第61話:北区画
明後日の朝、アルノーは早く起きた。
学務室への申告は前日に済ませておいた。外部活動の目的を「旧市街の古い建造物の観測」と記載した。正確ではないが、嘘でもない。
レイドがまだ寝ている時間に、部屋を出た。
待ち合わせ場所は、旧市街の北端にある古い石橋の前だった。ヴェラとソレルが先に来ていた。
「早いな。」ヴェラが言った。
「申告の時間を確認していたので。」
「真面目だ。」ヴェラが歩き出した。「ついてこい。」
ソレルが無言でついた。アルノーも続いた。
旧市街を北に進むにつれて、建物の様子が変わっていった。手入れされた建物が減り、石造りの壁が変色した建物が増える。窓が板で塞がれているものもある。人の気配が薄くなっていった。
「ここから先は、ほとんど人が来ない。」ヴェラが言った。「建物が古すぎて、危険だという判断で立ち入りが制限されている。ただし、正式な禁止ではない。」
「王立の管轄ではないのですか。」
「旧市街の北区画は、管轄が曖昧だ。王立の整備が行き届いていない。だから、私のような人間が動ける。」
路地が細くなった。石畳が途切れ、土の地面になった。建物の壁が左右から迫るように並んでいる。
「ここだ。」
ヴェラが立ち止まった。
目の前に、古い木の扉があった。鍵はついていない。ヴェラが扉を押すと、軋んだ音を立てて開いた。
中は暗かった。
アルノーが指先に照明を作った。
通路が伸びていた。幅が狭く、天井が低い。壁は石造りで、所々に苔が生えている。旧市街の最初の地下通路より、さらに古い構造だ。
「第七通路は、ここから奥に進んだところだ。」ヴェラが言った。「数えながら進む。分岐が六つある。七つ目の分岐を東に曲がった先だ。」
三人で通路を進んだ。
ヴェラが先頭を歩き、アルノーが照明を持って続き、ソレルが最後尾についた。
分岐を一つ、二つと数えながら進んだ。
途中、ソレルが立ち止まった。
「音がする。」
「どんな音ですか。」
「陣式の音だ。ただし、最初の通路の陣式とは違う。もっと遠い。複数の方向から聞こえている。」
「複数の記録陣式が、地下に散在しているのかもしれません。」
「そうかもしれない。」ソレルが耳を動かした。「ただし——一つだけ、他より強い音がある。前の方から聞こえる。」
「それが目的の陣式かもしれません。」
進み続けた。
六つ目の分岐を過ぎて、七つ目が見えた。東に曲がった。
通路が少し広くなった。天井が高くなる。
そして——東壁が見えた。
アルノーは立ち止まった。
壁の表面が、他の場所と違った。石の色が、周囲より少し濃い。そして——何かが描かれていた。
近づいた。
壁画だった。
直径二メートルほどの円形の図が、石壁に直接描かれていた。線が細く、精密だ。百年以上前に描かれたとは思えないほど、輪郭がはっきりしている。
消えない壁画、とヴェラが言っていた。
消えない理由が分かった。
図の表面全体を、薄い魔力の膜が覆っていた。記録陣式と同じ技術で、図を保護している。
「観測します。」
アルノーが壁画に近づいた。
円形の図の中央に、螺旋が描かれていた。最初の通路の陣式と同じ螺旋だ。ただしこちらは、螺旋の中にさらに細かい図が描き込まれている。
図の外周に、文字のようなものが並んでいた。
「ソレル。音はどうですか。」
「強い。」ソレルが壁に手を当てた。「最初の陣式より、はるかに強い。」
「不快ですか。」
「……不快ではない。最初の陣式と同じ種類の音だ。ただし、もっと複雑だ。複数のリズムが、同時に鳴っている。」
「複数が同時に。」
「そうだ。」ソレルが目を閉じた。「一つずつ聴き取れるかどうか、分からない。」
「今日は無理をしないでください。存在を確認できれば十分です。」
「……分かった。」
ヴェラが壁画を見ていた。
「これが、言い伝えの壁画か。」ヴェラが言った。「実際に見たのは、初めてだ。」
「知っていたが、来たことはなかったのですか。」
「聞いてはいたが——ここまで奥に来る理由がなかった。」ヴェラが壁画を指した。「外周の文字のようなものは、何だ。」
アルノーは外周を観測した。
文字ではない。符号だ。流れの原則の陣式に使われる符号と、似ている。ただし、これまで見たことのない符号も混じっている。
「符号です。流れの原則の記録に使われているものと似ていますが、全部は分かりません。」
「解読できるか。」
「時間がかかります。師匠の記録に、この符号の対応表がある可能性があります。」
「工房に持ち帰って確認するか。」
「壁画を持ち帰ることはできません。写しを取ります。」
アルノーは記録紙を広げて、壁画を写し始めた。
円形の輪郭、螺旋の形、外周の符号。できる限り正確に写した。
三十分かかった。
写しを持って、三人で通路を戻った。
地上に出ると、朝の光が眩しかった。
「解読には時間がかかりますか。」ヴェラが聞いた。
「符号の対応が分かれば、比較的早いかもしれません。分からなければ、時間がかかります。」
「急かさない。ただし、分かったら教えろ。」
「アルデンへの報告の後に。」
「分かっている。」ヴェラが路地を歩き出した。「それがお前のやり方だ。」
ソレルが静かに言った。
「複数のリズムが同時に鳴っていた。あれは——単純な記録ではないと思う。」
「どういう意味ですか。」
「最初の陣式は、一つのことを記録していた。あの壁画は——複数のことを、同時に記録している。」
「それが何を意味するかは、解読してから分かります。」
「そうだな。」ソレルが少し間を置いた。「楽しみだ。」
アルノーはソレルを観測した。
ソレルが「楽しみだ」と言った。
「解読したい」に続いて、また珍しい言葉だ。
旧市街の路地を歩きながら、アルノーはそのことを記録しておこうと思った。
空を見上げた。
昨日より少し太くなった月が、朝の空に薄く出ていた。
まだ満ちていく途中だ。
次の満月まで、あと十日ほどか。
その頃には、壁画の意味が分かっているかもしれない。
アルノーは写しを抱えて、学園への道を歩いた。




