第1話 町の外で迎える、初めての夜
ゴーン。
朝の鐘が一つ鳴ったとき、町の北の門には、もう人が集まっていた。
「坊や、これを持っていきな」
マイナが、羊皮紙を一枚押しつけてきた。炭で、道が描いてある。
「ヴァルトまでの道だよ。あたしが若い頃に一度だけ行ったときの記憶で描いた」
広げてみる。
『大きな岩』
『右に曲がった木』
『ここで左』
『たぶん、ここ』
「……たぶん、とは」
「たぶん、だよ」
三十年前の記憶で描かれた地図だった。帳簿と同じ書き方をしている。
「峠は、昼のうちに越えろ。いいな。日が傾いたら、一歩も進むな」
ハンスが、昨日の夜と同じことを、もう一度言った。たぶん、これで三度目だ。
人垣の後ろで、ラフィが小さく手を振っていた。昨日、言うべきことは言った。だから俺も、小さく手を振り返すだけにした。
胸元の袋から、旅のお守りの草が、ほのかに匂った。
ノアが、膝をつく。荷物を積んだ背中に、跨がる。
今度は、一度で乗れた。
小さく拍手が起きた。乗れただけで拍手される人間は、たぶん俺くらいのものだろう。
*
町を出ると、しばらくは麦畑が続いた。
異世界に来た日、最初に見た景色と同じだ。あの日は、何もかもが知らない世界だった。今は、畑で働く人が、ノアを見て手を振ってくる。「幸運のユニコーンだ」という声まで聞こえた。
昼過ぎには、畑が途切れて、森に入った。
木々が高い。道は細く、人の気配が消えていく。
「ノア、この先、右に曲がった木があるらしいんだけど」
ノアは、ぶるっと鼻を鳴らした。
「……そうだよな。右に曲がった木なんて、いくらでもあるよな」
返事はない。だが、ノアとなら、一日中でも話していられる。ノアは最高の話し相手だった。
*
日が傾き始めた。
ハンスの言葉を思い出す。日が傾いたら、一歩も進むな。
道の脇の、少し開けた場所で、ノアの背から降りた。枯れ枝を集めて、火を起こす。マイナの店で巻いてきたたいまつも、何本か地面に立てた。
町の外で迎える、初めての夜だった。
日が落ちると、森は、町とはまるで違う顔を見せた。
風が木を鳴らす音。何かが枝を踏む音。遠くで、聞いたことのない鳥が鳴いている。音がするたびに、肩がびくりと跳ねる。
夜の森には、獣もいる。それに、どこかに、あの魔女がいる。洞窟で見た。あの女は、火の粉ひとつで肌が焼けた。これだけ火を焚いていれば、獣も、あの女も、近づいてはこないはずだ。頭ではわかっている。だが、頭でわかることと、怖くないことは、まったく別の話だった。
ノアが、俺の横にぴたりと体を寄せて、伏せた。温かい。
「……ありがとう」
ノアは、こつん、と一度だけ鼻先を当てて、目を閉じた。
*
眠れないので、空を見上げた。
森の木々の間から、星が見える。町よりもずっと多い。たいまつの火が届かない分、空が暗いのだ。
北はどっちだ。
頭の中で、ページがめくれた。理科の資料集。北斗七星。ひしゃくの先の二つの星を結んで、その長さを五倍のばした先に、北極星がある。
探す。
ない。
どこにも、ひしゃくの形がなかった。カシオペヤ座の、Wの形もない。知っている星座が、一つもない。
当たり前だった。ここは、地球ではないのだ。
しばらく、何も考えられなかった。
知っていることが、全部、役に立たない夜空。教科書のページは、こんなにもはっきり浮かぶのに、空には、そのどれも描かれていない。
この世界に来て、初めて、本当に遠くまで来てしまったのだと思った。
胸元の袋を、握る。草の匂いが、少しだけ、息をしやすくしてくれた。
……だが。
星座は違っても、星が動く仕組みまで違うとは限らない。
北斗七星は、北を探すための目印にすぎない。本当に大事なのは、その奥にある決まりの方だ。空は、ひと晩かけて、ある一点を中心にゆっくり回っている。その中心にある星だけは、ほとんど動かない。
なら、待てばいい。
俺は、木の枝を一本立てて、その先に重なって見える星を、いくつか覚えた。
しばらくして、もう一度見る。
星は、少しずつずれていた。ずれ方を、いくつも比べていく。全部の星が、空のある一点を中心に、円を描くように動いている。
その中心に、小さな星が一つ、ほとんど動かずに光っていた。
昼間、太陽が一番高く上ったのは、この星とちょうど反対側の空だった。だから、こちらが北で間違いない。
「……あった」
この世界の、北極星だ。
教科書に載っている星は、一つもなかった。それでも、教科書に書いてあった決まりは、この世界の空でも、ちゃんと生きていた。
覚えた答えは、場所が変われば使えなくなる。だが、仕組みを知っていれば、どこへ行っても、答えを自分で出せる。
十八年、答えを暗記してきたつもりだった。本当は、それだけではなかったらしい。
俺は、その星の名前を、まだ知らない。
帰ったら、ラフィに聞いてみよう。祖母から、何か聞いているかもしれない。
そう思ったら、少しだけ、眠くなった。
*
夜が明けた。
火の番をしながら、いつの間にか眠っていたらしい。ノアの体温のおかげで、寒さは感じなかった。
昨日の夜に見つけた星の方角へ、顔を向ける。
北の空の下に、山の稜線が見えた。あれが、ハンスの言っていた峠だろう。
その峠の上に、細い煙が一筋、立ちのぼっていた。
誰かが、火を焚いている。




