第2話 ノア、お前は一体何者なんだ
峠の上の煙を、しばらく眺めていた。
白くて、細い。まっすぐ上へ伸びて、途中で風に流されている。
頭の中で、ページがめくれた。理科の資料集。よく乾いた薪は、燃やしてもあまり煙が出ない。湿った木や生木を燃やすと、水分のせいで火の勢いが落ちて、煙がもくもくと増える。
そうすると、あの細い煙は、乾いた薪の煙だ。たまたま通りかかった旅人が、そこらの枝を拾って焚いたものではない。薪を用意して、毎日同じ場所で火を焚いている者がいる。
しかも、場所は峠のてっぺんだ。道を見下ろすには、一番いい。
「……ハンスさんの言ってた山賊、だよな」
ノアが、ぶるっと鼻を鳴らした。
地図を広げる。マイナの字で、峠のところに『ここしか道がない』と書いてある。今回だけは、たぶん、ではなかった。
引き返すか。進むか。
煙の太さからして、火は一つ。大勢ではない。それに、ハンスは「峠は昼のうちに越えろ」と言っていた。山賊がいても、夜よりは昼の方がまだましだ。
俺は、ノアの背に跨がった。
「行こう。……もし何かあったら、とにかく走ってくれ」
*
峠は、思っていたより急だった。
片側は岩の壁、もう片側は深い谷だ。細い道が、その間をくねくねと続いている。
てっぺんが近づくと、焚き火の匂いがした。
「止まれ」
岩の陰から、男が三人出てきた。
真ん中の男は、片目に布を巻いている。手には、刃のこぼれた剣。両脇の二人は、棍棒を持っていた。
「荷物を置いていきな。そうすりゃ、命までは取らねぇ」
「あ、あの、その、荷物は」
言葉が、詰まった。知らない人。しかも、刃物を持っている。三か月かけて慣れた分が、一瞬で全部吹き飛んだ。
「お、お金は、ほとんど、なくて。これは、松脂を、買うための――」
「ほう。買うための金があるってことか」
しまった。自分から言ってしまった。
片目の男の視線が、俺の下に移った。
「それに、その白い馬。角が生えてやがる。こいつは、荷物なんかよりずっと高く売れそうだ」
男が、ノアの手綱に手を伸ばした。
その瞬間、ノアが、後ろ脚で立ち上がった。
「うわっ」
俺は、首にしがみついた。
ノアは、くるりと向きを変えると、走り出した。山賊の方ではない。道の外へ。
谷の方へ。
「ノア!? そっちは、崖――」
地面が、消えた。
*
落ちる。
そう思った。
だが、いつまでたっても、谷底は近づいてこなかった。
おそるおそる、目を開ける。
ノアの蹄が、何もない空を蹴っていた。一歩ごとに、蹄の下で淡い光が弾ける。まるで、見えない階段を駆け上がっているようだった。
飛んでいる。
ユニコーンが、空を、走っている。
頭の中で、ページが猛烈な勢いでめくれた。物理の教科書。重力。揚力。羽。翼の面積。空気の密度。
どのページにも、羽のない馬が空を走る方法は、載っていなかった。
「物理の法則、どこ行った!?」
叫び声が、谷に響いた。
振り返ると、峠の上で、三人の山賊が口を開けたまま固まっていた。片目の男は、剣を取り落としている。
あっという間に、その姿が小さくなっていく。
そして、俺には、もう一つ問題があった。
高い。
とても高い。
十八年、机に向かってきた男は、高い所が得意ではなかった。三階の教室の窓から外を見るだけで、足がすくむ人間だった。
「の、ノア、下、下は見たくない、でも前も見たくない、どこ見ればいいんだ」
ノアは、楽しそうに、ふん、と鼻を鳴らした。
その鼻息で、俺の髪が逆立った。
*
しばらくして、ようやく、景色を見る余裕が出てきた。
足の下に、峠の向こう側が広がっている。
岩ばかりの山が、ごつごつと連なっていた。その一番高い岩山の頂に、黒く大きな影が見える。巣だ。枝や岩を積み上げた、家ほどもある巣。
竜の巣、というのは、噂ではなかったらしい。
ノアは、その岩山を大きく避けるように、ゆるやかに曲がった。
その先に、緑が見えた。
見渡すかぎりの、松林だった。濃い緑が、谷の底から山の中腹まで、びっしりと埋めつくしている。その手前に、木の屋根の家が、ぽつぽつと集まっていた。
「……ヴァルトの村だ」
三日かかるはずの道のりを、半日で越えてしまった。
マイナの地図は、結局、一度も役に立たなかった。
*
ノアは、村の外れの、切り株だらけの空き地に降りた。
蹄が地面についた途端、俺は、背中から転げ落ちた。
地面だ。固い。動かない。素晴らしい。
草の上に大の字になって、しばらく空を見上げていた。膝が笑っている。たぶん、明日まで笑っている。
ノアが、心配そうに、こつん、と額に鼻先を当ててきた。
「……大丈夫。助かったよ。ありがとう」
本当に、そう思った。
ノアがいなければ、荷物も、松脂を買うお金も、ノア自身も、全部取られていた。
ゆっくりと、体を起こす。
そのとき、首の横に、冷たいものが当たった。
斧の刃だった。
「動くな」
低い、女の声だった。
「空から降ってきた、角の生えた馬と、金髪の男。どう見ても、まともな客じゃないね」
目だけを動かす。
日に焼けた腕が、まっすぐ斧を構えていた。
「あんた、誰だ」




