第12話 誰かに心配されることがこんなに嬉しいとは。
商会を作ってから、三か月が経った。
季節が一つ変わる間に、町の夜は、すっかり様子が変わっていた。
商会で集めたお金で、松脂をまとめて買い付けられるようになった。たいまつの値段は、一本銅貨五枚から四枚に下がった。長持ちする巻き方は、マイナの店にもハンスの店にも広まっている。
今では、ほとんどの家が、夜通したいまつを灯していられる。
変わったのは、町の夜だけではない。
ノアを見て逃げる人は、もういない。店の裏には、毎朝のように子どもたちがやってきて、葡萄を一粒ずつ差し出していく。ノアは相変わらずぷいっとするが、葡萄だけはちゃっかり食べる。
口伝えは、悪い方にも良い方にも、勝手に転がっていくらしい。三か月前は「吸血鬼のユニコーン」だった呼び名が、今では「幸運のユニコーン」になっていた。
「えー、それでは、ミルフォード灯火商会の、初めての、集会を始めます」
礼拝堂に、札を持った町の人たちが、五十人ほど集まっていた。三か月で、二十人も増えている。これまでは俺とマイナで決めてきたが、遠くまで人を出す話となると、そうもいかない。
五十人の目が、一斉にこちらを向く。三か月前なら、ここで逃げ出していた。今は、膝が少し震えるくらいで済んでいる。
今日の議題は、一つ。
たいまつを、もっと安くしたい。
「今、俺たちが使っている松脂は、北のヴァルトの村で取れたものです。それを、間に入る商人から買っています。商人の手を通るたびに、値段が少しずつ上がります」
松脂が村を出てからこの町に届くまでに、三人の商人の手を通っている。そのたびに、儲けが上乗せされる。帳簿を三か月つけて、それがはっきりわかった。
「なら、俺たちが、直接ヴァルトの村まで行けばいいんです。間の商人の分だけ、たいまつは安くなります。銅貨四枚が、三枚になるかもしれません」
喜ばれると思っていた。
だが、礼拝堂は、しんと静まり返った。誰も笑っていない。
「坊や」
マイナが、珍しく低い声で言った。
「北の道が、どんな道か知ってるのかい」
「三日歩く、とは聞きました」
「三日歩くってことは、町の外で、夜を二回越すってことだよ」
夜を、外で。
この町の人たちが、日が落ちたら決して家から出ない理由を、俺はもう知っている。
ハンスが、腕を組んだまま続けた。
「それだけじゃねぇ。峠には山賊が出る。去年も、荷馬車が一台やられた。それに、峠の向こうの岩山には、竜の巣があるって話だ」
竜。マイナの店の入口にある、あの大きな頭蓋骨を思い出した。昔は、この町の近くまで飛んできていたらしい。
「商人どもが高く売るのは、ただの欲張りじゃねぇ。命がけで運んでくる手間賃なんだよ」
……そうか。
帳簿の数字だけでは、見えなかったことだ。間の商人が上乗せしていたのは、儲けだけではなかった。危ない道を通る、命の値段だったのだ。
「それで、誰が行くんだ」
一番後ろの年配の男が言うと、礼拝堂はさらに静かになった。誰も、目を合わせない。床を見る人、天井を見る人、隣の人を見る人。
当然だ。俺だって、できれば行きたくない。
それでも、手を挙げた。
「……俺が、行きます。この商会を始めたのは、俺なので」
ざわっ、と空気が揺れた。
「坊や、本気かい」
「本気です」
マイナが、何か言いかけて、やめた。
「……決めるなら、手を挙げて数えりゃいいだろう」
年配の男が、ぶっきらぼうに言った。
「あ、それなんですけど。手の数ではなく、札の枚数で数えます。札一枚につき、一票です」
「なんだそりゃ」
「たくさんお金を出した人ほど、損をしたときの痛みも大きいので、そのぶん、決める力も大きくするんです」
これは、俺の思いつきではない。現代の会社でも、持ち主たちが集まって物事を決めるときは、同じ決まりで数えている。
「じゃあ、札を四枚持ってるマイナは、四票ってことか」
「そうなります」
「ずるいぞ、マイナ!」
「金を出したからだよ。悔しかったら、あんたも札をたくさん買いな」
どっと笑いが起きて、張りつめていた空気が、少しだけゆるんだ。
札の枚数で数えると、賛成が多かった。
ただ、誰も、嬉しそうな顔はしていなかった。
*
頭の中で、ページがめくれた。図書館で読んだ、林業の本。松の木の幹に、斜めに浅く傷をつけると、そこから松脂がにじみ出てくる。傷の下に器を下げておけば、少しずつ溜まっていく。
実際に松林を見ないと、うまくいくかはわからない。だが、村の人が昔ながらのやり方で松を切り倒しているなら、木を倒さずに、毎年同じ木から取れるようになるかもしれない。
買い付けるだけでは、松林もいつかは尽きる。行くなら、取り方ごと持ち帰りたい。
*
その夜、教会の庭に、たいまつが何本も灯った。
出発を前に、マイナが「景気づけだよ」と言って、人を集めたのだ。
日が落ちてから、外に人が集まる。三か月前なら、考えられないことだった。
吸血鬼のユニコーンの話を信じる人は、もういない。それでも、長い間しみついた夜への怖さは、そう簡単には消えない。獣も出るし、町の外から何がやってくるかもわからない。だが、これだけたいまつを灯せば、教会の庭くらいなら大丈夫だろう、という話になった。
町は、静かだった。だが、暗くはなかった。
家々の戸口で、たいまつがいつまでも燃えている。三か月前までは、日が落ちれば一つ、また一つと消えていった火だ。
「坊や。今からでも、やめたっていいんだよ。誰も責めやしないから」
「峠を越えるのは、必ず昼のうちにしろ。日が傾いたら、一歩も進むな。いいな」
「パンを持っていきな。三日分……いや、五日分だ。足りなくなったら困るからな」
次々に、声をかけられた。どれも、心配する声だった。
生前の俺の人生で、誰かに「気をつけて」と言われたことは、何度あっただろう。数えるほどもなかった気がする。
今夜だけで、もう両手でも足りない。
「それにしても、三日も歩くつもりか。荷物はどうする」
ハンスが、俺の背中のあたりを見て言った。
そこには、いつものように、ノアがいた。
ノアは、俺の前に回りこむと、前脚を折って、ゆっくりと膝をついた。マイナやハンスにお辞儀をしたときと、同じ姿勢だ。
ただ、今度は、頭を下げていない。背中を、こちらに向けている。
「……乗れ、ってことか?」
ノアが、こつん、と優しく足を蹴った。早くしろ、という意味らしい。
ユニコーンに、乗れるのか。本の中の騎士は、当たり前のように乗っていたが、自分が乗るとは思っていなかった。
背中に手をかけて、跨がろうとする。
ずるっ。
滑り落ちた。十八年、机に向かってきた男の運動神経は、異世界でも変わらないらしい。
ラフィが、口元を押さえて肩を震わせている。笑っている。完全に笑っている。
二度目で、ようやく背中に収まった。
ノアが、すっと立ち上がる。目線が、一気に高くなった。
「おおー……」
庭にいた人たちから、どよめきが上がった。子どもたちが、手を叩いている。
ノアは、庭をぐるりと一周、軽い足取りで駆けた。風が、頬を切る。思っていたより、ずっと揺れない。
そして、たいまつの火の間を駆け抜けた、そのとき。
ふわり、と、体が軽くなった気がした。
蹄の音が、一瞬だけ、消えた。
「……今、浮かなかったか?」
ノアは、何事もなかったような顔で、もう地面を歩いていた。
*
集まりが終わって、人がまばらになった頃、ラフィが隣に来た。
「わたくしは、町に残りますわ。教会のお務めがありますもの」
「はい。わかってます」
わかっていた。それなのに、少しだけ、胸の奥がすうっと冷えた。
「これを」
ラフィが、小さな布の袋を、俺の手に乗せた。中に、乾いた草の束が入っている。ほのかに、いい匂いがした。
「教会の庭で育てている、旅のお守りの草ですの。わたくしの祖母も、旅に出る人には、これを渡していました」
手のひらの袋を、見つめる。
こういうとき、なんと返せばいいのか。十八年分の知識を、頭の端から端まで探した。どこにも書いていない。
「……ありがとうございます。大事にします」
出てきたのは、それだけだった。
「お帰りを、お待ちしていますわ」
ラフィが、ふわりと笑った。
胸の奥が、さっきとは逆に、妙に熱い。冷えたり熱くなったり、忙しい。
この感じが何なのか、俺にはまだ、わからなかった。
背中で、ノアが、ふん、と鼻を鳴らした。呆れているような鳴らし方だった。
*
白い靄の向こうで、列が、今日も静かに進んでいる。
「……ん?」
そこは地獄。
分厚い帳簿をめくっていた男の手が、止まった。
「おい、ちょっと待て」
空欄だったはずの頁に、細い字が、ぽつぽつと並んでいた。
『毒草から、人を守った』
『夜の火を、長く灯した』
『迷子を、見つけ出した』
『商売敵と、喧嘩をしなかった』
「なんだこりゃ。字が増えてやがる」
男は、帳簿を持ったまま振り返った。
「閻魔様ァ! 例の判定不能の、空欄だった奴。なんか、ちまちま書きこまれてますよ」
靄の奥で、静かな老人が、ゆっくりと目を開けた。
何も言わない。
「……まあ、まだ一頁にもなってませんけどね」
男が、つまらなそうに帳簿を閉じた。
閻魔大王は、わずかに目を細めた。
ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。
第1章 完




