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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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第八幕半

一、報酬

 本拠地へと辿り着くと、湿った夜気の中に揺れる一点の灯りが見えた。

 玄関口の戸の前で、いつもの同心が提灯を手に、焦れた様子で二人を待っていたのだ。秀兵衛とスミレの姿を認めると、彼は弾かれたように顔を明るくして駆け寄ってきた。

「おお、二人共! 無事だったか!」

「ええ。おかげさまで、なんとか仕留めました」

 秀兵衛が重々しく頷くと、同心は灯りに照らされたその姿に息を呑んだ。血が滲み、泥と水の跡で無残に汚れた湯帷子。それが、人知を超えた激戦の凄まじさを何よりも雄弁に物語っていた。

「……相当な激闘だったようだな。今日はもう、泥のように眠れ。それから明日、郡代様がお前を陣屋に呼んでいる。刻限は……」

 同心は明朝の時刻を告げ、「忘れず来いよ」と短く言い残すと、安堵を背負って夜の闇へと消えていった。

 

 翌朝。

 秀兵衛は身なりを整えて約束の刻に陣屋を訪れ、同心の案内で郡代の御前へと通された。

「頭を上げよ」

 平伏する二人に、郡代の静かだが威厳のある声が届く。

「秀兵衛よ。今日は貴殿に、直々に謝辞を述べるために呼んだ。……昨夜の豪雨。隅田川は荒れ狂い、一部で堤防が崩れ、実際に洪水も起きた。しかし、貴殿の進言による事前の避難のおかげで、人的被害はただの一人も出なかったのだ。これはひとえに貴殿の功である。江戸の民に代わり、改めて礼を言う」

 そう言って、一国の民政を司る郡代が、深々と頭を下げた。

 秀兵衛は驚き、慌てて顔を上げる。

「滅相もございません。私は江戸を守る妖斬りとして、当然の務めを果たしたまで。むしろ、確かな証拠もなき中で迅速に避難を命じてくださった、郡代様のご英断あっての結果にございます」

 郡代はわずかに目を伏せ、自嘲気味な苦い笑みを浮かべた。

「……そう言ってもらえると、儂の立場も救われる。だがな、秀兵衛。実を言えば、心苦しい提案があるのだ」

 一拍の間を置き、郡代は視線を秀兵衛へと戻した。

「先ほど述べた通り、決壊した堤防の修繕や、商売の停滞による損失……復興には莫大な費用がかかる。故に今回の件は、あくまで貴殿が己の目的――妖を討つために動いた結果として処理せねばならぬ。……正直に言おう。公式な報奨金は、一文も出せぬのだ」

 復興に金が必要なのは、火を見るより明らかだ。だが、秀兵衛の胸には、かつて泥傀儡を斃した時の虚しさが微かに去来した。「また、これか」と。

 しかし、異を唱えることなどできるはずもない。

「……承知いたしました」と承諾の言葉を口にしかけた、その時だった。

「だがな。金ではない形であれば、相応に報いることはできる」

 郡代は言葉を継ぎ、秀兵衛を射抜くような眼差しを向けた。

「秀兵衛。貴殿は元は武士の出であったな。だが今は主を失った妖斬り。昼は船頭として身を立てる、無役の身分。違うか?」

「……その通りにございます」

「ならば――この度、貴殿の身分を武士へと戻す。これは幕府の特別なる裁可によるものだ。表向きはこれまで通り船頭を続けて構わぬ。だが、身分は正しき武士。公然と二本差しで町を歩き、誇り高く在ってよい。……報酬としては、これでどうだ?」

 一瞬、言葉を失った。

 武家社会を逐われ、家すら失った流浪の果て。

 二本差しの重みを、再び公に許されることの意味。

 それは、万金にも代えがたい「名誉」という名の救いだった。

 秀兵衛は次の瞬間、深く、畳に額を擦りつけるほどの礼を捧げていた。

「ありがたき……幸せに存じます!」

 震える声に、万感の思いがこもる。

 長き流浪の末に、ようやく取り戻した武士としての矜持。

 顔を上げた秀兵衛の瞳には、これまでになく静かで、それでいて燃え上がるような決意が宿っていた。

 守るべき民がおり、守ってくれる友がいる。そして今、守るべき「名」が戻った。

 残る臣下は、あと一体。

 秀兵衛の背負う刀の重みは、これまで以上に重く、確かなものへと変わっていた。


 その夜。

 本拠地の奥にある、月明かりだけが頼りの簡素な訓練場に、衣擦れの音と静かな足音が響いていた。

 スミレは、秀兵衛の前に立つと、いつになく真剣な面持ちで深く頭を下げた。

「秀兵衛さん。私、もっと強くなろうと思っています。ただ視るだけでなく、自ら活路を切り開き、秀兵衛さんの本当の力になれるように……。それで、考えたんです。私も『流転の型』を修得できたらと。ですからお願いです。基礎から教えてください」

 今でさえ、並の剣客を凌駕する実力を持ちながら、なおも己を削り、高みを目指そうとするひたむきな姿。その純粋な覚悟に、秀兵衛は言葉にできぬ感慨を覚えた。

「……分かった。しかし、ここは限られた場だ。流転の型の本分は実戦の混沌の中でこそ掴めるもの。ゆえに、まずは理から教えよう」

 秀兵衛は一歩踏み出し、夜の闇を払うようにゆっくりと腰の刀を抜いた。

「流転の型とは何か。それは、四方八方から来る理不尽な攻撃を受け流し、一瞬たりとも動きを止めず、その反動で生じた力を身体に蓄え、一気に解放する円環の型だ。そのためには、敵の動きを予測し、周囲の状況を把握し続けねばならぬ。風を斬る音、地を踏む音、空気の流れ……使えるものは、森羅万象全てだ」

 彼は夜風に逆らわず、仮想の敵を捌くように流麗な軌道で刀を振る。

「攻撃が迫ったら、回避し、流し、その勢いを自身の力に変えて溜めろ。決して立ち止まるな。そして斬る時も、斬った敵を確認してはならぬ。視線は常に、まだ見ぬ『次の敵』へ向けろ」

 重心の置き方、指一本の加減、呼吸の深浅、視線の配り。秀兵衛は、源次郎から受け継ぎ、自らの死闘で磨き上げた術理を、一つ一つ丁寧に紐解いていった。

 スミレは一言も漏らさぬようそれを耳に刻み、自身の細い体躯に合わせて動きをなぞり、改良を加えていった。

 しばらくして、秀兵衛は満足げに頷いた。

「……よし。筋はいい、形はできている。あとは実戦の血を吸って磨くしかない。だが、敵を『読む』ことばかりに囚われるな。それでは視野が狭まり、思わぬ影に足を掬われるぞ」

 修練の熱が引き、夜の静寂が戻る。

「分かりました。確かに身についた気がします。丁寧なご指導、ありがとうございました」

 スミレは深々と礼をした。だが、その瞳にはまだ言い淀むような、淡いかげが残っていた。

「……もうすぐ、淵鵺に辿り着きますね。秀兵衛さんは、あれを斬った後……全てが終わった後、どうするつもりですか?」

 それは、明日をも知れぬ戦いの中に身を置く者にとって、あまりに純粋で、残酷な問いだった。

 秀兵衛は少し考え込んだ。これまで、復讐と責務に追われ、その先にある景色を想像する余裕など、欠片もなかったからだ。

「……そうだな。淵鵺を斬ったとしても、この世から妖が消え去るわけではないだろう。ならば……俺は、また次の妖を求めて歩き続けるのではないか」

 それは、答えというよりは、自分に残された唯一の生き方の再確認だった。

「……そうですか。戦いの中に身を置き続ける人生。それも、貴方らしくて悪くないですね」

 スミレは静かに頷いた。

「……でも私は、いつか平穏に生きてみたいとも思うんです。何のしがらみもなく、ただ静かに長い時を過ごす。そう思うと……人の一生は、私にはあまりに短く感じてしまいます」

 彼女は、欠けた月が浮かぶ夜空を見上げた。月光が彼女の白い横顔を照らし出す。その姿は、人の営みからは遠く離れた存在であることを再確認させるようで、どこか酷く寂しげだった。

「……秀兵衛さんは、どう思いますか?」

 問いかけに、秀兵衛はすぐには言葉を返せなかった。

 二人の間を夜風が吹き抜け、遠くでかすかに虫の音が響く。流れる雲が、ゆっくりと銀の月を覆っていく。

 やがて秀兵衛は、重い刀を鞘に収め、静かに空を仰いだ。

「……俺はな、平穏というものが何か、正直よく分からぬのだ」

 ぽつりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を落とす。

「幼い頃から剣を握らされ、戦いの中でしか己の価値を見出せなかった。守ることも、奪うことも、全てはこの細い鋼の上にあった。だから……平穏に憧れはある。だが、いざそこに身を置いた時、俺が俺のまま自分を保てるのか、それだけが分からぬ」

 沈黙が、重く、優しく二人を包む。

「だがな」

 秀兵衛は、傍らに立つスミレの方をまっすぐに見つめた。

「もし、お前がいつかその平穏を望むのなら。その平穏を守るために、この剣を振るい続けるというのも、悪くないと思う」

 スミレは、驚いたように目を見開いた。

「……それに。もしお前が言うように、長く孤独な時を生きるというのなら。その長い旅路の途中で、誰かと共にいる時間があったとしても……それは、決して無意味ではないだろう」

 夜風がそっと、二人の衣を揺らした。

 スミレの唇が、春の陽だまりのような微かな微笑を描く。

「……はい。そうですね」

 その笑みは、先ほどまでの翳りを払い、穏やかな月明かりそのもののようだった。

 月が再び雲の間から姿を現した。

 地に落ちた二人の影は、重なりはせずとも、寄り添うように静かに伸びていた。



二、深淵に佇む影

 秀兵衛とスミレの二人が訓練場で「流転の型」の理を修めていた、その同じとき

 江戸の地下深く――陽の光も、人の営みの音も決して届かぬ、永劫の闇に閉ざされた空間にて。

 そこでは、闇そのものが意思を持っているかのように蠢いていた。

 粘りつくような濃密な黒が、静かに、しかし確かに脈打つ。

 それは巨大な心臓のようでもあり、深淵が静かに呼吸を繰り返しているかのようでもあった。

「……淵鵺様」

 その揺らめく闇の前に、三つの禍々しい影が跪いていた。

 最前列にいるのは、八つの醜悪な顔を持つ異形。その巨体を床へと平伏させ、恭しく声を絞り出す。

「蛟が、あの妖斬りの手によって斬られたとの報せが入りました。もはや、猶予はございませぬ。このままでは、あの者はさらに力を増し、我らの領域を侵しましょう。……淵鵺様、私自らが出陣し、奴の首を刎ねて参りましょう」

 その声には絶対的な忠誠が滲んでいたが、同時に、隠しきれぬ焦燥と――功を焦る別の歪んだ感情が混じり合っていた。

 それに応えるように、空間を支配する闇がわずかに震えた。

 重く、深く、魂を圧し潰すような底知れぬ気配が室を満たす。

 低く響く声は、もはや言葉というより、深淵そのものが直接脳に語りかけてくるかのようであった。

「しかと承知しました。……ですが、まずはこの二人を向かわせましょう」

 淵鵺の意思に従い、闇の中からゆっくりと二つの巨影が浮かび上がる。

 一方は、筋骨隆々とした身体に猛牛の頭を持つ怪物。

 もう一方は、奇怪なほど長い四肢に馬の頭を持つ怪物。

 伝説に語られる地獄の番人、『牛頭ごず』と『馬頭めず』。その佇まいには、一切の慈悲を排した揺るぎない殺意が宿っていた。

「牛頭、馬頭。行って参れ」

 二体は一言も発さず、ただ深く頭を垂れると、踵を返した。

 足音すら残さぬ異様な静けさで、彼らは闇の向こう側へと溶けるように消えていった。

 それを見送った八顔の異形――『塵輪鬼じんりんき』は、わずかに顔を歪ませた。

 醜悪な八つの顔がそれぞれ異なる不満を浮かべ、拳を強く握りしめて床を軋ませる。

「……仮に、あの二人で仕留めきれぬとしても」

 小さく呟く声には、抑えきれぬ底暗い欲が滲んでいた。

「その時は、この塵輪鬼が手ずから……」

 しかし、次の瞬間。

 何かを思い直したかのように、塵輪鬼はゆっくりと口角を吊り上げた。不気味な笑みが八つの顔すべてに伝播していく。

「……奴を斬れば、計り知れぬ功となる。淵鵺様より賜った、またとない好機……。牛頭と馬頭が奴の体力を削った後、私がすべてを喰らえばよい」

 自らがその栄光を独り占めする未来を幻視するかのように、八つの首が粘つくような音を立てて蠢いた。

「失礼いたします」

 そう言い残し、異形もまた己の策を胸に闇の奥へと消えていった。

 再び、空間は重苦しい静寂に支配される。

 全てを見通しているのか、あるいは何もかもが無価値なのか。

 やがて、淵の底から響くような声が、ぽつりと漏れた。

「……焦る時ではない」

 ゆっくりと、獲物を追い詰める過程を愉しむかのように。

「事態はむしろ、好転している……」

 その威圧的な声は、空間の全てを呑み込むかのように広がり、再び、光の一筋も届かぬ底なしの闇の中へと吸い込まれていった。

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