第66話:九十三年の記憶
お茶を飲み終えた後も、オーリンはしばらく黙っていた。
アルノーは急かさなかった。九十三年分の記憶の中から何かを探している。それには時間がかかる。
窓の外で、北区画の路地に風が吹いた。古い建物の間を抜ける風が、小さな音を立てた。
オーリンが目を閉じた。
何かを思い出そうとしている顔だ。
アルノーは部屋を観測した。
壁の符号。棚の古い道具。長年使い込まれた家具。この家に、オーリンは六十年以上住んでいる。その前は、どこにいたのか。
「若い頃、北区画に来る前はどこにいましたか。」
オーリンが目を開けた。
「旧市街の別の区画だ。南区画に生まれた。十五のときに、修繕の仕事を始めた。それで旧市街中を歩き回った。」
「北区画にも来ていましたか。」
「来ていた。ただし当時の北区画は、今より人が多かった。まだ住んでいる人間がいた。」
「その頃に、三つ目の符号を見た可能性はありますか。」
オーリンがしばらく考えた。
「……修繕の仕事で、あちこちの建物の中に入った。古い建物には、古い符号が残っていることがあった。」
「どの建物ですか。」
「一つ、特別に古い建物があった。」オーリンが言った。「北区画の、今は完全に廃墟になっている場所だ。当時も人は住んでいなかったが、まだ建物が立っていた。その建物の地下室に、古い符号が刻まれていた。」
「地下室。」
「修繕のために地下に降りたときだ。壁一面に、見たこともない符号が並んでいた。子供心に、気味が悪いと思ったのを覚えている。その中に、お前が見せたあの符号……意志を示すような形のやつがあった。」
アルノーは身を乗り出した。
「場所を教えてもらえますか。」
オーリンが少し考えてから、紙を取り出した。手が震えながら、地図を描いた。北区画の路地の形を描いて、一か所に印をつけた。
「ここだ。ただし、危険かもしれない。」
「確認してみます。」
「一人で行くな。」オーリンが言った。「北区画の廃墟は、床が抜ける場所がある。一人では危ない。」
「分かりました。」アルノーは地図を受け取った。
「もう一つ聞いていいか。」オーリンが言った。
「はい。」
「お前は学生だと言った。なぜ学生が、三百年前の記録を解読しようとしている。」
アルノーは少し考えた。
「均整理論という理論を研究しています。歪みを排除するのではなく、歪みの方向を制御することで、魔法陣を安定させる理論です。その研究を進める中で、流れの原則という古い考え方と同じ方向を向いていることが分かりました。流れの原則が三百年前に排除された理由を知りたい。それと——三百年前の人間が伝えようとしたことを、知りたい。」
オーリンが黙って聞いていた。
「均整理論か。」オーリンが言った。「聞いたことがある。」
「どこで。」
「旧市街では、色々な話が聞こえてくる。」オーリンが言った。「学園の最下位の生徒が、首席の陣式を修正した。審査委員会が動いた。そういう話だ。」
「旧市街まで届いていたのですか。」
「旧市街の情報網は、学園より速いこともある。」オーリンが少し口元を動かした。「お前がその学生か。」
「はい。」
「なるほど。」オーリンが頷いた。「……お前なら、あの地下室の符号も正しく読むかもしれないな。」
オーリンの家を出た。
手元には、廃墟の場所を示す地図がある。
次の目的地が決まった。




