第11話 お金を客観的に把握しましょう
商会ができて三日。
札を買った人は、三十人を超えた。
それは、いい。問題は、マイナの帳簿だった。
「これが、うちの帳簿だよ」
差し出されたのは、板きれが一枚と、羊皮紙の切れ端が十数枚。そこに、炭で走り書きが散らばっている。
『たくさん売れた』
『ハンスに貸し たぶん三本』
『パン屋 つけ』
『いい日』
「……いい日、とは」
「いい日だったんだよ」
そうですか。
「三十年、これでやってきたんだ。困ったことはないよ。ただ、まあ」
マイナが、少しだけ目をそらした。
「毎年、どこかで、銅貨がいくらか消えるんだよねぇ」
*
消えた銅貨。
探すには、まず、お金の流れを全部、見えるようにしなければならない。
頭の中で、ページがめくれた。
図書館で読んだ、商いの歴史の本。
簿記。
お金の出入りを、決まった書き方で帳面に記録していく方法だ。日本では、どの会社も、毎日これをつけている。
ふつうの小遣い帳なら、「パンを買った、銅貨一枚」と一行で済ませる。簿記は、そこにもう一つ書き足す。お金が出ていったなら、代わりに何が入ってきたのか、だ。
たいまつを一本売れば、銅貨が五枚入ってきて、代わりに、たいまつが一本出ていく。入ってきたものを左に、出ていったものを右に。必ず組にして、一行に書く。
こうしておくと、不思議なことが起きる。左の合計と右の合計が、いつもぴったり同じになるのだ。もし合わなければ、どこかで書き忘れたか、お金がどこかへ消えたということになる。
この書き方は、14世紀ごろ、イタリアの商人たちの間で使われ始めたと言われている。とくに磨きをかけたのが、ヴェネツィアの商人たちだった。特許の仕組みが生まれたのと、同じ町だ。
1494年、ルカ・パチョーリという修道士が、ヴェネツィアで出した数学の本の中で、この方法をくわしく解説した。印刷された本で紹介されたのは、それが初めてだった。そこから、ヨーロッパ中に広まっていった。
俺は、新しい羊皮紙に、縦に一本、線を引いた。
「マイナさん。入ってきたものを左に、出ていったものを右に、書いていきます」
「線を一本引いただけじゃないか」
「はい。線を一本引いただけです」
マイナは、思いきり眉をひそめた。
*
夕方には、三十年分の謎が解けていた。
マイナの覚えている範囲で、この半年の売り買いを左右に書き出していく。たいまつ、薬草、野菜、木箱。一行ずつ、左と右を揃えていく。
最後に、左と右を足した。
合わない。右が、銅貨二十三枚分、多い。
出ていったのに、代わりに何も入ってきていないものが、銅貨二十三枚分ある。
「マイナさん。子どもがお使いに来たとき、何かおまけしてませんか」
「……そりゃ、ちょっとはね。干し葡萄を一つかみとか、小さい薬草の束とか」
「それを、毎回」
「毎回、ってほどじゃ……」
マイナの声が、だんだん小さくなっていく。
「……毎回かもしれないね」
消えた銅貨の正体は、マイナの優しさだった。
「坊や、あんた、線を一本引いただけで、三十年の謎を一日で解いちまったよ」
「たかが線を一本引いただけです」
「それが恐ろしいって言ってるんだよ」
次の日には、町で噂になっていた。
「マイナの店の坊やは、紙に線を引いて、消えた銭を呼び戻すらしい」
呼び戻してはいない。見つけただけだ。
*
夜、教会の台所で、ろうそくを一本灯した。
商会の札を買った人の名前と額を、新しい帳簿に書き写さなければならない。三十人分だ。
「わたくしも、お手伝いしますわ」
ラフィが、向かいに座った。
そういえば、この町で文字を書ける人は少ない。教会の娘であるラフィは、その数少ない一人だった。
二人で、黙々と書いていく。ろうそくの火が、ラフィの横顔を、やわらかく照らしていた。
「ゼノさんの故郷は、どんなところでしたの?」
ふいに、ラフィが言った。
一度死んで、ここに来た。とは、言えない。
「……本が、たくさんある国でした。誰でも、好きなだけ読めるんです」
「まあ。素敵ですわね」
ラフィは、ペンを止めて、少し遠くを見るような目をした。
「わたくし、教会にある古い祈りの本しか、読んだことがありませんの。いつか、ほかの本も、読んでみたいですわ」
「……読めますよ。いつか、きっと」
自分でも、何を約束しているのかわからなかった。
ペン立てに、手を伸ばした。
同じタイミングで、ラフィの手も伸びてきた。
指先が、触れた。
「あ」
「あら」
俺は、ペンを取り落とした。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ」
ラフィが、くすりと笑った。
「ゼノさん、お顔が赤いですわ」
「ろ、ろうそくの、熱です」
「ろうそくは、一本だけですけれど」
論破された。
十八年、勉強だけしてきた男は、こういうときに使える知識を、一つも持っていなかった。
*
ラフィが先に休んだあと、俺は一人で、帳簿の一番最初のページを開いた。名前を書き写すとき、ここだけは空けておいたのだ。
まだ、何も書かれていない。
ペンを取る。一行目に、商会の名前を書いた。
『ミルフォード灯火商会 帳簿』
白紙の帳簿に、一行目が入った。
――お前の帳簿は、空だ。
ふと、あの静かな声を思い出した。




