第32話:観測の返し
セインが裏庭に来たのは、翌日の午後だった。
アルノーが一人で師匠の記録の写しを読んでいると、裏庭の入り口にセインが現れた。レイドもソレルも、まだ来ていない時間だった。
「ここにいたのか」
セインが言った。笑顔だ。
「少し話せますか」
「どうぞ」
セインが石床に腰を下ろした。アルノーの向かいに、自然な動作で座る。
「リュミエール・セレスティナが、また灰練に来ていましたね」
「はい」
「どんな話をしているんですか。陣式の話ですか」
「そうです」
「具体的には」
アルノーは少し考えた。
セインはいつも、具体的な内容を引き出そうとする。今日も同じだ。ただしリュミエールとの話の内容を詳しく話す必要はない。リュミエール自身が「他の人間に話さないでくれ」と言っていた。
「交点の修正について話しています」
「交点の修正」
セインが繰り返した。
「均整理論の話ですね。それで、首席の陣式が改善されているというのは本当ですか」
「数値として出ています」
「どのくらい改善されましたか」
「それは、リュミエールさんに聞いてください」
セインが少し笑みを変えた。引き出せなかった、という反応だ。ただしそれを表に出さず、話題を変えた。
「ところで、アルノーさん」
「はい」
「私のことを、どう思っていますか」
アルノーは少し驚いた。
セインがこういう問いかけをするのは、初めてだった。これまでは、情報を引き出すことに徹していた。今日は違う種類の質問だ。
「どういう意味ですか」
「率直に言います」
セインが笑顔を少し引いた。
「私があなたに近づいていることに、気づいていますよね」
「気づいています」
「なぜ気づいているのに、普通に話しているんですか」
「観測しているからです」
「観測」
「何のために近づいているかが分かれば、対処できます。まだ分からないので、観測を続けています」
セインがしばらくアルノーを見た。
笑顔が、少しだけ変わった。作っている感じが、わずかに薄れた。
「正直なんですね」
「事実を言っているだけです」
「私が何のために近づいているか、どこまで分かっていますか」
「情報を集めていることは分かります。均整理論の技術的な内容と、応用可能性に興味があることも。誰かに頼まれているかどうかは、まだ確認できていません」
セインが息を吐いた。
短い沈黙があった。
「……思ったより、見えているんですね」
「歪みが見えるのと同じです。人の動きにも、歪みがあります」
「歪み」
セインが繰り返した。
「私の動きに、歪みがあると」
「声が揺れない人間は、珍しい。どんな話をしていても、一定の声で話す。そのこと自体が、歪みです」
セインがしばらく黙っていた。
今度は長い沈黙だった。
アルノーは観測した。
セインの表情が、これまでと違う動きをしていた。作った笑顔ではなく、何かを考えている顔だ。
「一つだけ教えてください」
セインが言った。
「私の声が揺れないことに気づいたのは、あなた一人ですか」
「ソレルも気づいています」
「ソレル」
セインが少し目を動かした。
「異種族の、感覚が鋭い人ですね」
「はい」
「……なるほど」
セインが石床を見た。
「私のことを、どうするつもりですか」
「どうもしません」
「どうもしない?」
「観測を続けるだけです。何のために近づいているかが分かれば、対処の方法が分かります。今はまだ観測中なので、何もしません」
セインが顔を上げた。
「あなたは、私を疑っていますか」
「疑っているのではなく、分かっていないだけです」
アルノーは言った。
「分かっていないことを、決めつけることはしません」
セインがしばらくアルノーを見ていた。
それから、初めて作っていない顔で、小さく笑った。
「変わった人ですね」
「よく言われます」
「普通は、怪しいと思ったら距離を置くか、問い詰めるかするんですが」
「どちらも、今は必要ないと思っています」
「なぜですか」
「距離を置くと、観測できません。問い詰めると、相手が動かなくなります。そのままにしておく方が、多くのことが見えます」
セインがまた笑った。今度は少し長く。
「正直に教えてくれてありがとうございます」
セインが立ち上がった。
「一つだけ言います」
「はい」
「私がここにいる理由は、最初に思っていたものと、少し変わってきています」
「どう変わりましたか」
「まだ言えません」
セインが裏庭の出口に向かった。
「ただ、あなたのことを観測しているのは、私だけではありません」
「知っています」
セインが立ち止まった。
「知っているんですか」
「大体の方向は見えています」
セインがしばらくアルノーを見てから、また歩き出した。
裏庭の出口で、一度だけ振り返った。
「また話しましょう」
「どうぞ」
セインが廊下に消えた。
レイドが入れ替わりで裏庭に入ってきた。セインとすれ違ったのか、セインの方向を見ながら言った。
「あいつと話していたのか」
「はい」
「どんな話だ」
「観測の話です」
「お前が観測する話か、お前が観測される話か」
「両方です」
レイドが少し考えてから、「難しいな」と言って練習を始めた。
アルノーは師匠の記録の写しを拾い上げた。
セインが言った言葉を、頭の中で整理した。
私がここにいる理由は、最初に思っていたものと少し変わってきている。
あなたのことを観測しているのは、私だけではない。
二つの情報が加わった。
観測の範囲が、また少し広がった。
裏庭に、夕方の風が入ってきた。
北の石壁に当たって、弱くなって消えた。
風は壁を壊さない。
ただ、当たった方向に流れを変える。
アルノーは写しの続きを読み始めた。




