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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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第七幕

一、伊吹弥三郎という男

 数日が過ぎた。泥傀儡を斃したあの夜から、江戸の町は表面上の静けさを取り戻していたが、秀兵衛の胸中は穏やかとは程遠かった。

 残る二体の淵鵺ふちぬえの臣下――その手掛かりは、いまだ何一つ掴めていない。昼は町を歩いて不穏な気配を探り、夜は鍛錬に没頭して、わずかな噂でも拾おうと耳を澄ませる。しかし、得られるのは空振りの徒労感ばかりであった。

(明日は江戸の外へ出るか……)

 そう思いながら、夜更けの庭で木刀を振る。

定刻になっても、いつもの同心は訪れなかった。

 今夜は依頼がないのだと判断し、秀兵衛は庭でスミレと打ち合っていた。月明かりの下、互いの刃が乾いた音を立てて交差する。

 その時である。

 玄関口の戸の方から、砂利を踏む足音が聞こえた。

 二人は同時に動きを止めた。

 静かな足取りだが、迷いがない。明確にこの家を目指して歩いてきた者の足音だった。

 やがて、戸の外で凛とした声が響く。

柳島秀兵衛(やなじま しゅうべえ)殿はいらっしゃるか?」

 いつもの同心の、卑屈さを混ぜた声ではない。低く、落ち着いているが、芯の通った声だ。何より、こちらの本名を知っている。

 秀兵衛は即座に木刀を捨て、腰の真剣に手をかけた。

(正体が知れぬ……。罠か?)

 居留守を装うつもりで戸口へ向かい、隙間から外の様子を伺う。

 そこに立っていたのは、灯りを片手にした侍風の男だった。

 髪は乱れなく結われ、質素だが仕立ての良い着物を身にまとっている。腰には一振りの打刀。旅装というよりは、一角の武士としての出立いでたちであった。

「……すみませんが、彼は今ここには居りませんので」

 あえて声を低くし、他人のふりをして応対する。

 だが、男は灯りを掲げ、戸の隙間から覗く秀兵衛の目をじっと見つめた。

 次の瞬間、男は得心したように目を細めた。

「貴方が秀兵衛殿ですな?」

 秀兵衛の眉が、闇の中でわずかに動く。

 男は逃がさぬと言わんばかりに言葉を継いだ。

「生憎と、先日貴方が泥傀儡と死闘を演じていた場を、影から拝見しておりました。それに――私は、淵鵺の臣下『みずち』の行方を知っている」

「……なに」

 淵鵺の臣下、蛟。

 その名が出た瞬間、秀兵衛の殺気が膨れ上がった。

(何者だ……。妖が見えるだけでなく、淵の内情にまで通じているのか?)

 この話を外で続けるわけにはいかない。秀兵衛はしばし無言で男を射抜くように見据えたのち、重い戸を大きく開けた。

「……入れ」

 応接間に通し、対面で座らせる。

 行灯の揺れる光の下で見ると、男のかおはまだ若かったが、その双眸には長い年月の執念が、黒い澱のように沈んでいた。

「まずは私が名乗らねばなりませんな。名は伊吹弥三郎いぶき やさぶろうと申します」

 男は静かに、深々と頭を下げた。

「江戸近郊の、『小金(こがね)村』という所で生まれました。しかし幼少の頃――蛟が引き起こした凄まじい水害によって、故郷は地図から消されました。生まれつき妖が見える体質ゆえ、私は死体の山から這い出し、なんとか生き延びましたが……今も、あの怪物を追っている身です」

 淡々と語る言葉の端々に、煮え滾るような怒りが滲み出る。

「その刀……。妖を斬れるのか」

 秀兵衛は、弥三郎が傍らに置いた刀――抜き身ならぬ鞘からも、異様な気配が漏れ出ている一振りに目を向けて問うた。

「ええ。蛟を斬るためだけに、独学で剣を……そして妖を斬る術を身につけました」

 弥三郎は膝の上で拳を作り、血が滲むほどに強く握り締めた。

 秀兵衛はそれを見つめたまま、温度のない声で返す。

「その割に、仮面は持っていないようだが?」

「……仮面?」

 弥三郎は、聞いたこともないという風に怪訝そうな顔をした。

「独学ゆえに知らぬのか。仮面は、妖を斬った際に溢れ出す汚れた妖気の吸収を抑える『防護』だ。それなしで斬り続ければ、いずれ己が妖に喰われることになる」

 秀兵衛の簡潔な説明に、弥三郎は初めて己の「無知」を突きつけられたように黙り込んだ。

(この程度の理も知らず、今まで生き延びてきたというのか……)

 秀兵衛の胸中で、不信感は依然として消えない。

「自分が淵鵺の手先ではないという証拠はあるのか? 奴なら、身内を餌にして俺を釣ることも考えつく」

 声は冷徹だった。返答次第では、この場で切り捨てるか追い返すつもりである。

 弥三郎は一瞬目を伏せ、覚悟を決めたように懐から布包みを取り出した。

 中から差し出されたのは、一つの古びたお守りだった。

「これは亡き母の形見……。十年以上、肌身離さず持ち歩いているものです」

 それはひどく汚れ、ところどころに乾いた古い血が付着し、何度も水に浸かったような波打った痕が残っていた。長い歳月、彼がどれほどの修羅場を越えてきたかを無言で物語っている。

「そして――これを見ていただければ、私の立場は分かっていただけるはず」

 弥三郎は無造作に着物をはだけた。

 その脇腹から胸にかけて、奇妙な黒い斑点と、毒を流し込んだような紫の血管が這い回っていた。見ているだけで神経が逆立つような、悍ましく、痛々しい変異の痕跡だ。

「蛟と遭遇した際に受けた、消えぬ呪いです。奴の妖気が、今も私の肉体を蝕んでいる」

 淵鵺の手先であれば、妖気は「力」として身体に馴染むはずだ。しかし、彼のそれは猛毒となって、命の灯火を内側から削り取っていた。

 秀兵衛はしばし、沈黙の中で男の覚悟を測った。

「……スミレ、どう視える」

 傍らに控えていたスミレに、判断を委ねる。

 スミレは弥三郎の「内側」を透かし視るように目を凝らし、静かに告げた。

「……体内に妖気が溜まっていて、とても苦しそうです。でも、淵鵺たちのような『冷たい悪意』とは違います。……この方は、まだ人間です」

 その言葉に、弥三郎は弾かれたように目を見開いた。

「まさか……。人間と妖の判別がつくのか!?」

「その話は今、聞かなかったことにしろ」

 秀兵衛が鋭い声で遮る。

「……代わりに、ひとまずはお前を信用しよう」

 一瞬の静寂。

 やがて弥三郎は深く吐息をつくと、顔を上げた。

「……よし……!」

 拳を握り締め、微かに肩を震わせる。

 だが、その瞳の奥に宿るのは単なる歓喜ではない。

 長年、独り孤独に追い続け、何度も死にかけた仇。その首へ、ついに手が届くかもしれぬという――命を燃やし尽くさんばかりの、烈火の如き決意であった。

 弥三郎は姿勢を正すと、静かに、しかし断腸の思いを込めるように語り始めた。

「蛟は、水害を司る妖です。奴が現れるところには、理を外れた暴風が吹き、必ず不吉な嵐が巻き起こる。……これまで、嫌というほどその兆しを見てきました」

 その言葉には、ただの伝聞ではない、凄惨な実体験に裏打ちされた重みがあった。弥三郎の脳裏には、おそらく今も泥流に呑まれる故郷の光景が焼き付いているのだろう。

「現在、岩淵いわぶち)にて、小規模ながら不自然な嵐が確認されています。私一人で斬りたいのは山々ですが……これまでの幾度もの敗走で、奴の底知れぬ強さは痛いほど身に沁みています。……不甲斐ない話だが、もはや私一人の手には負えぬ。秀兵衛殿、貴殿の力を貸していただきたい。この通りだ!」

 弥三郎は畳に両手をつき、額を擦りつけるようにして深々と頭を下げた。武士がそこまでして頭を下げることの重みを、秀兵衛は知っている。

 秀兵衛は腕を組み、しばし沈黙の中で思案した。

 弥三郎の言葉が真実か、あるいは何者かの誘いか。だが、もし嵐が妖によるものだとすれば、一刻の猶予もない。放置すれば江戸の町にまで甚大な被害が及ぶ。

「嵐か……」

 低く呟いたあと、秀兵衛は鋭い眼光を弥三郎へ向けた。

「それが本当に蛟によるものか否かは、行ってみるまで分からぬ。だが、妖が原因で人が脅かされているというのなら、妖斬りとして見過ごすわけにはいかぬ。相分かった。俺も同行しよう」

「……感謝する」

 弥三郎の肩から、目に見えて張り詰めていた力が抜けた。

「そして――スミレ。お前もだ」

 続けて告げると、彼女は躊躇なく「はい」と短く応じた。

 だが、その反応を見た弥三郎は、驚きを隠せずに彼女を凝視した。どこからどう見ても、修羅場へ赴くような娘には見えなかったからだ。

「スミレ殿といったか……? 無礼を承知で言うが、彼女を連れて行くのは少々危険すぎるのではないか?確かに泥傀儡との戦いでは一役かっていたようだが、 相手は自然さえ操る化け物だぞ」

 その懸念に、秀兵衛は「確かに一理ある」と小さく頷いた。

「嵐とは、刀で直接斬ることのできぬ自然の猛威……。此度は戦いよりも、その『眼』による索敵に徹してもらうとしよう。いいな、スミレ」

「分かりました」

 スミレは素直に頭を下げた。不満を漏らすことも、恐怖に怯えることもなく、ただ与えられた役割を全うしようとするその静かな覚悟に、弥三郎は気圧されたように黙り込んだ。

 三人は立ち上がり、迅速に支度を整え始めた。

 秀兵衛は壁掛けから予備の狐の仮面を一つ取り、スミレへと差し出す。

 泥傀儡との戦い以来、彼女には妖を視るだけでなく「斬る才」があることが判明していた。それゆえ、その若すぎる肉体に妖気が溜まらぬよう、近頃はこうして護符としての仮面を装着させているのだ。

 仮面を受け取ったスミレは、慣れた手つきでそれを顔に当て、静かに紐を括った。

 その流れで、秀兵衛はもう一つの予備の仮面を手に取り、弥三郎へと向けた。

「……お前も、これを着けるか?」

 しかし、弥三郎は即座に首を横に振った。

「遠慮します。仮面を着ければ、どうしても死角が生まれ、視界が狭まる。使い慣れている二人ならいざ知らず、私にとっては一瞬の判断ミスが命取りになります。……今は、生身の感覚を信じたい」

 剣士にとって視界の制限は、死への招待状に等しい――。その理屈は、独学で生き延びてきた彼なりの正解なのだろう。

「……そうか」

 秀兵衛は、仮面なしで妖を斬り続けることの危うさを案じ、微かな不安を覚えたが、それ以上は何も言わなかった。他ならぬ、復讐に命を賭けた男の覚悟を尊重したのだ。

 やがて三人は戸を開け、冷え冷えとした夜の江戸へと歩み出た。

 空には墨を流したような重たい雲が垂れ込め、遠く北の空が地鳴りのように不気味に唸っている。

 岩淵――。

 そこに待ち受けるのは、長年の仇である蛟か、それともさらなる絶望か。

 肌を刺す冷たい夜風を真正面から受けながら、三人は言葉もなく、嵐の予感へと向かって静かに歩を進めていった。



二、風の深淵

 岩淵に近づくにつれ、風は次第に狂暴な激しさを増していった。

 周囲の木々は折れんばかりにしなり、巻き上げられた砂利や小石が礫となって頬を打つ。不気味な咆哮を上げてうねるその風は、自然の摂理から明らかに逸脱していた。

 三人は重心を低く保ち、一歩ずつ地を踏みしめながら進む。

 やがて堤防の坂を上り切ると、荒れ狂う川の付近に、どす黒く渦を巻く「小嵐」が視認できた。それはまるで巨大な生き物が這い回るように位置を変え、意志を持って江戸の方角へと進もうとしていた。

「風の中に、複数の妖気があります! 渦の中心に大きな影、その周りを小さな影が飛び交っています!」

 風を遮るように手をかざし、必死に目を凝らしていたスミレが叫んだ。

 秀兵衛は仮面の奥で目を細め、渦の核を見据える。

「あれは……風狸(ふうり)か……!」

 低く呟いたその名に、弥三郎の表情が険しく引き締まった。

「……ッ! 来ます!」

 スミレの警告が響くと同時だった。

 突如、視界の端で風が鋭く裂ける。

 刹那、風に乗った無数の見えざる刃が、死神の鎌となって三人へと襲いかかった。

「くっ……!」

 キィィン、と金属がぶつかる甲高い音が連続して夜に響く。

 秀兵衛は刀の腹で斬撃を受け流し、弥三郎も咄嗟に数条の刃を弾き返したが、避けきれぬ突風が二人の衣をいくつも裂き、肌に浅い筋を刻んだ。

鎌鼬かまいたちもいるのか……」

 秀兵衛は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。風狸が場を作り、鎌鼬が仕留める――最悪の連携だ。

「スミレは下がっていろ。俺と弥三郎で迎え撃つ!」

 二人は同時に刀を抜き放った。スミレは短く頷き、少し離れた頑強な家屋の残骸へと身を隠す。

「右から二体! すぐ後に正面からも来ます!」

 再び届く叫び声。

 直後、激しい火花が散った。

 今度は二人とも、スミレの導きに従い、見えざる刃を正確に弾き返した。

「速いな……。目では到底追いきれん」

 弥三郎が血の混じった唾を吐き捨て、歯を食いしばる。

「風狸の起こす風に乗っている。奴らにとっては追い風、……俺たちにとっては向かい風だ」

 その後も、前後左右から絶え間なく不可視の斬撃が飛んできた。

 だが、スミレの「眼」が風の機微を読み取り、声によって方向を示すことで、二人は決定的な致命傷を免れ続ける。

 やがて、次第に攻撃の間隔や軌道が秀兵衛の肉体に馴染み始めた。スミレの声が届くよりわずかに早く、空気が鳴る直前の「気配」で刃を防げる瞬間が増えていく。

 しかし――。

「攻める機会がない……」

 秀兵衛は小さく舌打ちした。

 鎌鼬は斬りつけるや否や、風のうねりに乗って一瞬で離脱してしまう。こちらの間合いに留まる時間は、瞬きほどもない。

「どうすれば……あの速度を捉えて斬れる……」

 必死に思案の糸を巡らせる秀兵衛。その時、隣に立つ弥三郎が、荒い息を整えながら口を開いた。

「秀兵衛殿、私に考えがあります。……以前、独りで幾度か鎌鼬を斬った。これほどの強風下ではなかったが……奴らの法則は知っている」

 秀兵衛が視線だけで続きを促すと、弥三郎は鋭い眼光を渦に向けた。

「鎌鼬は、その性質上、突撃の際に身体を一本の矢のように伸ばし、空気抵抗を極限まで減らして風に乗る。そして正面の敵を文字通り『通り魔』の如く斬り裂く。……つまり、凶器である手先の刃のすぐ横に、奴らの鼻先があるのです」

 一拍置いて、弥三郎は確信を込めて続ける。

「刃を縦ではなく、横に寝かせて構え、その鼻先を狙う。そうすれば、奴らの刃を防ぐと同時に、向こうから勝手に胴を断たせることができるはずです」

 秀兵衛は感心したように、短く息を吐いた。

「なるほど……。受け流すのではなく、鼻先を狙うことで攻防一体の一太刀とする、か」

 助言を深く頭に刻み込み、秀兵衛は一度深く息を吐いて心を静めた。

 流転の型を捨て、極限の静止。刀を横一文字に構え、全神経を風の「先」へと集中させる。

 風の流れ。刃の気配。そして、スミレの声――。

「正面、来ます!」

 一瞬、荒れ狂う風の中にキラリと光が走った。

 目にも止まらぬ速度で迫る、わずかに赤みを帯びた小さな鼻先。

「ここだッ!」

 凄まじい踏み込みと共に、渾身の横薙ぎが放たれる。

 ズバンッ、と重く鈍い音が夜の湿った空気を断ち切った。

 次の瞬間、鎌鼬の細長い身体が自らの速度によって真っ二つに裂け、無様に地へと落ちる。妖はもがくことさえ許されず、怨念に満ちた黒い霧となって地面へ溶け込んでいった。

「……見事なものだ」

 弥三郎は感嘆のあまり、思わず声を漏らした。

「これが……本物の妖斬り、秀兵衛殿の力か」

 一柱の鎌鼬が消えたことで、風が一瞬だけその勢いを弱める。

 だが、元凶である嵐の渦は、なおも禍々しい唸りを上げて岩淵水門に居座り続けていた。

 秀兵衛は刀の血振りを鋭く行い、さらなる殺気を孕んで渦巻く小嵐をじっと見据えた。


「全神経を鎌鼬の鼻先に集中しろ」

 秀兵衛は、吹き荒れる風の中でも通る鋭い声で短く言い放った。

「奴の速度に合わせるんじゃない。鼻先を捉えた瞬間、己の刃をそこに置いてくるつもりで振り始めるんだ」

 弥三郎は肺が焼けるような荒い息を整え、深く頷く。

 直後、再び風が鋭く裂けた。

 一閃。

 キィィンという澄んだ金属音と共に、夜闇に銀の軌跡が弾ける。

「――できた……!」

 地に落ち、苦悶の声を上げる間もなく霧へと溶けていく鎌鼬を見下ろし、弥三郎は思わず震える声を漏らした。独学で積み上げてきた執念が、秀兵衛という導きを得て、確かな「業」へと昇華した瞬間だった。

「その調子だ。あとは自分の感性のみでやってみろ」

 秀兵衛の声は静かだが、そこには一人の武人に対する確かな信頼が滲んでいた。弥三郎は力強く頷き、再び刀を正眼に構える。

 その後、二人は左右から、あるいは死角から迫る鎌鼬を、示し合わせたかのように着々と斬り落としていった。一体、また一体と眷属を失うたびに、逆風は目に見えて弱まり、荒れ狂っていた空気の流れが不自然に揺らぎ始める。

「……風が弱まってきたな」

「ええ。これなら、あの小嵐の中心へ踏み込めそうです」

 秀兵衛は鯉口を切り、刀を構え直した。

「行くぞ。次の狙いは、元凶――風狸だ」

 弥三郎も迷いなく頷く。もはや二人の呼吸に、先ほどまでの不信の壁はない。長年連れ添った兄弟のように、二人は同時に地を蹴り、暴風の壁へと肉薄した。

 その動きに危機を察したのか、小嵐そのものが意思を持って肥大化し、二人を飲み込もうと迫りくる。

「ぶつかる……!」

 あまりの重圧に弥三郎が歩みを止めかけるが、秀兵衛がそれを剛腕で制した。

「怯むな。このままぶつかり、流れに乗って中心部へ突入するぞ。風の継ぎ目を突け!」

 一瞬だけ目を見合わせ、不敵な笑みと共に決意を交わす。

 そして――二人は同時に嵐の「眼」へと突入した。

 凄まじい風圧が肌を裂き、衣をずたずたに引き裂く。生身を削るような痛みが走るが、二人は止まらない。血を流すことは、奴の喉元へ届くための必要経費に過ぎなかった。

 嵐の中へ踏み込むと、景色が歪むほどの妖気が渦巻いていた。唸る風の最奥、そこに一つの醜悪な影が浮かび上がっている。

「あれが、風狸…」

 体格は大きくない。だが、全身を覆う剛毛は鋼の針のように逆立ち、周囲の空気を吸い込んでは吐き出すたびに、新たな鎌風を生み出している。

「周りを見てください……!」

 弥三郎が戦慄を堪えきれずに息を呑んだ。

 嵐の内壁、二人を取り囲むように、銀色の光が星屑のように無数に煌めいていた。逃げ遅れたわけではない。風狸を守護するために密集した、鎌鼬の群れだ。

「まだ、これほど潜んでいたのか……」

 突入時に負った無数の傷の意味が、ようやく理解できた。ここは逃げ場のない檻だ。前後左右、上下。あらゆる角度から死の旋風が襲いかかる絶望の死地。

 直後、後方から不可視の斬撃。弥三郎の背後にも、同時に刃が迫る。

 二人は反射的に刀を振り、金属音を響かせてそれを弾き飛ばすが、あまりの数に「斬る」までには至らない。

 続いて前方、さらに側面。

「う、ぐっ……!」

 絶え間ない襲撃が、嵐の中で雨あられと降り注ぐ。

 だが――。

「こういう時こそ……流転の本領だ」

 秀兵衛の唯一の瞳が、青白く鋭い光を放った。

 流転の型。

 前方から来る刃を円の動きで受け流し、側面からの刃の勢いを自身の旋回へと変換する。衝撃を蓄え、反発の力を芯に溜めに溜める。

(全方位から来るなら……自分も回ればいい)

 秀兵衛は独楽のように身体を軸にして鋭く回転した。蓄積した遠心力と妖力を一気に解放する。

 背後を過ぎ去ろうとした鎌鼬へ、目にも止まらぬ一閃。

 一体が鮮やかに裂け、霧となる。

 そのまま回転を止めず、流れるように次の一撃を放つ。

 次。

 そして、また次。

 荒れ狂う嵐の中を、さらに激しい「個の嵐」となって舞いながら、秀兵衛は鎌鼬を断ち斬り続けた。

 鎌鼬は攻撃の瞬間こそ最速だが、通り過ぎて風の継ぎ目――追い風の外へ出た瞬間、一瞬だけ速度が死ぬ。

「そこだ……遅い!」

 外側で迎撃するよりも、むしろ内側で迎え撃つ方が、奴らの背は無防備に晒されていた。 次々と妖を断ち切る秀兵衛の姿は、もはや風を斬る者ではなく、風そのものを統べる支配者のようであった。

 しかし、その横で。

 流転の理を持たぬ弥三郎は、力尽くの応戦を強いられ、急速に疲弊し始めていた。

「敵の攻撃は受け流せ。その後に無防備な背中を一体ずつ斬り落としていけば良い」

 秀兵衛の助言は、嵐の轟音の中でも鋭く、簡潔だった。

 弥三郎は血の混じった唾を吐き捨て、歯を食いしばる。言われた通りに動くことだけに全神経を注いだ。

 前方から迫る不可視の刃を、流転の理をなぞるように受け流し、身体を独楽のように回して背後へ――。

 一閃。

 確かな手応えと共に鎌鼬が裂け、怨念の霧となって消えた。

「……斬れた……!」

 歓喜が脳を焼く。だが次の瞬間、弥三郎の呼吸は劇的に乱れた。肺を直接焼かれるような激痛が走り、肩が激しく上下する。足取りも鉛のように重い。独学で培った限界が、すぐそこまで来ているのは明白だった。

(弥三郎ももはや限界か……。これ以上長引けば、奴から先に力尽きる。早々に決着をつけなければ……)

 秀兵衛が冷徹に戦況を判断した、その時だった。

 嵐の中心にいた風狸が、弱った獲物を逃さぬと言わんばかりに、弥三郎へと狙いを定めた。

 その小柄な全身が低く唸り、鋼の剛毛が逆立つ。

 次の瞬間――。

 風狸は身体を凄まじい速度で回転させ、自らが小さな死の竜巻となって突撃してきた。

「まずい……!」

 弥三郎は周囲を取り囲む鎌鼬の猛攻を凌ぐので精一杯だ。反応が遅れる。回避は不可能。

 その刹那、秀兵衛は自らの周囲を飛ぶ鎌鼬を一瞬で斬り伏せ、地を爆ぜさせて跳んだ。

 風を裂き、弥三郎の目前へと割って入る。

 抜刀の勢いのまま風狸の突撃を受け止めると、全身に骨を砕くような衝撃が走った。足が土を深く抉り、両腕の筋肉が悲鳴を上げて軋む。

「ぐっ……!」

 それでも秀兵衛は踏み止まり、仮面の奥で唯一の瞳を炯々と光らせ、力の限り妖を弾き返した。

 風狸は弾丸のように遠くへと吹き飛ばされる。

 続けざまに秀兵衛は身を翻し、弥三郎を囲んでいた鎌鼬数体を瞬きする間に斬り落とした。

「大丈夫か、弥三郎」

 低い呼びかけに、弥三郎は力なく顔を上げる。

 仮面のないその顔は青白く、息も絶え絶えだったが、それでも意地で頷いてみせた。

「秀兵衛殿……かたじけない……」

 今にも崩れ落ちそうなその様子を見て、秀兵衛は最後の賭けを決断する。

「すまぬ、弥三郎。あと数秒、一人で耐えてはくれぬか。その間に、俺が必ず風狸を斬る」

弥三郎は自嘲気味に口角を上げ、震える手で刀を握り直した。

「ああ……もちろんだとも……。そのために、私はここまで来たのだからな……」

 言葉とは裏腹に、その身体は既に死の淵にあった。それでも、執念が宿った瞳だけは、いまだ折れずに前を見据えている。

 秀兵衛は深く頷き、再び渦巻く小嵐を見据えた。

(これは嵐……。意思を持って巻き上がる、巨大な力の奔流……。ならば――利用させてもらうぞ)

 問題は、内部に潜む無数の鎌鼬の壁。だが、猶予はない。

 秀兵衛は覚悟を決め、小嵐の最も勢いの強い外周へとあえて跳躍した。

 逆風の壁に身を投げ、風の流れに己の質量を乗せる。

 同時に、反応した鎌鼬の刃が雨あられと全身を襲った。

 衣が裂け、鮮血が夜の闇に舞う。それでも、秀兵衛は止まらない。

 流転の型で致命の刃をいくつも斬り落とすが、あまりの数だ。視界は激しく回り、天地の平衡感覚が崩れ去る。

 だが、何周か旋回するうち、ようやく風の流れが秀兵衛の「一部」として身体に馴染み始めた。

 中心では、弥三郎が血を吐きながらも必死に耐えている。

(弥三郎……待っておれ……)

 歯を食いしばり、加速し続ける景色の中で、秀兵衛はある一点を捉えた。

 狙いはただ一つ。

 弾き飛ばされ、態勢を立て直そうとしている風狸の無防備な背中。

(この速度なら、奴の眼ですら俺を捉えられぬ。機会は一度きり……!)

 全身の力を一点へ、右腕へと振り絞る。

 嵐の遠心力を最大限に利用し、弾けるように外へと飛び出した。

 視界が開ける。

 目の前に、絶望に目を見開いた風狸の背。

「これで、終いだ!」

 銀の閃光が、嵐を断ち切るように走った。

 風狸の身体が絶叫と共に鮮やかに両断される。

 驚愕の断末魔が響き渡り、妖は力を失って地へと墜落した。やがて漆黒の霧となり、地面へ溶けるようにしてその存在を消した。

 その瞬間。

 荒れ狂っていた小嵐が、糸の切れた凧のように嘘のように霧散する。

 吹き荒れていた風も止み、残っていた鎌鼬の群れも、主を失って空ろに霧散していった。

 静寂が戻る。

 秀兵衛は無残に斬られた土の上に静かに着地し、大きく肺を膨らませて息を吐いた。

 血振りをし、刀を鞘に納める。風の音が消えた世界は、耳が痛くなるほどに静かだった。

 ただ一人――。

 背後で、震える呼吸を漏らしている弥三郎を除いて。



三、風の弥三郎

 弥三郎は、最後の一体の鎌鼬を斬り伏せた直後だった。

 刃が霧へと消えるのを見届けると、糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。両手と両膝を地面につき、喉を鳴らして激しく肩で息をしていた。

「弥三郎、大丈夫か!」

 秀兵衛は仮面を外し、地を蹴って急ぎ駆け寄る。

 その瞬間だった。

 周囲に漂っていた膨大な妖気が、主を失ったことで逆流し、まるで意思を持つかのように弥三郎へと吸い寄せられ始めた。

 黒い靄が渦を巻き、無防備な彼の毛穴、傷口、そして肺の奥深くへと容赦なく流れ込んでいく。

「秀兵衛殿……私は、もう……ダメ、みたいだ……」

 弥三郎の声は、砂を噛むようにかすれていた。しかし、死を悟った者のように不思議と落ち着いている。

 周囲の空気が急速に重くなる。肺を圧迫するような濃密な妖気が、夜の帳をさらに深く塗り潰していった。

 秀兵衛は倒れゆく彼を咄嗟に抱え、自らの膝の上に寝かせる。

「弥三郎、お前……!」

 秀兵衛は目を見張った。弥三郎の白い皮膚の下で、悍ましい「何か」が生き物のように蠢いている。

 仮面を外したスミレも、青ざめた顔で駆け寄ってきた。

「秀兵衛さん。弥三郎さんの身体に、溜まっていた妖気が一気に……!」

「はは……本当に、面目ない。どうやら私は……独りよがりの挙句、妖に成り果てるようです……」

 弥三郎は、己の運命を嗤うように自嘲気味に笑った。

 その言葉に、秀兵衛の顔色が劇的に変わる。

「落ち着け。呼吸を整えろ……! 妖気を拒絶するんだ! ……ハッ。あの黒い斑点を削げば、まだ間に合うかもしれん……!」

 秀兵衛は狼狽を抑え、慌てて弥三郎の着物をはだけさせた。

 しかし、そこにあったのはもはや「斑点」などではなかった。

 黒い呪いのような染みが全身に急速に広がり、血管のようにどす黒く脈動している。

「……くっ」

 秀兵衛は奥歯が砕けるほど歯を食いしばる。

「はは……本当に、私は愚かでした。あの時、秀兵衛殿の言葉を……仮面の意味を、素直に聞いていれば……」

 弥三郎の脳裏に、出発前の秀兵衛の懸念がよぎった。だが、今さら悔いても、失われた時間は戻らない。

「スミレ……! 何か、何か方法はないか! お前の眼なら、救う道が見えるはずだ!」

 秀兵衛は、藁をも掴む思いでスミレに問う。

 スミレは必死に目を凝らし、弥三郎の魂の色を視ようとした。しかし、やがて悲痛な表情で首を横に振るしかなかった。

「ごめんなさい……。人の心が……泥のように、染まっていきます……」

 その時、弥三郎が震える唇で、静かに、だが鋼のような意志を込めて口を開いた。

「秀兵衛殿……今のうちに、私を斬ってください。自我が消え、人でなくなる前なら……まだ、間に合います」

 冷静な声だった。死への恐怖も、生への未練も、もはやそこにはない。ただ、妖として生き恥をさらしたくないという、武士としての最期の矜持が滲んでいた。

 だが秀兵衛は、激しく首を振る。

 まだ何かあるはずだ。共に蛟を、淵鵺を斬ると決めた男ではないか。ここで、志半ばで失うわけにはいかない。

 しかし、秀兵衛が葛藤に身を焼かれている間にも、弥三郎を包む妖気は濃度を増していく。

やがて弥三郎は、秀兵衛が迷っていることを悟ったのか、震える手で秀兵衛の腰にある刀を抜き放った。

「斬ってくれないのなら……ここで、自刃します」

 弥三郎は弱った身体を奮い立たせ、自らの喉元へと鋭い刃を当てた。

「待て……!」

 秀兵衛は叫び、強引にその刀を奪い取った。

「……分かった。それならば、俺が斬る! お前の魂、俺が引き受ける!」

 鬼気迫る声だった。秀兵衛は溢れそうになる涙を堪え、震える手を抑えるように深く息を吐く。

「許してくれ……弥三郎……!」

 絞り出すような、慟哭の叫び。

 弥三郎は、それを受け止めるように一つだけ深く頷いた。

 そして、静かに、安らかに目を閉じる。

 秀兵衛の刃が、月光を反射して美しく、残酷に振り下ろされた。

 あと数寸で、その喉元を貫く――。

 その瞬間。

 弥三郎の身体から、漆黒の妖気が爆発した。

 凄まじい衝撃波。轟音とともに黒い飛礫が弾け、至近距離にいた秀兵衛とスミレは問答無用で吹き飛ばされる。

 地面を転がり、土埃の中で即座に体勢を立て直した二人が顔を上げた時、立ち込める黒煙がゆっくりと晴れていった。

 そこに立っていたのは――。

 上半身を露わにし、濃密で禍々しい妖気を炎のように纏った、弥三郎の「成れの果て」だった。

 その肌には、死を象徴するような黒い紋様が枝分かれして浮かび、かつての澄んだ瞳は、妖しく濁った黄金色に光っている。

 手には、今や妖刀と化した自らの打刀。

 かつての清廉な武士の面影を残しながらも、その全身からは、周囲の草木を枯らすほどの殺気と、人ならざる存在への変貌を告げる禍々しい気配が放たれていた。

「……弥、三郎……」

 秀兵衛の掠れた声は、再び吹き始めた冷たい風にかき消された。


「ずいぶん遅い決断だったな、秀兵衛。おかげで、この通り――新たに『救済』され、生まれ変わることができたよ」

 かつて弥三郎であったものの口から、低く、臓腑の底まで直接響くような声が漏れた。

 人の喉を介さぬその不自然な声音に、秀兵衛の背筋を冷たい戦慄が駆け抜ける。

「……お前は、誰だ」

 秀兵衛は再び仮面を着け、込み上げる怒りと後悔を無理やり押し殺し、あえて突き放すような威圧の声で問い返した。

「強いて言うなら――『風の弥三郎』、といったところか」

 妖しく濁った黄金色の瞳が細められ、嘲るような笑みが浮かぶ。その瞬間、秀兵衛の胸の奥に閉じ込めていた激情が、ついに決壊した。

「お前が……弥三郎の名を騙るなあああッ!」

 地を爆ぜさせ、秀兵衛は修羅の如き形相で一目散に妖へと斬りかかる。

(すまぬ……弥三郎……!)

 己の甘さが、断ち切れぬ情が、この無惨な結末を招いた。

 ならば、せめてこの手で終わらせる。それだけが、今の秀兵衛にできる唯一の、そしてあまりに重い贖罪だった。

 突撃してくる秀兵衛を見据え、風の弥三郎は不敵に笑うと、ゆっくりと漆黒の紋様が走る右手を掲げた。

 その刹那、虚空が激しく唸る。

 辺り一面に、先ほどまでとは比較にならぬほどの暴風が吹き荒れた。

 枯葉が舞い踊り、土砂が巻き上がり、月明かりさえも掻き消すほどに視界が揺らぐ。

 それは、風を支配した弥三郎にとっては天の追い風。

 対する秀兵衛にとっては、全身を鎖で縛るかのような理不尽な向かい風となった。

 思わず歩みを止め、嵐に抗う秀兵衛の前で、妖は静かにその刀を構えた。

 顔の横へ刃を水平に掲げ、切っ先を真っ直ぐに上へと向ける。肘を深く折り曲げ、腕を大きく、不自然なほど後方へ引き絞る。

 ――それは、斬撃の構えではない。

(突き……それも、左利きか)

 秀兵衛の脳裏に、かつて源次郎から教わった武家の理がよぎった。

 この社会において、左利きは忌まれ、幼少のうちに右へと矯正されるのが常道だ。弥三郎も例外ではなく、刀は左腰に差し、握りも右手が前、左手が後ろの「右構え」を強じられていた。だが、それゆえに彼の剣はどこか歪で、型の収まりが悪かったのだ。

 幼い頃に師を失い、復讐という妄執だけで鍛え上げた独学の剣。

 矯正された右では制御しきれぬ力を、突きに変換して押し込む――そんな、歪で、凄まじい執念の塊。

(来る……!)

 思考が形を成すより早く、風の弥三郎が風そのものと同化して跳んだ。

 迅雷の如き突きが放たれる。

 速い。風に乗ったその刃は、視覚を置き去りにしていた。

 秀兵衛は辛うじて刀身を滑らせ、喉元への軌道を逸らした。

 直線的故に読みやすい――そう判断し、反撃に転じようとした刹那だった。

 風の弥三郎は即座に刀を引き戻すと、その勢いを殺さぬまま、逆方向から凄まじい力で打ち返してくる。型に縛られぬゆえの、変幻自在の暴力。そのまま、息つく暇もなく嵐のような連撃を叩きつけてきた。

 重い。

 一撃ごとに秀兵衛の腕へ、骨を砕かんばかりの衝撃が走り、刀身を握る手が痺れに震える。

 流派も伝統もない。だが、その分、躊躇も慈悲も、限界という名のブレーキも存在しない。

「どうした! 受けてばかりでは、俺を斬ることはできんぞ!」

 挑発とともに、さらに深く斬り込んでくる。

 あえて受けさせ、反発を誘い、その瞬間に引き戻して突き刺す。その「独学の癖」に気づいた時には、既に遅かった。

 風の弥三郎は瞬時に間合いを零まで詰め、最短距離の連続突きを放つ。

 避けきれない。

 鈍い音と共に、一閃が秀兵衛の太腿を深く貫いた。

「くっ……ぁぁあ!」

 膝が激しく揺らぐ。

 焼けるような熱い血が溢れ、そこから力が急速に抜けていく。

 型破りで、それでいて理に適った死への執着。荒々しいその剣は、確実に、そして残酷に秀兵衛を死の淵へと追い詰めていた。

(思い出せ……。左利きの、矯正された者の弱点を……!)

 秀兵衛は焼けるような太腿の痛みを奥歯で堪え、必死に過去の記憶を辿った。

 かつて、剣の師である源次郎が、稽古の合間にふと漏らした言葉が脳裏に浮かび上がる。

 ――左利きの本能が抜けきらぬまま右へ矯正された者は、器用さの足りぬ右手を補おうとして、どうしても腕の力に頼りすぎる「右手主体の剣」になりやすい。

 その場合、剣先は外へと逃げやすく、軌道は力任せの太く単調な直線を描くことになる。

 とりわけ、その「突き」の癖は顕著だ。

 力で強引に押し込む分、繊細な制御が甘く、狙いはどうしても大まかになりやすい。ゆえに奴らは、頭や胴といった「外しようのない広い急所」を狙い、確実に当てるために――放つ直前、無意識にそこを「目で捉える」。

 つまり。

(奴の視線の先に、必ず刃の道筋がある)

 確信を得た秀兵衛は、攻め急ぐ心を静め、しばらくは防御に徹した。

 嵐のような弥三郎の猛攻を紙一重で凌ぎながら、ただひたすらに、その黄金色の双眸を見据える。

 普通、熟練の剣士ならば視線に気づき、即座に警戒して視線を外すものだ。

 しかし、妖の力に呑まれ、肥大化した自己に酔いしれる今の弥三郎は違った。

「どうした、自慢の剣はどこへ行った! 逃げ回るばかりか!」

 嘲り、煽る言葉を吐き散らしながら、彼は力任せの突進を繰り返す。まるで、自らの剣筋が読まれるなど、微塵も考えていない増長そのものだった。

 やがて、明確な傾向が浮き彫りになってきた。

 太腿。次に頭。そして、胴。

 順番こそ多少入れ替わりはするものの、狙う箇所は限定されている。散らすように狙っているつもりなのだろうが、矯正された右手が選ぶ「当てやすい場所」という癖は、隠しきれていなかった。

(分かってしまえば……)

 秀兵衛の目が、氷のように細くなる。

(あとは、合わせるだけだ)

 斬撃は流し、突きはその三点を重点的に守る。

 理を理解しただけで、あれほど理不尽だった攻撃は、驚くほど楽に捌けるようになった。心に余裕が生まれ、嵐の合間に見える「間合いの隙」が、白日の下に晒される。

 次の瞬間。

 太腿へと吸い込まれるように放たれた突きを、秀兵衛は上から刀の腹で叩き落とした。

 そのまま、弾かれた勢いを利用して懐へと踏み込み、腰の捻りを加えた刃を横へと走らせる。

 ざらり、と肉を断つ不快な感触と共に、鮮血が夜の闇に舞った。

 風の弥三郎の胴が、袈裟斬りに深く裂かれる。

「ぐっ……ぁぁあ!」

 初めて受けた手痛い打撃に、妖は信じられぬといった風に黄金の目を見開いた。

「なぜだ……! 俺の最速の剣が、容易く読まれたとでもいうのか!?」

「分からぬか」

 秀兵衛は冷徹なほどに静かな声で答えた。

「お前の剣に型は無い。だが、それ故に『クセ』という名の型が露呈している。狙いも、心も、透けて視えるぞ」

 言い終えるより早く、秀兵衛は容赦のない追撃に移った。

 逆風など、もはや抵抗にならない。重力を無視して地を強く踏み締め、ひたすら前へと圧をかける。

 一転攻勢。今度は、こちらが死を告げる番だ。

 受けに回った風の弥三郎は、持ち味である攻めの勢いを削がれ、余裕を失っていく。防ぐので精一杯となり、かつて自分が支配していたはずの間合いを、一歩、また一歩と秀兵衛に奪われていく。

 秀兵衛の剣が、月明かりを浴びて舞う。

 ――流転の型。

 水のように連なり、風のように途切れない。

 腕を裂き、脚を斬り、胴を抉る。ついには、恐怖に歪む弥三郎の首元にまで冷たい刃が肉薄した。

「くっ……おのれぇえええ! 舐めるなッ!」

 風の弥三郎は断末魔のような叫びを上げ、漆黒の紋様が浮き出た右手を高く掲げた。

 突如、風向きが反転する。

 秀兵衛の背を猛烈な勢いで押し出す「追い風」へと変わったのだ。

 一瞬、その不可解な意図を測りかね、秀兵衛は眉を潜める。だが、風の弥三郎はすでに動いていた。

 自らも風に乗り、大きく跳躍して間合いを一気に広げる。

 距離を取った妖は、肩で荒く息を吐きながら、憎悪を剥き出しにして秀兵衛を睨みつけた。

「お前は……この俺を、真に怒らせた……! 後悔させてくれるわ!」

 弥三郎が再び、狂ったように右手を掲げる。

 大気が悲鳴を上げ、渦を巻く。

 今度は再び、秀兵衛を押し潰し、その場に縫い付けるような「殺意の向かい風」となって、狂乱の嵐が吹き荒れた。

 距離を取った風の弥三郎は、もはや焦燥を消し去り、残酷なほど冷静に刀を構え直した。

 そして、その場で縦に一振り。

 刹那、刃の軌跡に沿うように狂おしいほど風が凝縮される。次の瞬間――縦に長く、横に鋭い真空の衝撃波が生まれ、一直線に秀兵衛へと襲いかかった。

「なに……!?」

 秀兵衛は咄嗟に横へ身を投げ、これを紙一重で躱す。

 衝撃波は直線的だ。避けること自体は不可能ではない。だが、その圧力は凄まじく、前進を拒む一陣の壁となって秀兵衛の行く手を阻む。

 間髪入れず、弥三郎は今度は刀を横に薙いだ。

 今度は、縦に短く、横に極めて長い「風の刃」。

(横には逃げられん――!)

 秀兵衛は全筋力をバネにして跳躍した。直後、風の刃が足元を薙ぎ払い、堅牢な堤防の地面を無残に抉り飛ばす。

 着地と同時に、前へ。

 一歩、また一歩。地を深く踏み締め、逆風に顔を歪ませながらも歯を食いしばって進む。

 しかし、そのたびに風の弥三郎は冷笑を浮かべて一歩後退し、絶望的な距離を維持する。そして再び、指先で弄ぶように衝撃波を放った。

 縦。横。縦。横。

 連続する風の斬撃が、死の結界となって秀兵衛の前進を阻み続ける。

(このままでは……届く前に、こちらが尽きる)

 焦りが焼けた鉄のように胸を締めつける。妖の無限の体力に対し、秀兵衛の命の灯火は確実に削り取られていた。

 秀兵衛は一瞬だけ目を閉じ、極限状態で思考を研ぎ澄ます。

(最大限――一気に、距離を詰める!)

 対策を即座に脳内で組み上げる。

 まず、上体を深く沈め、極限の前傾姿勢を保つ。風を受ける面積を削り落とすためだ。次に、歩幅を殺し、回転数を極限まで上げる。接地時間を伸ばし、風に浮かされないように。最後に、不規則なジグザグの軌道。真正面から風の圧力を受けないために。

 この全てを同時にこなしながら、衝撃波を躱し続ける。

 常人なら一歩目で心折れる所行。だが、秀兵衛は止まらなかった。

 全身の細胞が悲鳴を上げる。脚は焼けた鉛のように重い。肺は内側から破れそうだ。

 それでも。

 それでも、執念が彼を突き動かす。

 徐々に、確実に、間合いが詰まっていく。

 余裕の笑みを浮かべていた風の弥三郎の表情が、わずかに、だが明白に歪んだ。

「しぶとい奴め……!」

 最後の力を振り絞り、秀兵衛は地を蹴った。踏み込み、跳躍。

 決死の――流転の舞。

 しかし。

 体力の尽きかけた剣は、いつもの鋭いしなやかさを欠いていた。

「どうした?」

 風の弥三郎が醜く口角を上げる。

「ここまで来るのに力尽きたか。滑稽だな。なら――これで終いにしてやろう。死ね、秀兵衛!」

 突き。

 さらに突き。

 暴風に乗せた連続突き。

 雨のように降り注ぐ、逃れられぬ鋭撃。

 さすがの秀兵衛も、限界を迎えた身体では全てを防ぎきれない。

 刃が肩を穿ち、脇腹を深く裂き、太腿を無残に貫く。

「ぐっ……ぁぁ……!」

 鮮血が夜の闇に飛び散り、秀兵衛の身体が大きくのけ反る。

 だが、秀兵衛は倒れない。

 膝を突くことさえ拒絶し、血を吐きながらも弥三郎を、――いや、その背後を見据え、不敵な笑みを浮かべた。

「なんだ……? 死を前にしておかしくなったか」

 弥三郎は嘲笑った。致命傷を負いながら笑うその姿を、敗者の強がりだと断じた。

 しかし。

「……フッ……ククッ……」

 秀兵衛は、仮面の奥で低く、深く笑った。

「だから……言っただろう。お前には……逃れられぬ“クセ”がある」

 秀兵衛の瞳が、獲物を捕らえた獣のように鋭く光る。

「目の前の獲物に囚われ……視界が、極端に狭まるクセがな!」

 直後。

 風の弥三郎の背中に、魂を凍りつかせるような激痛が走った。

「グハッ……!? なに……!?」

 凄まじい衝撃とともに身体が前へ大きく揺らぐ。

 弥三郎は信じられぬといった様子で、ゆっくりと己の胸元に視線を落とした。

 そこには。

 自らの胸の中央から――背後から貫かれた「銀の刃」が、月明かりを浴びて冷たく突き出ていた。

 風の弥三郎の背後には、狐の仮面を着けたスミレが、冷徹なまでの静寂を纏って立っていた。

 胸を貫いた小刀を、彼女は一切の迷いなく引き抜く。

 肉を裂く鈍い音と共に、傷口からどす黒い妖気が激しく噴き出し、風の弥三郎の巨躯が、大木が倒れる前触れのように大きく揺らいだ。

「……お前には、まだ見せていなかったな」

 秀兵衛が、血の混じった息を吐きながら静かに言った。その声には、窮地を脱した安堵ではなく、確かな誇りが宿っていた。

「スミレが、どれほど戦えるのかを。……彼女は俺の単なる守られ役じゃない。ウチの……必殺の刃だ」

 満身創痍の秀兵衛と、返り血を浴びたスミレ。

 二人の射抜くような鋭い視線が、逃れられぬ死の宣告となって、立ち尽くす妖を真っ直ぐに貫いた。

 風の弥三郎は、もはや言葉にならない呪詛を漏らしながら歯を剥き出しにし、血とも妖気ともつかぬ泥濘を吐き出した。

「……おのれ……てめぇら……人間風情がぁッ!!」

 狂乱の叫び。だが、もう遅い。

 秀兵衛は、震える脚を執念で固定し、ゆっくりと刀を正眼に構えた。もはやその動作には一毫の迷いも、余計な力みもなかった。

 そして、月を背負い、天高く刃を振りかぶる。

「――介錯いたす」

 月光の清冽さをそのまま宿した刃が、夜の闇を裂いて振り下ろされた。

 銀の軌跡が、狂乱に歪んだ妖の胴を、抵抗さえ許さず鮮やかに両断した。

「クソがあああああぁぁぁ!!」

 天地を揺るがすような断末魔の叫びと共に、風の弥三郎の身体は内側から崩壊し、裂けた断面から荒れ狂う風となって四散していく。

 やがてその残滓は完全に意思を失い、夜空へと溶け込むようにして消滅した。

 後に残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂。

 あの時、情に絆されて振り下ろせなかった刀。

 秀兵衛は重い沈黙の中で、それをゆっくりと、確かな手応えと共に柄へと収めた。

 深く、長く、溜まっていた熱を吐き出す。

 胸の奥底に澱のように溜まっていた後悔が、ようやく夜風に吹かれて抜けていくようだった。

 一転して静まり返った堤防の上を、一陣の穏やかな風が通り抜けていく。

「……終わりましたね。お疲れ様でした、秀兵衛さん」

 スミレは仮面を外し、いつもの柔らかな、慈愛に満ちた表情を見せた。

 彼女は駆け寄ると、懐から清潔な布を取り出し、秀兵衛の傷口から滲み出た血を甲斐甲斐しく拭い始める。

 秀兵衛もまた、血の匂いのこびりついた仮面を外した。

 ふと、荒らされた地面へ視線を落とす。

 そこには、雲間から差し込む青白い月光に照らされた「証」があった。

 血に濡れ、泥に汚れながらも、そこにあることを主張している小さなお守り。

 秀兵衛がそれを拾い上げ、掌に乗せたその瞬間――。

 温かい風が、そっと彼の頬を撫でた。

(……秀兵衛殿……)

 どこからともなく、しかし確かな温もりを伴って、懐かしい男の声が響く。

(蛟は……その川底にいる。今はまだ、深く眠っているようです……。どうか、万全を期して……私の代わりに、奴を……必ず斬り伏せてください……)

 未練を振り切った晴れやかな願い。それだけを伝えると、風は満足げに四方へと霧散していった。

 岩淵の地に、再び夜の静寂が戻る。

「……ああ、弥三郎」

 秀兵衛の口から、祈るような小さな声が漏れた。

 お守りを握りしめる拳に、力がこもる。

「必ずだ。……必ず、やり遂げてみせる」

 その言葉を聞いたスミレは、隣で何かを察したように目を細め、静かに、しかし力強く頷いた。

 二人は並んで背を向け、ゆっくりと歩き出す。

 江戸の本拠地へと帰るその二人の背を、ささやかな、それでいてどこか優しい追い風が、いつまでも名残惜しそうに追い続けていた。


鎌鼬(かまいたち)。小妖ー原妖。

風狸(ふうり)。中妖ー原妖。

(かぜ)弥三郎(やさぶろう)。中妖ー転妖(てんよう)

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