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第9話:最初の依頼

学務室への事前申告は、翌朝に済ませた。


依頼の内容を記載した用紙を窓口に提出すると、職員が確認して受理の判を押した。「問題が起きたら報告してください」と言われたので「分かりました」と答えた。問題が起きないようにするつもりだったが、そう言っても意味がないと思ったので黙っておいた。


依頼主の家は、学園の西側の通りから少し入った路地にあった。


石造りの二階建てで、外壁は古いが手入れが行き届いている。扉の前に小さな鉢植えが二つ、左右対称に置かれていた。アルノーはそれを見て、几帳面な住人だと判断した。


扉をノックすると、四十代ほどの女性が出てきた。エプロンをかけており、手に布巾を持っている。アルノーの顔を見て、少し戸惑った表情をした。


「ギルドから来ました。加熱器具の修復依頼を受けたアルノーです」


「……学生さんですか」女性が制服を見て言った。


「はい」


「ギルドの方が来ると思っていたのですが」


「私が担当します。問題があれば別の方を手配します」


女性がしばらくアルノーを見てから、「どうぞ」と言って中に入れてくれた。


台所に案内された。調理台の上に、加熱器具が二台並んでいる。どちらも王立の標準型で、魔法陣が内蔵された鋳物製の台だ。


「一週間ほど前から、右側の器具だけ火力が安定しないんです。弱くなったり、急に強くなったり。料理の途中で変わるので困っていて」


アルノーは器具に近づいた。


外側から観測する。鋳物の表面に刻まれた魔法陣は、一見すると無傷に見えた。しかし中央の熱源を囲む補助線の交点、右側の三か所目が〇・四ほど外側にずれている。


「王立の許容範囲内ですね」アルノーは独り言を言った。


「え?」


「いいえ、独り言です。使い始めてからどれくらい経ちますか」


「五年ほどになります。大きな故障はありませんでした」


「五年の蓄積です」


補助線の〇・四のずれが、五年間繰り返される加熱と冷却による微細な膨張・収縮によって、魔力の偏流を定着させてしまっている。今はまだ火力の変動で済んでいるが、あと一年放置すれば、陣そのものが割れていただろう。


アルノーは指先を補助線の交点に当てた。


今回は白墨を使わずに、魔力による直接修正を試みた。


「少し、眩しくなるかもしれません」


「はい」


アルノーは集中した。


意識を陣の深部へ潜り込ませる。目に見える線ではなく、その下に流れる魔力の「道」を観測する。道が右側でわずかに蛇行している。その蛇行が、魔力の流量を不均一にしている。


指先から細い針のような魔力を送り込み、陣に直接干渉する。外側からの操作になるので、精度が落ちる分だけ時間がかかる。ただし器具を開けて直接触るより、陣への負担が少ない。崩れる方向に逆の力をかけるのではなく、ずれた交点をわずかに押し戻す。


三分ほどかかった。


「試してみてください」


女性が器具に魔力を流した。炎が現れた。一定の高さで、揺れない。女性が少し火力を上げると、炎がそれに応じて大きくなった。変動がない。


「あら」女性が目を丸くした。「直った」


「はい」


「本当に直ってる。一週間悩んでいたのに」女性が器具をまじまじと見た。「何をしたんですか」


「内部の魔法陣の歪みを修正しました」


「そんなことができるんですか。ギルドの人に見てもらったら、器具ごと交換しないといけないと言われたのですが」


アルノーは少し考えた。


器具ごと交換、というのは一般的な対応だ。内部の陣に干渉できる人間が少ないので、修理より交換の方が早い。それが積み重なって、ギルドに修復依頼が増えている。


「歪みが軽度なうちは、修正できます。ただし放置すると悪化します。今回は一週間でこの程度でしたが、もう少し早く気づければ簡単に直せていました」


「そうなんですね」女性が頷いた。「左側の器具は問題ないのですか」


アルノーは左側の器具も確認した。こちらは右上の交点が〇・二のずれ。今すぐ問題はないが、放置すれば右側と同じ状態になる。


「左側も軽微なずれがあります。今のうちに修正しておきます」


「お願いします」


左側も同じ手順で修正した。こちらは状態が良かったので、一分ほどで終わった。


「両方とも、当面は問題なく使えます。ただし、半年ごとに点検することをお勧めします」


「助かりました、アルノーさん。ギルドには私からお礼を言っておきますね」


女性が笑顔で送り出してくれた。


外に出ると、夕方の風が心地よかった。最初の仕事を終えたという実感よりも、自分の理論が学園の外で正しく機能したという観測結果に、アルノーは満足していた。


「歪みはある」


アルノーは独り言を言って、歩き始めた。


その足取りは、学園に来たときよりも少しだけ、確かなものになっていた。

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