引き出しへ入れても泣かなかった。陰口を聞いた日も、泣かなかった。


 なのに、今になって。もう終わった人生の、残骸のような知識ひとつのために。


「それしか、ないんです」


 声が、割れた。


「それを消されたら、俺、本当に、何も」


 言葉が切れた。続きが出てこなかった。


 俺は、頭を下げた。涙が、白い床に落ちた。


 痕は、残らなかった。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 やがて、聞こえてきたのは。


「ぶっ」


 ――笑い声だった。


「あっはっは。何それ、泣いちゃった? ねえ、今泣いた?」


 俺は、顔を上げられなかった。


「来るんだよなぁ、たまに。自分は頑張ったって言いにくる奴。でもさあ、ここは記録が全部なの。頑張ったかどうかじゃねぇの、結果が何も無ぇって話してんの」


 帳簿を、ぱんぱんと叩く音がした。


「葉っぱかじって死んだ奴が、知識は持っていきたいです、だってよ。笑うだろ普通」


 笑われている。わかっている。笑われるようなことを言っている自覚はあった。


 それでも、全身が熱かった。


「はいはい、記憶消して輪廻ね。終わり終わり。次の人ー」


 男が、帳簿を閉じた。ぱたん、という音が、やけに大きく響いた。


 ――終わった。


 俺は、目を閉じた。


 せめて、何か一つくらい覚えていられたらよかった。たとえば、本の中にあったあの世界。どんな味がして、どんな匂いがして、どんな暮らしだったのか。


 知りたかったな。


 そう思ったときだった。


 衣擦れの音がした。


 顔を上げる。


 閻魔大王が、目を開けていた。半分だけ閉じていたはずのそれが、今は完全に見開かれて、まっすぐ俺を見据えている。


 怒りはなかった。侮蔑もなかった。


 そこにあったのは、ひどく静かで、あたたかい目だった。


 何も言わない。


 閻魔大王は、ゆっくりと片手を上げた。それだけだった。


「……は?」


 部下の男の声が、裏返った。


「いや、閻魔様。待ってください。こいつ、ただの判定不能ですよ。特別扱いするようなもんじゃ」


 閻魔大王は、答えない。上げた手も、下ろさない。


 男が、長い息を吐いた。


「……マジすか」


 沈黙。


「いや、だって規則が」


 沈黙。


 男が、自分の額を押さえた。


「……はいはい。特例処理ね。全く、こういう奴に甘いんだから」


 何が起きているのか、わからなかった。二人の間では、何かが通じたらしい。だが俺には、閻魔大王が黙って手を上げただけにしか見えない。


 その閻魔大王が、俺を見た。


 そして、ごく短く、告げた。


「お前の帳簿は、空だ」


 責める響きは、どこにもなかった。低く、驚くほど穏やかな声だった。


 わかっている。知っている。十八年、誰も俺の名前を呼ばなかった。何も、書かれなかった。


「……だが」


 閻魔大王が、わずかに目を細めた。


「白紙は、汚れてもおらぬ」


 ……は?


「書け」


 それだけ言うと、閻魔大王は、ほんの一瞬だけ口元を緩めたように見えた。そして、ゆっくりと目を閉じた。


 もう、こちらを見ていない。話は終わった、ということらしい。


「ったく。閻魔様がよしって言うんだから、こっちに拒否権ねぇんだよなぁ」


 部下の男が、ぶつぶつ言いながら帳簿を開き直した。


「おい、空欄。記憶は持ってっていいってさ。草の見分け方も丸ごと持っていけるぞ」


 余計なお世話である。


「行き先は、普通の輪廻じゃなく別口だ。ちょうど空きがあんだわ。別の世界に」


「……別の、世界」


「言っとくけど不便だぞ。電気ねぇ、水道ねぇ、風呂は月一で上等、トイレはその辺だ。文字読める奴も半分いるかどうか。あ、本もほとんどねぇからな。全部手書きの写本で、一冊が家一軒分だ」


 本がない。図書館がない。


 この世の終わりだ。いや、既に終わっているのだが。


 目の前が暗くなった。せっかく記憶を残してもらったのに、使う場所がどこにもない。


 その顔を見て、男が心底楽しそうに笑った。


「でも一個だけいいこと教えてやるよ。中世ヨーロッパっぽい世界だぞ、そこ。お前が死ぬ前にかじった、あの店のまんまだ」


 ――え。


 息が、止まった。


 俺が、ずっと読んでいた世界。図書館の、古い紙の匂いのする本の中にだけ存在した世界。


 あの本を読みながら、俺はいつも同じことを考えていた。


 ――実際は、どんな匂いがしたんだろう。


 麦の味は。土の硬さは。鐘の音の大きさは。


 本には書いていない。書けるわけがない。誰も、見ていないのだから。


 たぶん俺は、点数が欲しくて勉強していたわけではなかった。褒められたかったのは本当だ。だが、褒められなかった日も、俺は机に向かっていた。


 知らないことを知るのが、好きだったのだ。


 たったそれだけのことを、十八年、誰にも言えなかった。


「言っとくけどな、観光じゃねぇぞ」


 男が帳簿に、最後の一筆を入れた。


「着てるそれ以外、持ち物ゼロ、知り合いゼロ、金ゼロだ。死ぬなよ。次はもう特例出ねぇからな」


 男が帳簿を、ぱたんと閉じた。


 足元が、ふわりと抜ける。白い空間が歪み、視界が端から溶けていく。


「あの! さっきの、閻魔様の言葉は――」


 答えは、返ってこなかった。


 代わりに、遠ざかっていく男が、心底どうでもよさそうに手を振っていた。


「知らねぇよ。自分で考えろ、空欄」


 視界が、白く弾けた。


 *


 最初に感じたのは、ノスタルジーだった。


 どこか懐かしい、憧れた本の世界。


 レンガ造りの家々が並び、井戸があり、西洋風の人々が行き交う。


 俺は、どこか寂しさと引き換えに、何もない不便なこの異世界へ降り立った。


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