第10話:歪む方向
灰練の裏庭は、誰も使っていなかった。
石床の一部が割れ、隙間から雑草が伸びている。北側の壁は苔が生えており、日当たりが悪い。白棟や赤棟には整備された演習場があるが、灰練にそういった設備はない。ただの放置された空間だ。
アルノーはその裏庭に、レイドとソレルを連れてきた。
「ここで何をするんだ」レイドが壁に背をもたれながら言った。
「実験です」
「実験って、ギルドの依頼は別にあるんじゃないのか」
「依頼とは別の話です。均整理論の基礎を確認したい」
レイドが腕を組んだ。ソレルは少し離れた場所に立って、裏庭の音を聞いているようだった。大きな耳が、わずかに動いている。
アルノーは石床に白墨で六角形の陣を描き始めた。
標準の点火陣だ。ただし補助線の交点角を通常より五度、内側に傾けて描く。対称形ではなく、わずかに歪んだ形になる。
レイドが覗き込んだ。
「それ、歪んでるぞ。わざとか」
「わざとです」
「お前は対称が好きなんじゃないのか。なんで歪んだ陣を描くんだ」
アルノーは手を止めた。
レイドの質問は単純だが、答えるのに少し時間がかかる問いだった。自分の中にある考えを、相手に伝わる言葉に変換する必要がある。
「完全な対称を作りたいんです」アルノーは言った。「ただ、この世界に完全な対称は存在しない」
「どういう意味だ」
「どんなに精密に描いても、必ずどこかに歪みが出る。王立の基準ではそれを許容範囲として無視しますが、無視された歪みは消えるわけじゃない。どこかに溜まって、予期しない方向に陣を壊す。それが暴発や出力不足の原因になります」
アルノーは白墨を置き、自分の描いた歪んだ陣を指差した。
「最初から完璧な対称を目指すと、どこで歪みが爆発するか分からない。バランスが崩れる。完璧な対称は、崩れる方向が決まっていない。だから制御できない」
「……それで?」
「だから——歪む方向を、最初に決めてやるんです」
アルノーは描きかけの陣に視線を戻した。
「最初から少しだけ歪ませておく。そうすると、陣が歪むとしたらその方向しかない。崩れる方向が決まれば、制御できます。対称に見えなくても、機能は安定する。これが私にとっての、対称に一番近い形です」
沈黙があった。
レイドがしばらく考えていた。
「……意味は分かった。でも、なんか納得いかないな」
「どのあたりが」
「対称が好きなのに、対称じゃない陣を使う。それって、諦めてるってことじゃないのか」
アルノーは少し考えた。
「工房で器具を修復するとき、完璧に元通りにはできないことがあります。素材が劣化していたり、設計図が残っていなかったり。そういうときに、完璧を諦めるのではなく——今ある状態で最も機能するように整える。それが修復だと思っています。諦めているのではなく、現実に対応しているだけです」
レイドがしばらく黙った。それから「難しいな」と言った。
ソレルが初めて口を開いた。
「工場みたいなものか」
アルノーとレイドが同時にソレルを見た。
「工場?」レイドが聞いた。
「俺の故郷に、革製品を作る工房がある」ソレルは静かに言った。「精度を上げれば上げるほど、失敗が目立つようになる。完璧を目指すほど、どこかで必ず歪みが出る。だから職人は、歪みが出る場所を縫い目に持ってくる。縫い目なら、歪みが出ても見えない」
アルノーは頷いた。
「それに近いです」
「職人の考え方だな」ソレルが少しだけ口元を緩めた。
「レイド、あなたの魔力の制御も、これと同じかもしれません」アルノーは言った。
「俺の魔力が?」
「出力が高すぎて暴発するのは、魔力を完璧に均等に放出しようとしているからです。どこか一方向に出口を作って、あえて歪ませる。そうすれば制御できる可能性があります」
レイドが自分の手を見た。
「歪ませる、か」
裏庭に、少しだけ風が吹いた。苔の生えた壁を撫で、雑草を揺らす。
アルノーは石床の歪んだ陣に魔力を流した。
光が走り、炎が現れた。歪んだ陣から生まれた炎は、しかし、どの標準陣よりも静かに、そして長く燃え続けた。




