第74話:待つ技術
審査結果が出るまでの一週間は、日常に戻る時間だった。
旧市街への立ち入りを控えるようにとオルテに言われていたので、工房への訪問も一時止めた。ギルドの依頼も、今週は小さな修復案件だけにした。余計な動きが、結果に影響する可能性を排除するために。
「均整理論が審査を通るかどうかと、ギルドの依頼に因果関係はないだろう」
レイドが夕方の裏庭で言った。
「因果関係がなくても、目立つ行動は控えます」
「慎重すぎないか」
「クレインが動いている可能性があります。旧市街の立ち入り以外のことでも、理由を作らない方がいい」
レイドが少し考えてから、「お前が慎重と言うなら、俺も控える」と言った。
裏庭の練習が終わった後、三人で石床に座った。日が傾いて、壁の影が長くなっていた。
「クレインが動くとはどういうことだ」
ソレルが言った。
「分かりません。観測が不足しています。ただし——」
アルノーは少し考えた。
「前回の異議申し立てが棄却された後、クレインは表立った動きをしていない。今回は内容が前回より踏み込んでいる。何かを準備しているとすれば、審査結果が出る前か、出た直後だと思います」
「見えているのにその二択に絞れない」
レイドが言った。
「もう少し観測が必要です」
ソレルが言った。
「クレインのことは、俺の耳に任せていい。廊下で誰かと話していたら分かる」
「助かります。ただし無理はしないでください」
「無理の基準が分からないが、痛くなる前に止める」
ソレルが答えた。
翌日の昼、廊下でクレインを遠目に見かけた。
教師棟と学務棟を繋ぐ渡り廊下だ。クレインは一人ではなく、初老の男性と話していた。学務棟の教師ではない。顔に見覚えがない。服の仕立てが良く、外部から来た人間のように見えた。
二人は短く言葉を交わしてから別れた。クレインが教師棟へ戻り、その男性は学務棟の奥へ進んだ。
観測できたのはそこまでだった。
その夜、ソレルが言った。
「昼に聞こえた。渡り廊下でクレインが誰かと話していた」
「内容は分かりましたか」
「全部ではない。ただし、一部が聴き取れた」
ソレルが少し間を置いた。
「『委員会の前に、根拠を崩す』という言葉があった」
「委員会の前に」
アルノーは繰り返した。
「それと——『旧市街の記録が本物かどうか』という言葉も聞こえた」
根拠を崩す。旧市街の記録が本物かどうか。
アルノーは頭の中で二つの言葉を並べた。
クレインが狙っているのは均整理論そのものではなく、今回の報告書の根拠——旧市街の地下室で発見した三百年前の記録の信憑性、ということになる。
「記録の信憑性を問題にする気ですね」
「どういうことだ」
レイドが言った。
「均整理論の内容に正面から反論するのは難しい。実証記録がある。リュミエールが数値を出している。だから、根拠となった古い記録が本物かどうかを疑うことで、報告書全体の信用を落そうとしている」
「卑怯だな」
レイドが言った。
「効果的ではあります」
アルノーは言った。
「記録の信憑性を崩せれば、報告書の核心の一つが揺らぐ」
「揺らいだとして——それで審査が覆るのか」
「委員会の前に動くと言っていた。審査委員会の委員に、事前に疑問を植え付けるつもりかもしれません。委員が記録の信憑性に疑問を持った状態で審査が始まれば、結果が変わる可能性があります」
沈黙があった。
「どうする」
レイドが言った。
「ヴェラとアルデンに話します。記録の出所と保管状況を、追加で確認できる情報があるかもしれません。ただし、オルテからは旧市街への立ち入りを控えるように言われています。直接行くことはできません」
「連絡は取れるか」
「明日、ヴェラに文を送ります」
レイドが頷いた。ソレルが壁にもたれた。
夜の裏庭に風が入ってきた。
月が出ていた。欠け始めて四日目。右側から少しずつ影が増している。
審査まであと三日。
「ソレル」
アルノーは言った。
「続けて聴き取るのは負担になります。無理をしなくていいです。今夜の情報で、動くべき方向は分かりました」
「分かった」
ソレルが目を閉じた。
「ただし、明日も廊下を通るなら聴こえる。聴こえたことは話す」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。三百年前の記録が本物かどうかの答えは、俺も知っている。あの音は、本物の古さだった」
アルノーはソレルの言葉を聞いた。
あの地下室で記録陣式の音を聴いていたとき、ソレルは「古い音がする」と言っていた。数十年や百年で積み重なる音ではない、と。
「その観測は、重要です」
「委員会で話せるか」
「方法を考えます」
アルノーは言った。
「ソレルの耳が、記録の信憑性を証言できるかもしれません。ただし、委員会で獣人の感覚を根拠として認めてもらうには、前提の説明が必要になります」
「難しいか」
「難しいですが、不可能ではありません」
裏庭に静かな時間が続いた。
月が西に傾いていく。欠けた形のまま、しかしそこにある。
整えられていない裏庭に、三人がいる。
動くべきことは動く。動かせないことは待つ。
それが今できる均整だ、とアルノーは思った。




