第79話:いつも通り
翌日から、日常が戻った。
授業があり、裏庭で練習があり、ギルドの依頼があった。委員会の結果が出ても、灰練の廊下の漆喰は剥がれたままだった。床の沈みも直っていない。何も変わっていない。
ただ一つだけ変わっていることがある。
廊下を歩いていると、すれ違う教師の目が少し違う動きをするようになった。以前は視線が通り過ぎるだけだった。今は一瞬だけ止まる。それだけだ。声をかけてくるわけではない。ただ、止まる。
アルノーはその変化を観測しながら、授業に向かった。
午後、ギルドに寄った。
カウンターに向かった。エレナが書類を整理していた。アルノーの顔を見て、依頼票を一枚取り出した。
「ちょうどよかった。これ、あなたに向いていると思って取っておいたんですが」
依頼票を受け取った。
内容を読んだ。
採取依頼だった。北の森の薬草採取。ただし通常の採取依頼ではなく、「同じ種に見えるが効能が異なるものが混在しており、正確に見分けられる人間が必要」という注記がついていた。依頼主は薬師だった。
「薬草の見分けですか」
「三人断られたらしくて。見た目が同じで、専門の薬師でも判別が難しいそうです」
エレナが言った。
「でも、あなたなら何か見えるんじゃないかと思って」
「見てみます」
翌朝、北の森に向かった。依頼主の薬師が現地で待っていた。四十代くらいの女性で、採取用の道具を背負っていた。アルノーの顔を見て、少し訝しげな表情をした。
「ギルドから来たのはあなたですか。随分と若い……というか、学生ですか」
「灰練のアルノーです」
「……灰練。まあいいわ。見分けられるなら誰でもいい。この区画に生えている薬草を見て」
薬師が示した場所に、小さな青い花が咲く草が群生していた。
「これは『清風草』。通常は解熱に使うけれど、中には全く効能のない個体が混ざる。葉の形も色も、花の数も全く同じ。魔力への反応も微弱すぎて、普通の探知魔法じゃ判別できない。あなたは、どうやって見分けるつもり?」
アルノーは群生している草の前にしゃがんだ。
一つずつ観測する。
形は確かに同じだ。色も。しかしアルノーの目には、その「整い方」の違いが見えていた。
「……これと、これは違います」
アルノーは二つの草を指した。
「左は効能があり、右はありません」
薬師が眉をひそめて、右側の草を摘み取った。根元を潰し、その匂いと樹液を確認する。
「……分からないわよ。私の感覚では全く同じ」
「葉脈を見てください」
アルノーが言った。
葉脈の走り方だ。効能を持つ方は葉脈が中心から均等に広がっている。効能のない方は、葉脈が右側にわずかに偏っている。角度にして五度から十度ほど。目を凝らさなければ分からないが、見えてしまえば確実だ。
「葉脈の偏りで判別できます」
アルノーは薬師に言った。
「効能があるものは中心から均等に広がっています。偏っているものは効能がありません」
薬師が近づいて、アルノーが示した葉を確認した。
「……確かに。言われてみれば」
薬師がしゃがんだまま、複数の葉を見比べた。
「なぜそれに気づいたのですか」
「歪みが気になる性質なので」
「歪み」
薬師が繰り返した。
「魔法陣の修復をする人間が、薬草の葉脈の歪みを見るのですか」
「歪みは、どこにでもあります」
薬師がしばらくアルノーを見ていた。
値踏みするような目ではなかった。何かを確かめているような目だった。
「……採取を手伝ってもらえますか。あなたが判別して、私が採る。その方が早い」
「構いません」
二人で作業を進めた。アルノーが判別し、薬師が採取する。一時間ほどで、依頼の数量が揃った。
帰り際、薬師が言った。
「やり方が分からない。なぜ葉脈だけで分かるのか、説明できますか」
「植物も、成長の過程で歪みが生まれます。栄養の流れに偏りが出ると、葉脈の広がり方に影響します。効能のある成分は、栄養の流れが均等な株に多く含まれます」
「それは薬学的に証明されていますか」
「私には分かりません。ただ、均整が取れているものの方が、魔法的な出力は安定します。生命活動も同じだと思います」
薬師が小さく笑った。
「面白いことを言う学生ね。またお願いするかもしれないわ」
「お待ちしています」
学園に戻る道すがら、アルノーは自分の感覚を確認した。
均整理論は魔法陣の話だけではない。世界の在り方そのものの観測だ。
薬草の葉脈も、灰練の床の沈みも、月の満ち欠けも。
すべては同じ法則の中にあった。




