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第3話 この世界の識字率を上げたい

「あんた、誰だ」

 斧(おの)は、首の横でぴたりと止まったままだった。


 答えなければ。名前を言えばいい。それだけだ。

「み、ミルフォード、灯火商会の、ゼ、ゼノと、申します」


 噛んだ。三か所噛んだ。


 とっさに、懐(ふところ)から商会の札を一枚取り出して、差し出した。名前と、商会の名が書いてある。身分を示すには、これしかない。


 女は、札をちらりと見て、眉をひそめた。

 「字なんか、読めないよ」


 そうだった。この世界で、字を読める人は少ない。自己紹介の紙を、読めない相手に差し出した。名刺交換に失敗した新入社員でも、もう少しうまくやる。


 そのとき、ノアが、俺と斧の間に、すっと首を割りこませた。


 女の目が、ノアに移る。


 ノアは、ただ、じっと女を見つめていた。睨むでもなく、怯えるでもなく。

「……馬に守られる男なんて、初めて見たよ」


 斧の刃が、首から少しだけ離れた。


 ようやく、相手の顔を見ることができた。

 年は、俺と同じくらいだろうか。赤茶けた髪を、首の後ろで乱暴に一つに結んでいる。袖をまくった腕は日に焼けて、細いのに、ちゃんと筋肉がついていた。斧を握る手のひらには、豆がいくつもできている。


「グレタ。この村の、木こりの娘だよ」


 名乗ってくれた。少しだけ、ほっとした。


「で、町の商会が、何の用だい」


 *


「ま、松脂を、買いに来ました」


 そう言った途端、グレタの顔つきが変わった。


「帰んな」


「え」


「町の商人だろ。うちの村の松脂(まつやに)を安く買い叩いて、町で高く売ってる連中の、仲間だろ」


 松脂が村を出てから町に届くまで、三人の商人の手を通っていた。そのたびに値段が上乗せされていた。


 あの帳簿の数字の、反対側に、この人たちがいたのだ。


「ち、違います。間の商人を通さずに、直接買いに来たんです。だから、今より高く買えます」


「そんなうまい話が、あるもんか」


「あります。間の商人が取っていた分を、村と町で、半分ずつ分ければいいんです。村は今より高く売れる。町は今より安く買える。どっちも、得をします」


 気づけば、すらすら言えていた。


 不思議なことに、商売の話になると、舌が回る。帳簿の数字が、頭の中で勝手に並んでくれるからだ。人の顔を見るより、数字を見ている方が、ずっと楽だった。


 グレタは、しばらく黙って俺を見ていた。


「……口だけは、達者だね」


 さっきまで三か所噛んでいた男に、言う台詞ではないと思う。


 *


 グレタに連れられて、村に入った。


 家は、二十軒ほど。どの家も、屋根の板が古い。道ですれ違う子どもたちは、みんな、少し痩せていた。


 村の周りは、さっきの空き地と同じように、切り株だらけだった。


 村はずれに、土を盛り上げた、大きな窯のようなものがある。そこから、黒い煙が上がっていた。鼻をつく、焦げたような匂いがする。


「あれは」


「松を焼いてるんだよ。切った松を、土をかぶせた窯でじっくり焼くと、底から黒い脂が流れ出てくる。それを集めて売るんだ」


 頭の中で、ページがめくれた。図書館で読んだ、林業の本。


 松の木を、空気の少ない窯で蒸し焼きにすると、木の中の脂が溶け出してくる。北の国では、昔からこうして松脂やタールを取ってきた。ただし、この取り方では、松の木を一本まるごと使い切ってしまう。


 つまり、松脂を取るたびに、松林が一本ずつ消えていく。


 村の周りが切り株だらけなのは、そのせいだ。


 町を出る前の集まりで、俺は「買い付けるだけでは、松林もいつかは尽きる」と考えた。本の中だけの心配ではなかった。この村は、もう、その途中にいた。


「このまま続けたら、松林は、なくなりませんか」


 グレタの肩が、ぴくりと動いた。

「……知ってるよ。親父も、じいさんも、知ってる」


 低い声だった。


「でも、松を焼かなきゃ、食っていけないんだ。安く買い叩かれてるから、たくさん焼かなきゃ足りない。たくさん焼けば、松が減る。わかってたって、止められないんだよ」


 安く買い叩かれるから、たくさん焼く。たくさん焼くから、松林が減る。松林が減れば、いつか村ごと食えなくなる。

 悪い循環の、真ん中にいる。


「……松を、切らずに、松脂を取る方法があります」


 グレタが、振り返った。

「なんだって?」


「生きている松の幹に、浅く傷をつけるんです。そこから、にじみ出てくる松脂を集める。木は倒さないので、来年も、再来年も、同じ木から取れます」


 グレタは、じっと俺の顔を見つめた。疑っている目だった。だが、その奥に、ほんの少しだけ、別のものが混じっていた。


「……親父に、会わせてやるよ」


 *


 グレタの父親は、熊のような大男だった。


 話を聞き終えると、太い腕を組んで、長いこと黙っていた。


「そんなやり方、この山で見たことも聞いたこともねぇ。誰に教わった」

「……本で、読みました」

「本?」


 大男が、眉をひそめた。


「字が書いてある、あれか。町の教会の神父様が持ってる、分厚いやつだろう」


 この村には、たぶん、本が一冊もない。字を読める人も、いないのだろう。


 字が読めないから、本を信じられない。本を信じられないから、本に書いてある新しいやり方も、信じてもらえない。


 いつか、この世界の誰もが、自分の目で字を読めるようになればいい。ふと、そう思った。


「紙に書いてあることで、山のことがわかるもんか。松のことは、松に触ってきた人間にしかわからねぇ。あんた、この山の松に、一度でも触ったことがあるのか」


 答えられなかった。


 その通りだった。本に書いてあることは、理想の形だ。この山の松が、本の中の松と同じように脂を出すとは限らない。それは、死ぬ前に、身をもって知っている。図鑑の絵どおりだと思った草で、俺は死んだのだ。


「明日一日、やってみせろ」


 大男が、低く言った。


「松を一本も切らずに、松脂を取ってみせろ。できたら、話を聞いてやる。できなかったら、山を下りな」


 グレタが、腕を組んで、俺を見た。


「ついでに、その馬も置いていきな。空を走る馬なんて、町の商人の口車より、よっぽど値打ちがある」


 ノアが、俺の背中に、ぎゅっと鼻先を押しつけた。


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