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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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9/14

第八幕

公式文書では、隅田川は「荒川」と表記されていたそうですが、ここでは分かりやすくするために「隅田川」とさせていただきます。

一、万全の準備

 風の弥三郎を斬った翌日。

 吹き抜ける突風が木々を揺らした。

(嵐の予兆か。(みずち)の目覚めは近いな)

 急ぐ必要がある。

 しかし。

 『万全を期して戦え』――弥三郎が最期に遺した言葉が、重い楔のように秀兵衛の胸に打ち込まれていた。

 弥三郎はたった一人で、無知ゆえに命を削り、ついには力尽きた。その轍を踏むことだけは、断じてあってはならない。秀兵衛は静かに歩きながら、目前に迫る強敵への対策を頭の中で一つずつ研ぎ澄ませていた。

 まず、やらねばならないことが一つ。妖を斬る前に、守るべきものを守ることだ。

 秀兵衛とスミレは、いつもの同心が勤める町奉行所へと赴いた。

 門番に名を告げると、ほどなくして奥の小部屋へ通された。

 室内に入るなり、秀兵衛は儀礼を省き、単刀直入に切り出した。

「今日は一つ、折り入ってお願いに参りました」

 同心は、いつにない秀兵衛の切迫した気配に眉をひそめる。

「お願いだと? 藪から棒に、穏やかではないな」

「実は、岩淵の地にて、川底に眠る巨大な妖――『みずち』を発見いたしました。水害を司るその怪物は、もうじき目覚めようとしております。……目覚めれば、隅田川流域は未曾有の濁流に呑まれるでしょう。故に、代官様や郡代様に、流域の民を別の場所へ避難させるよう働きかけてはいただけませんか。明後日の一夜限りで良いのです。どうか、この通り」

 秀兵衛は膝をつき、板間に額を擦りつけるようにして深々と頭を下げた。

「な……ッ!?」

 同心は絶句し、困惑と苛立ちを滲ませた表情で立ち上がった。

「岩淵に妖がいるから避難させろだと……? 馬鹿なことが通るか! 避難となれば千を越える民が動く。商いは止まり、混乱は免れん。第一、そんな絵空事、証拠もなしに代官様らにどう説明しろというのだ!」

 激昂するのも無理はない。平穏な江戸の行政において、形のない「妖気」を理由に大規模な避難を命じるなど、正気の沙汰ではない。

 だが――秀兵衛は一歩も引かなかった。

「確かに、蛟がそこにいるという目に見える証拠は、今すぐには示せません。……ですが、奴が引き起こした災厄の『証拠』なら、ここにあります」

 秀兵衛は、懐から大切に持ち歩いていた一包みを取り出した。

 中から現れたのは、ひどく汚れ、乾いた血と水に濡れた波状の痕が残る、古びたお守りだ。

「このお守りの持ち主の名は、伊吹弥三郎。彼の故郷は、十数年前に地図から消えた『小金村』という場所です。……公文書を当たってください。必ず、不自然なほど局地的な洪水被害の記録があるはずです」

 秀兵衛は顔を上げ、同心を真っ直ぐに見据えた。唯一の瞳に宿るのは、燃えるような決意だ。

「弥三郎は、たった独りで奴を追い続け、そして散っていきました。……私は、これ以上あの男のような犠牲者を出したくありません。防げる惨劇は、未然に防ぐべきです。そのためになら、俺は泥でも啜る」

 室内に、張り詰めた沈黙が落ちた。

 同心はお守りを見つめ、次いで秀兵衛の瞳の奥にある「本気」を推し量るように沈黙し、やがて長く、重い溜息を吐いた。

「……まったく。お前という男は、いつも無茶な無理難題を放り投げてくる」

 同心は少し苦笑し、頭を掻いた。

「分かった。腹を括ろう。お前の勘は、外れたことがないからな。だが秀兵衛、代官様への説得はお前も同席しろ。俺と一緒に、死ぬ気で頭を下げてもらうぞ?」

「心得ております」

 役所を出ると、門の外の空気は刺すように冷たかった。

 しかし、どんよりと曇っていたはずの空に、わずかながらの確かな「道」が見えた気がした。

「……まずは一歩、開けましたね」

 スミレが隣で静かに、安堵の混じった声を漏らす。

「ああ。だが、これだけではまだ『万全』には程遠い」

 秀兵衛は川の方角を見上げた。堤防の向こう、底知れぬ深淵から、湿った悍ましい気配が這い上がってくるのが分かる。

「民を避難させたとしても、奴を斬らねば江戸に明日は来ぬ。蛟を確実に仕留めるための、特殊な備えが必要だ」

「次は、どこへ?」

 スミレの問いに、秀兵衛は既に次の策を練り、力強く歩き出しながら答えた。

「町へ出る。……油に松ヤニ、そして湯帷子(ゆかたびら)だ。人の知恵と、妖斬りの理を掛け合わせる」

 二人は町へと出て、最高品質の油、松ヤニ、そして身軽な湯帷子を購入した。それから、秀兵衛が日頃の仕事場として馴染み深い船着場へと向かい、使い込まれた頑丈なかいを二つ、私物として持ち出してきた。

 全てを抱え、静まり返った本拠地へ戻る。

 畳の上に整然と道具を並べると、スミレは不思議そうに首を傾げた。

「これは……それぞれ、何に使うのですか? 櫂まで持ち出すなんて」

「ああ、説明しよう。弥三郎の言葉を借りるなら、これが『万全』への第一歩だ」

 秀兵衛は一つ一つの道具を、慈しむように手に取りながら語り始めた。

「前提として、蛟の力を考える。奴は水を自在に操り、おそらくは地形さえ変える。となれば、最悪の場合、完全に水に浸かった状態での死闘もあり得る」

 まず、透き通った油の瓶を持ち上げる。

「まず役立つのがこの油だ。油は水を弾く。刀身に薄く、均一に塗っておけば、水の抵抗を極限まで減らし、水中でも陸上と同じ速さで刃を振れる。一瞬の遅れが死を招く相手だからな」

 次に、麻混じりの白い湯帷子を広げた。

「これも同じ理屈だ。普段の厚手の木綿は水を吸えば泥のように重くなり、体力を奪う。その点、この湯帷子は水を吸っても捌けがよく、軽い。命のやり取りにおいて、身軽さは何物にも代えがたい鎧となる」

 続いて、樫の木で作られた重厚な櫂を二つ並べる。

「次にこれだ。奴が津波や激流を起こした際、足場を失えば終わりだ。この櫂を深く地面や川底に突き立て、流されないための『錨』とする。船頭の商売道具だ、並の槍よりよほどしなりに強く、折れぬ」

 最後に、琥珀色の松ヤニの塊を見せた。

「これを手に塗る。蛟は嵐を呼び、天をも操る。確証はないが、雷を伴う可能性は極めて高い。もしそうなら、それを脅威ではなく、刃を強化する力として逆に利用する」

 スミレは息を呑み、目を見開いた。

「水は電気を通す。刀も通す。だが、その雷気が身体の芯まで流れては、こちらの心臓が止まる。松ヤニは優れた絶縁体だ。手の内をこれで固め、不測の感電を防ぐ。……雷すらも『流転』の力に変えるための備えだ」

 一通り聞き終えたスミレは、その緻密な計算に感嘆の息を漏らした。

「そこまで……。ただ力で斬るのではなく、理で勝つのですね」

 秀兵衛は静かに、しかし断固とした意志を込めて頷いた。

「江戸の民の命も、弥三郎の無念も、すべてこの背中に負っている。……絶対に、失敗は許されぬ」

「はい!」

 スミレの真っ直ぐな瞳が、秀兵衛の覚悟を映し出していた。

 

 ――そして翌日。

 町奉行所の同心から、ついに「謁見の刻が取れた」との急報が届いた。

 秀兵衛はすぐさま装束を整え、行政の中枢へと向かった。

 まずは代官の陣屋だ。スミレは不測の事態に備え、外で待機させた。

 幸いにも、この代官は先代・源次郎の頃から妖斬りの存在と、その「実害」を重々承知していた。秀兵衛が語る岩淵の危機を深刻に受け止め、即座に流域住民への避難誘導を指示することを約束してくれた。

 難関は、次に赴いた郡代の陣屋であった。

 こちらは官僚的な気質が強く、容易には首を縦に振らなかった。妖斬りの存在こそ知れど、一介の船頭の言葉を信じて大規模な避難を強行し、もし何も起きなかった時の責任を恐れたのだ。

 だが、秀兵衛は揺らがなかった。静かに、しかし重厚な圧を持って告げる。

「……源次郎が逝き、今は不肖ながら私が妖斬りの頭を務めております。彼が命を賭して守り抜こうとしたこの江戸を、水底に沈めるわけにはいかぬのです」

 源次郎の名を聞いた瞬間、郡代の表情が強張った。かつて、その豪剣に救われた過去があったのだろう。秀兵衛は、先代が最期に守り抜いた誇りと、目の前に迫る蛟の脅威がもはや一刻を争うことを簡潔に説いた。

 長い、凍りつくような沈黙の末、郡代はようやく筆を執った。

「……相分かった。何事も起きぬことを願うが、源次郎殿の継承者がそこまで言うのであれば、賭けてみる価値はあるだろう」

 それは、立場ある者が負う「重責」という名の決断だった。

 呼びかけを早急に開始するとの約束を取り付け、秀兵衛は陣屋を後にした。

 外へ出ると、日は既に西に大きく傾き、空は不気味なほど鮮やかな朱色に染まっていた。

 決戦は、明日の夜。

 急転直下の事態ではあるが、人事に尽くせることは全て尽くした。

 秀兵衛は遠く、岩淵の空を見上げ、肺の奥まで冷たい空気を吸い込む。

 ――弥三郎、見ていろ。

 胸の奥で静かに、かつてないほど鋭い殺気を研ぎ澄ませながら、秀兵衛は決戦の地へと続く道を歩み出した。



二、水の深淵

決戦当日。

 朝から隅田川の流域は、かつてないほどの喧騒と焦燥に支配されていた。

 家財を必死に背負う者、震える子を抱き寄せる母、無理やり荷車を引かされる商人。通りは町を脱しようとする民の波で溢れ返っている。

 十数人もの役人たちが、銅鑼や鐘を打ち鳴らし、枯れた声を張り上げていた。

「今夜、ここに未曾有の濁流が押し寄せるぞー! 命が惜しければ家財をまとめ、直ちに高台へ逃げろー! 繰り返す、今夜この町は水に呑まれるぞー!」

 突然の触れに、人々は戸惑い、恐怖した。

「母ちゃん、本当にここが沈んじゃうの……?」

「冗談じゃねぇ、大事な商品なんだ! これだけは店に置いていけねぇ……!」

 不安と混乱、怒号と嗚咽。

 江戸の活気を支えていた町も、夕刻を過ぎる頃には人影が疎らになり、日が完全に落ちる頃には――まるで最初から誰も存在しなかったかのように、しんと静まり返っていた。

 耳をつんざくような不気味な静寂。

 月は厚い雲の向こうに隠れ、足元を照らす淡い光さえ届かない。さらりと吹いた冷たい夜風が、秀兵衛の乱れた髪を優しく撫でた。

 そこへ、息を切らした同心が駆けてくる。

「……避難はすべて完了した。岩淵から千住まで、今夜の隅田川沿いは『空』だ。あとは……お前たち次第だぞ」

「……分かりました。全てが終わったら、改めて礼を言いに参ります」

 秀兵衛が短く頭を下げると、同心は一瞬だけ複雑な表情を浮かべ、低い声で言った。

「……絶対に死ねんじゃねぇぞ。がんばれよ」

 その背が闇に溶けるのを見届け、秀兵衛とスミレは決戦の準備を始めた。

 麻の湯帷子に着替え、肌を刺す夜気に身を晒す。刀身に丁寧に油を塗り、その滑りを確かめ、柄を握り締める。

 掌には粘り気のある松ヤニを擦り込み、二つの重厚な櫂をそれぞれの手に取った。

 狐の仮面は、まだ頭上に乗せたまま。

 視界を保ち、呼吸を乱さぬよう、蛟の喉元を斬る刹那にのみ着ける算段だ。

 静まり返った江戸の夜へと、二人は一歩、踏み出した。

 岩淵の地。

 風が不気味に草木を揺らし、川面が激しく波打つ音だけが辺りに響いている。

 ついに、到着した。

「先陣は俺が斬る。……スミレは追撃を頼む」

 船頭として隅田川と共に育った秀兵衛は、水の中では魚のように自由だ。それはこの絶望的な戦場において、唯一にして最大の利。

「蛟は……この淵で仕留める!」

 言い放つや否や、秀兵衛は飛沫を上げて川へ飛び込んだ。

 冷たい、暗黒の水が全身を包み込む。

 水中で目を見開く。油を塗った瞼を通り、闇の底に「それ」が視えた。

 川底に眠る、巨大な水霊。

 蛇のように太い身体をとぐろに巻き、その山の上に傲然と頭を乗せている。長い髭、天を衝く鋭い角、そして静かに閉じられた重厚な瞼。

 秀兵衛は迷わず、獲物に向かう銛のごとく一直線に潜った。

 油を纏った刃が、水の抵抗を微塵も感じさせず滑らかに空間を切り裂く。

 そして――。

 眠れる神の如き頭蓋を、深々と貫いた。

「ギュアアアアアア――ッ!!」

 鼓膜を突き破るような咆哮が水中を激しく震わせる。

 蛟は狂ったように身をよじり、秀兵衛を濁流のような衝撃で振り落とした。

 次の瞬間、巨大な影は一蹴りで川底を蹴り上げ、爆ぜるような水飛沫と共に地上へと逃れた。

 秀兵衛も即座に浮上し、水を切りながら川辺へと駆け上がる。

 そこでは、待機していたスミレが既に疾風の如き追撃に入っていた。

「やあッ!!」

 鋭い縦の一閃。

 地上に這い出た蛟の胴に、深い、深い裂傷が走る。

 更なる苦悶の咆哮を上げた蛟は、重力に抗うように空へと舞い上がった。

 その神々しくも醜悪な姿を見上げた秀兵衛は、そこで初めて「異形」の正体に気づく。

「あれは……鎖か?」

 蛟の長い身体には、鎖が巻き付いていた。

 だが、それは外から拘束されたものではない。鱗を突き破り、肉と癒着し、まるで最初から身体の一部として生え、自らを縛り付けているかのような「呪い」の鎖。

 思考がその意味を捉えるより早く、蛟は己の平穏を破った人間への怒りを爆発させた。

 刹那、空が裂ける。

 意思を持つ豪雨が槍のように地を叩きつける。雷鳴が腹に響き、閃光が網膜を焼く。

 さらに、どこからともなく溢れ出した水が、堤防の内外を瞬く間に覆い尽くしていった。

 あっという間に足首を没する水深。

 冷たく、重い水が秀兵衛の足元を絡め取る。

 狂乱の嵐の中心で、自らを縛る鎖を激しく鳴らしながら、蛟が吼えた。

 真の決戦は、ここからだった。

「人間風情が……我に触れるなあああッ!」

 突如として人語を吐いたかと思うと、蛟は怨念に満ちた咆哮とともに巨大な津波を巻き起こした。黒雲をも呑み込むような濁流がうねり、天を覆う壁となって二人へと迫る。

「スミレ、櫂だ! 櫂を突き立てるんだ!」

 秀兵衛は即座に刀を鞘へ収め、両手で樫の櫂を握り締めた。スミレも示し合わせたように同じく構える。

 次の瞬間、二人は増水した地面へと力強く櫂を突き立てた。

 轟音。

 津波が真正面から襲いかかり、万物を塵芥のように押し流そうとする。

 だが、深く大地を穿った櫂は、二人の身体を繋ぎ止める絶対的な「錨」となった。激流は容赦なく全身を打ち据え、視界を奪ったが、二人は泥を噛みながらもその場に踏みとどまる。

「ぐっ……!」

 水が引く暇もない。

 蛟はすぐさまその巨大な口を開き、今度は胸の奥底で圧縮された高圧の水流を吐き出した。鋼をも断つ矢のような一撃が空気を切り裂き、二人へと迫る。

「散れ!」

 秀兵衛の鋭い号令と同時に、二人は左右へ跳び退いた。

 直後、水流は背後の巨木に直撃し、幹を根元から紙細工のように粉砕する。轟音とともに大木が倒れ、地を激しく揺らした。

「……とんでもない水圧だ。直撃すれば命はない……このままでは近づくことすら叶わん……」

 秀兵衛は歯噛みした。

 だが蛟は思考の余地すら与えない。空中を自在に泳ぎながら次々と水流の弾丸を放ち、さらに足元へは新たな、そしてより巨大な津波が押し寄せてくる。

 絶え間ない死の波状攻撃。

 叩きつける豪雨か汗か分からぬ雫が、二人の額を伝い落ちた。

 そのとき、秀兵衛はふと、濁った視界の中で周囲の気流を捉えた。

 嵐。

 空も大地も、狂ったような風と水が混濁し、一つの巨大な「うねり」を成している。

 風狸(ふうり)の時とは比較にならぬ、神の領域にある暴風域。

 大気そのものが意思を持って荒れ狂い、凄まじい遠心力を伴って渦を巻いている。

「……だとすれば……この嵐にも、理はあるはずだ……!」

 乗れる。この強大な回転エネルギーを利用すれば。

 だが嵐の規模が大きすぎる。単身で飛び込めば、中心にいる蛟へ届く前に翻弄され、地面に落ちてしまうだろう。

「いや……」

 ここには「二人」いる。

 秀兵衛の唯一の眼に、賭けに打って出る男の決意が宿った。

「スミレ、案がある」

 彼は素早く彼女の耳元で秘策を囁いた。

 スミレは一瞬だけ驚愕に目を見開いたが、すぐに戦士の顔で深く頷く。

「分かりました。……秀兵衛さんを、信じます」

 秀兵衛は彼女の櫂を受け取り、自分の分と合わせて片手に二本を束ねて握った。

 そしてもう片方の屈強な腕で、スミレの身体を折れんばかりに強く抱き寄せた。

 激しい暴風が二人の湯帷子を激しく翻す。

 極限の状況下で視線を交わし、命を預け合う覚悟を確かめ合う。

 次の瞬間、秀兵衛は爆ぜるような踏み込みで地を蹴った。

 二人は、蛟が支配する荒れ狂う大嵐の渦中へと、躊躇なくその身を投じた。

 大嵐は唸りを上げながら、さらに速度を増して回転していく。

 空と地の境が消え、世界そのものが巨大な渦に放り込まれたかのように攪拌されていた。

「攪乱する気か……? 小癪な……!」

 蛟は怒気を露わにし、次々と水流を叩き込む。

 圧縮された水が矢のごとく飛来し、空間を裂いた。

 だが、二人の軌道は不規則で、かつあまりにも速い。

 水流はわずか一寸先をかすめ、虚しく後方へと突き抜けていった。

「……!」

 蛟の虚ろな瞳がわずかに揺れる。

 神に等しき力を持つ怪物ですら、嵐の遠心力を味方につけた二人の「墜落にも似た加速」を捉えきれない。

 ついに、二人は蛟の頭上付近、嵐の「屋根」にまで昇り詰めた。

 その瞬間、秀兵衛は躊躇なく、全力で腕を振るった。

「行け! スミレ!」

 スミレの身体が、弾丸のように空中へと放り出された。

 荒れ狂う風の中を舞いながら、彼女は愛用の小刀を抜く。

 そして天高く、その銀色を掲げた。

 秀兵衛の言葉が脳裏によみがえる。

 ――嵐の真上には分厚い雲が覆い、雷を溜めている。金属である小刀を避雷針として掲げれば、そこへ雷を誘えるはずだ。それを、お前の眼で視た「核」に叩き込め。

 雲が黒く唸り、重く鳴動する。

 内臓を揺らすような低い雷鳴が、天地を震わせた。

(きた……!)

 スミレは細めた瞳で、鋭く蛟を見据える。

 蛟が操る膨大な妖力、その起点――核は、頭ではない。

 喉元。

 そこに、周囲のすべての水を支配する異様な気配が集中している。

 彼女の身体が風を裂いて降下する。

 雷を呼ぶ刃が、一直線に蛟の喉へと迫った。

「なに――? まさか――」

 蛟は初めて明白な動揺を見せた。

 慌てて迎撃の水流を噴き出そうとする。

 だが遅い。

 想定外の空中からの急襲に水流は細く乱れ、的を外す。

 スミレはそれを紙一重でかわした。

 次の瞬間。

 白銀の雷光が、天から落ちた。

 轟音とともに、小刀へと万雷が集中する。

 白光に包まれた刃が、神罰の如き閃光となってそのまま蛟を斬り裂いた。

 しかし――。

「……っ!」

 首元ではない。

 放たれた水流を避けたことで、わずかに軌道が逸れていた。

 雷刃は喉をかすめ、その下の胴を深く、骨ごと断ち割る。

「ギュアアアアアア!!」

 甲高い絶叫が天地を震わせる。

 蛟の巨体が大きくのけ反り、雷に焼かれながらそのまま地へと落ちていった。

 主を失った嵐が瓦解し、スミレもまた重力に引かれる。

「……!」

 雷撃の余波に耐え、スミレの身体が意識を失うように落下していく。

 そのとき、嵐の崩壊する隙間を縫って、弾き出された影があった。

 秀兵衛だ。

 彼は間一髪でスミレの身体を抱き止め、そのまま自らが下になるよう体勢を変えた。

 二人は激しい水飛沫を上げ、地面へと激突する。

 だが、周囲は津波の名残で深い水に覆われていた。

 泥水によって衝撃は分散し、致命傷には至らない。

「大丈夫ですか!?」

「……ああ、心配ない」

 秀兵衛は短く答え、水に濡れた体を重そうに起こした。

 スミレもその腕の中で、荒い息を吐きながら立ち上がる。

 これで、終わったかに見えた。

 だが。

 ぬらり、と。

 水面の向こうで、山のような巨大な影が動いた。

 二人が振り向くと、蛟が泥水を滴らせながら、ゆっくりと首を持ち上げていた。

 胴には、先ほどの一撃による、肉が爆ぜ炭化した痛々しい裂傷が刻まれている。

 それでも、その瞳の憎悪は、むしろ深淵のように深まっていた。

「醜悪な人間共……。神の一部たる我を、これほどまでに貶めるか」

 低く唸ると同時に、蛟は身体を激しく揺らした。

 次の瞬間。

 ジャリ……ッ、と。

 己の皮膚に巻き付いていた、あの不気味な鎖を――自ら解いた。

 蛟は怒りに身を震わせると、その巨体を捻り、天を指すように鎌首をもたげた。

 その動きに呼応し、解き放たれ、肉から剥がれ落ちた鎖が不気味な唸りを上げて蛟の周囲を高速で回転し始める。

 鉄の鎖が空を裂く重低音が、暴風雨を貫いて響き渡った。

その姿は、さながら巨大な円鋸まるのこ

 周囲の濁流と狂風をその回転に巻き込み、触れるもの全てを細切れにする死の刃となって、蛟の全身を保護するように回る。

 蛟は天を呪うように大きく咆哮した。

 直後、奴の背後の水面が山のように盛り上がり、漆黒の津波が立ち上がる。

 そして――蛟はその波を先兵として繰り出し、その後ろから噛みつくような速度で突進してきた。

「……!」

 秀兵衛は即座に、自分の手にあった櫂をスミレへと投げ渡す。

 二人は阿吽の呼吸で地面の泥深くへと櫂を突き立て、真正面から襲い来る水の壁を耐え凌いだ。

 だが。

 水の壁が通り過ぎた目の前には、すでに巨大な影が肉薄していた。

 大きく口を開き、回転する鉄鎖の円陣を先頭に立て、肉を求めて迫りくる蛟。

「まずい……避けろ!」

 二人は泥水を蹴り、全力で左右へと飛び込んだ。

 次の瞬間、回転する鎖が凄まじい風切り音と共に、二人がいた空間を無慈悲に通過していく。

 布が裂ける鋭い音。

 湯帷子の袖が無残に斬り落とされ、秀兵衛の腕の肉をわずかに削ぐ。

 激しい濁流の中に、鮮やかな一筋の血が滴り、瞬時にかき消された。

 通り過ぎた蛟は、尾で水を強く蹴立てて反転し、二人を同時に飲み込める位置へ。

 その旋回に合わせて、再び背後で巨大な津波が盛り上がった。

「くっ……!」

 秀兵衛は今度こそ逃げずに迎え撃とうと、松ヤニを塗り固めた掌で刀を正眼に構えた。

 回転する鎖の壁が視界を覆う。

 鋼の刃と、呪いの鉄鎖が打ち合い、豪雨の中で火花が鮮烈に散った。

 しかし。

 蛟の攻撃は直線ではない。鎖は生き物のように回転を続けている。

 上から、下から、さらには弾かれた反動を利用して死角を突くように、鎖の端が鞭となって襲い来る。

 全てを防ぎきることは、もはや物理的に不可能だった。

 三度目の、必殺を込めた突進が迫る。

(逃げてばかりでは……埒が明かぬ。この嵐の中で、じり貧になるだけだ)

 このままでは、攻める機を永遠に失い、やがて呼吸が尽き、力尽きる。

 そう悟った秀兵衛は、仮面の奥で唯一の瞳を炯々と光らせ、叫んだ。

「一か八か……! スミレ、奴の口を狙うぞ! 真っ向から力で押し勝つ!」

「はい!」

 迷いは微塵もなかった。

 スミレは短く頷き、二人は同時に、向かい風を切り裂いて前へ踏み出す。

 迫りくる津波を、鎖の円陣を突き破り、蛟の顔面へと最短距離で向かった。

「非力な人間風情が、神の如き我に力で勝てると思うな!」

 蛟もまた、その巨体に全ての妖力を乗せ、真っ向から突撃してくる。

 激流を、そして鎖の連撃を辛うじて凌いだ二人は、もはや不要となった櫂を捨て、両手で刀を握りしめた。

 全身の血を沸騰させ、魂の全てを刃に乗せて迎え撃つ。

「はああああああああ!」

 激突。

 衝撃で、周囲の重たい空気が一瞬にして弾け飛んだ。

 風が爆ぜ、足元の広大な水面が衝突盆地のように大きく抉れ、円状の波紋を描いて揺れる。

「くっ、グオオオオオオオオ!」

 蛟もまた、傷ついた喉を震わせ、裂けんばかりに力を込める。

 しかし、スミレが雷撃と共に刻んだ胴の裂傷が、確実に奴の力の均衡を崩していた。

 わずかずつ、だが確実に、蛟の巨体が「人の力」に押されていく。

(このままでは、敗れる――!)

 本能で敗北を察した蛟は、その瞬間に力の方向を無理やり変えた。

 正面ではない。

 上へ。

 二人の渾身の刃を受け流し、側面の鱗を無残に抉られつつも、蛟はバネのように巨体を跳ね上げた。

 凄まじい水飛沫とともに、蛟は再び暗雲たれ込める上空へと逃れた。

「奴め……また上空に逃げたか!」

 確かな手ごたえはあった。鋼の感触は、確かに奴の肉と骨を捉えた。

 だが、依然として致命には至っていない。

 二人は肩で息をしながら、天を睨む。

「許さん……許さんぞ、虫ケラ共め……!」

 屈辱に震える蛟は、中空で身体をくねらせ、周囲へ無数の細い水流を撃ち出した。

 それらは逃散するのではなく、周囲に吹き荒れる大嵐の気流へと吸い込まれ、渦の中に糸のように絡みついていく。

 やがて。

 広範囲を支配していた大嵐そのものが、大量の水を凝縮して青黒く染まり、蛟を中心に急激に縮小・収束を始めた。

 それは、全ての水を一点に集め、全てを圧潰させる「最終の牢獄」の予兆だった。



三、鎖

 収縮していく渦の中心へと、蛟は冷たく身を滑り込ませた。

 濁流と狂風が、編み上げられる紐のように絡み合い、その中を中心点として巨体が恐るべき速度で回転を始める。

「人間は……やはり醜悪な生き物……。他人を殺すことでしか、何かを守れぬ哀れな害悪……」

 怒りに満ちた声。しかし、その内側では、氷のように冷めた視線がかつての記憶をなぞっていた。

 ――今から何十年も前。

 蛟は、かつて一人の、どこにでもいる村娘だった。

 何もない、平穏な村。

 楽しいことも悲しいこともあったが、彼女には何より好きな時間があった。

 それは、家族や友人と近くの川で遊ぶこと。大河ではあったが、水は澄み、せせらぎは優しく、彼女の幼い心を常に癒してくれていた。

だが、ある日。

 突如として、理不尽な大嵐が村を襲った。

激しい雨に川は氾濫し、濁流が畑を押し流した。幸いにも、その時は死者こそ出なかった。

 だが、一度牙を剥いた自然を、村人たちは底知れぬ恐怖で迎えた。再び同じ災いが起これば、次は村ごと消えるかもしれない、と。

 やがて、大規模な堤防を築くことが決まった。

 しかし、大嵐で川の流れは変わり、底には深い淵が生まれていた。工事は難航を極め、土を運ぶ人足も数人が命を落とした。

 絶望に支配された村長は、震える声で断じた。

 これは荒ぶる水神の怒り。鎮めるには供物が必要だ、と。

 そして――「人柱」が決められた。

 残酷な、死のくじ引きで選ばれたのは、彼女だった。

「嫌だ……! お父さん、お母さん、助けて……!」

 拒み、泣き、爪が剥がれるまで地面を掻いて抵抗した。だが、かつて優しかった隣人たちの目は、恐怖に濁り、誰一人として彼女と目を合わせようとはしなかった。

 生きたまま、狭い棺へと押し込まれた。

 鉄の鎖で幾重にも、固く縛られたその棺は、冷たい雨の降る夜、深く掘られた地中へと埋められた。

 暗闇。

 湿った土。

 肺が焼け、爪先から体温が奪われ、やがて意識は漆黒の底へと遠のいた。

 それが、一人の娘としての最期だった。

 人柱として自分を埋めた者たちへの、断ち切れぬ反抗。

 そして――何より許せなかったのは、時が流れるにつれ、その凄惨な事実を「仕方のなかったこと」として忘れていく人間たちの身勝手さだった。

 何十年も経った今、あの夜の悲鳴を覚えている者は、もういない。

 捧げられた犠牲も、かつて共有した恐怖も、背負うべき罪も。

 全ては穏やかな流れの中に忘れ去られていく。

 その事実が、彼女の純粋だった悲しみを、黒く、淀んだ怨嗟へと変貌させた。

 やがて、その積もり積もった怨念が形を得た。

 それが――蛟。

 異形の力を得た彼女は、暗い川底で思った。

「他人を犠牲にし、あまつさえそれを忘れるくらいなら……。全てを押し流して、あの絶望の夜に皆を引き戻してやろう」

 それは、救いのない歪んだ正義。

 自分を殺した「人間」という種そのものを憎む、呪いの化身。

 そして今。

 自らを眠りから呼び覚まし、あろうことか、再び葬り去ろうとする者が目の前にいる。

 まずは、こいつからだ。

 あの夜と同じ、絶望の淵へ沈めてくれる。

「死ね! 人間共がぁぁぁぁぁ!!」

 咆哮とともに、収縮した渦から全方位へ鋭利な水流が撃ち出された。

 肉と一体化した鎖が断末魔のような唸りを上げ、さらに回転速度を増していく。

 巨大な水の牢獄は、死の遠心力を伴ってさらに狭まり、逃げ場を失った秀兵衛とスミレの立つ一点へと、容赦なく迫っていった。


 いくつもの鋭い水流が、絶え間なく二人の足元へと撃ち込まれた。

 地面が爆ぜ、巻き上がった泥水が視界を遮る。

 秀兵衛とスミレは、もはや呼吸すらままならぬ極限状態で、右へ左へと身を捻り、辛うじて死の矢を躱していく。だが、回避した先には必ず、死神の鎌の如き鎖が唸りを上げて迫った。

 回転する円鋸と化した鎖が、二人の四肢を断たんと迫り来る。二人は泥の中を這うように前方へ飛び込み、あるいは刀の腹で火花を散らしてこれを弾いた。

 しかし、そうして防戦に回っている間にも――青黒く染まった渦の壁は、着実に、確実にその円を狭めていく。

 轟音。

 風と水が激突し合い、大気そのものが万力をかけられたかのように圧縮されていく。鼓膜に凄まじい圧力がかかり、骨が軋む音が聞こえるようだった。

 あの「水の檻」に飲み込まれれば、肉も骨も一瞬で粉塵に帰すだろう。

「スミレ、奴の位置は把握できるか……ッ!?」

 秀兵衛の叫びが、暴風の唸りに掻き消されそうになる。

 スミレは狐の仮面の下で目を細め、酷使し続けた「眼」で必死に水の壁を見据えた。だが、彼女の返答は絶望に近いものだった。

「……すみません! 位置を捉えても、次の瞬間には、もう背後に……! この速度では、正確に核を貫くのは不可能です!」

 スミレの視力をもってしても、蛟の機動は速すぎた。視認したときには、刃を届かせるべき「現在」はすでに「過去」へと消え去っているのだ。

「そうか……」

 短く応じたその刹那、刃の如き鎖が真正面から秀兵衛の喉元を狙って迫った。秀兵衛は反射的に刀を抜き放ち、これを真正面から弾く。

 金属音と共に、火花のような飛沫が散った。

だが――直後。

 蛟が放った次なる水流が、防御に回った秀兵衛の隙を突いた。

(避けきれぬ――!)

 秀兵衛は直感に従い、強引に横へ身を投げた。しかし、完全には躱しきれない。

 神の指先にも似た細く鋭い水流が、彼の右足を容赦なく貫通した。

「くっ……あぁッ!」

 鈍い肉の破砕音と共に熱い血が噴き出し、瞬時に足元の濁流へと混ざり消えていく。激痛に膝が一瞬崩れそうになる。

 だが、悲鳴を上げる暇さえ蛟は与えない。

 奴の攻撃は、傷口に塩を塗り込むような苛烈さでさらに密度を増していく。

 次の鎖が、すでに死角から鎌首をもたげていた。

「もう……時間がない……」

 秀兵衛は血の気を失いかける顔で歯を食いしばり、周囲を血眼で見渡した。

 何かないか。この地獄の檻を突き破り、奴の喉笛に届く唯一の「理」は。

 そのとき、彼の視界に入ったのは、濁流に揉まれながらも水面に浮かび続ける「櫂」だった。

 先ほど、突進を凌ぐために使い、手放したもの。

 そして、今や自分たちを圧殺せんと迫り来る、この収縮する渦。

 ぐるぐると、狂ったように回る水の壁。

 円の内径が狭まるほど、遠心力と回転数は物理の法則に従って加速していく。

 攻撃の頻度も、密度も、回避不能なレベルまで跳ね上がる。

 だが――。

 逆説的に言えば、それは「解答」でもあった。

(奴は……この狭まった円環の軌道から、逃れることはできぬ!)

 秀兵衛はハッと目を見開いた。

 これは、敵にとっての一方的な有利ではない。

 舞台が狭まれば狭まるほど、敵と刃が交差する「機会」もまた、必然的に、かつ高頻度で生まれるということだ。

 回転が速すぎるのなら、追いかける必要はない。

 向こうから飛び込んでくる「瞬間」を、ただ迎え撃てばよい。

 秀兵衛は隣で膝を折りかけていたスミレへ、魂を振り絞って声を張り上げた。

「スミレ! 櫂を拾え! まだ……俺たちに、勝機はある!」

 スミレは一瞬、驚愕に目を見開いたが、秀兵衛の瞳に宿る確信を読み取ると、すぐさま泥水の中へ跳んだ。水面を滑る櫂を、その細い腕で力強く掴み取る。

 その瞬間。

 全方位からの無数の水流と、回転する呪いの鎖が、二人を消し去らんと同時に殺到した。

 迫り来る蛟の猛攻を、二人は歯を食いしばって防ぎ続ける。

 唸りを上げる鎖が空を裂き、高圧の水流が土を穿ち、荒れ狂う嵐が視界を白く塗り潰す。その地獄のような混濁の中で、秀兵衛はわずかな隙を縫い、短く、魂を叩きつけるように要点だけを伝えた。

 スミレは即座にその意図を理解した。

 仮面の下で瞳を鋭く光らせ、頷き一つで応じる。

「さあ、これで決着をつけるぞ!」

 その言葉と同時に、二人は死神の指先にも似た水流を紙一重で躱した。

そして――手にした櫂を地面へと深く突き立てる。

 否。

 これは津波を凌ぐための杖ではない。

 勝利をもぎ取るための、攻めの一手だ。

 深く刺さった櫂を支点に、二人は溜めた全神経を爆発させて跳躍した。

 重力を置き去りにし、身体が宙へと舞い上がる。

 直後、足元を死の回転を続ける鎖が猛烈な勢いで掠めていった。

 だが、もう関係ない。

 二人は刃を天高く掲げた。それに応呼し、上空の暗雲がドロドロと鳴動を始める。

 天が唸り、戦場そのものが激しい予感に震える。

「この一撃に、全力を注ぐ!」

 蛟が怒り狂い、喉の奥から最後の大水流を噴き上げる。

 だが二人は空中で身を捻ってそれを避け、逆に縮小し続ける「水の檻」――渦の壁へと真っ向から迫った。

 真逆の方向から、互いに背を向け合うように。

 回転する鎖が軌道を変え、二人を細切れにせんと襲いかかる。

 鋭い刃が湯帷子を、そして身体の肉を容赦なく斬り裂いた。

 鮮血が飛び散り、濁流に溶ける。

 それでも――二人の刃は止まらない。

「穢れ多き、クズ共があああああ!」

 蛟が最大出力の妖力を一点に凝縮し、秀兵衛を貫かんと放とうとした、その寸前。

「「はああああああ!」」

 秀兵衛とスミレは、空中で同時に身体を旋回させた。

 雷を誘う刀が、横一閃に空間を断ち切る。

 その瞬間、雷が落ちた。

 閃光と轟音が世界を真っ白に染め上げた。

 刃に宿った万雷の衝撃が、空を裂き、風を裂き、水を裂く。

 そして。

 蛟の巨大な胴を、深々と、再起不能なまでに斬り裂いた。

「ギュアアアアアアアア!!!」

 甲高い絶叫が天地を震わせる。

 裂けた傷口から、堰を切ったように膨大な妖気が噴き出した。

 渦の回転が激しく乱れ、ついにその機能を喪失して止まる。

 瓦解する水の壁の中心から、ついに蛟の頭部が姿を現した。

「秀兵衛さん! 蛟の核は、あの首元です!」

 スミレの叫びが、嵐の止んだ戦場に響く。

 秀兵衛は深く、力強く頷いた。

 空中に投げ出された身体が落下を始める、その一瞬前。

 重力よりも早く。

 秀兵衛は空を蹴り、蛟の首元へと踏み込んだ。

「これで、終いだ」

 銀の刃には、まだ青白い雷の残滓が火花を散らして宿っていた。

 その一閃が、迷いなく一直線に振り下ろされる。

 首とともに、その内側に隠された核を、一刀の下に斬り落とした。

「ギュアアアアア……!」

 叫びは先ほどよりもか細く、どこか哀切に満ちて弱々しい。

 やがて、その声は夜の闇に霧散していった。

 蛟の身体が末端から光の塵へと崩れ、消えていく。溢れ出した妖気も夜空へと四散した。

 同時に、全てを圧殺しようとしていた渦も、嵐も、雨も、嘘のように止んだ。

 静寂。

 二人の身体は、そのまま地面へと重く落下した。

 高く上がった水飛沫が、戦いの終わりを告げるカーテンのように降り注ぐ。

 岩淵の夜が、一転して、耳が痛くなるほどの静まり返った。

 しばらくの間、そこには物音一つなかった。

 やがて――ぴちゃり、と水を揺らす音が響く。

 泥と水に塗れた二人が、ゆっくりと身体を起こした。

「……終わったな」

「……ええ。弥三郎さんも、これでようやく報われますね」

 秀兵衛は仮面を上げ、油に濡れた刀を、確かな手応えと共に鞘へと収めた。

 頭上の雨雲は次第に晴れ、雲の隙間から顔を出した月光が、荒れ果てた大地を清らかに照らした。

 優しい風が、二人の火照った頬を撫でる。

 ふと見れば、目の前の川は恐るべき勢いの濁流に成り変わり、江戸の方角へと流れていた。

 事前の備えが、町を、そして民を救ったのだ。

 夜気に晒され、冷えているはずの身体は、不思議と温かかった。

 死線を越えた高揚と、成し遂げた達成感が、内側から熱となって満ちていた。

「これで二体目か……」

「あと一体。……絶対に、私たちで斃しましょうね」

 その言葉に、秀兵衛は小さく、だが力強く頷く。

 復讐と救済という名の目標が、確かな現実として近づいてきている。

 残る臣下は、ただ一体。

 ここまで来れば――。

 元凶たる淵鵺の姿は、もう、目の前だ。

(みずち)。大妖ー原妖。大規模な水害をもたらす妖だが、一度暴れたら、しばらく眠って力を蓄えなければいけない。

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