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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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第六幕

一、泥の深淵

 夜。

 定刻を過ぎても、いつもの同心は現れなかった。

 秀兵衛は一度だけ重く目を伏せ、静かに立ち上がる。

「行きたいところがある。スミレ、ついて来い」

 短く告げると、彼女は何も聞かず、ただ無言で深く頷いた。

 念のため町奉行所へ寄ったが、詰所にいるのは欠伸を噛み殺す夜番の同心だけで、妖に関する新たな情報はなかった。

 やがて二人は、月なき闇の中を北へ進み、かつての村へと向かう。

 時刻はすでに深夜。厚い雲が月を完全に隠し、周囲は墨を流したような、粘りつく暗さに支配されていた。

 やがて――。

「……」

 秀兵衛の歩みが止まる。

 見えてきた。十五年前、地図から消えたはずの亀井村の入り口。

 その瞬間、全身の肌が粟立った。

 ただ息を吸っただけで分かる。鼻腔を抜けるのは、湿った土の匂いと、何かが腐敗したような甘い瘴気。濃密な妖気が、目に見える霧となって足元を這い回っている。

 およそ十五年。

 それだけの年月が過ぎたはずなのに、この地だけが「あの日」から一歩も進んでいなかった。

 復興は、なされていなかった。

 地面には、未だに乾ききらぬ泥の残骸が層を成し、足を踏み入れるたびに「ぬるり」と重く沈む。

 かつて人々の営みがあった住居の残骸は、半ば地に呑まれ、歪に傾き、朽ち果てた墓標のように闇の中に並んでいた。

「……ひどい……」

 スミレが震える声で小さく呟いた。

 秀兵衛は何も答えない。ただ冷徹に前を見据える。

 二人が一歩、村の境界線へ足を踏み込んだ――その瞬間。

 奥から、音がした。

 どろり、と。

 臓腑を掻き回すような不快な音が闇に響く。

 次の瞬間、前方から津波のような泥の塊が押し寄せた。

「!」

 秀兵衛は反射的に前へ躍り出て、スミレを背に庇う。

 泥の波は二人の足元でピタリと止まり、意志を持つ生き物のようにゆっくりと盛り上がり始めた。

 そして。

 不定形の泥が、急速に形を成していく。

 人の輪郭。節くれだった腕。そして、虚ろな眼。

 数人の影が、泥を滴らせながらぬらりと立ち上がる。

 その姿を見た瞬間、秀兵衛の瞳が大きく見開かれた。

 ――見覚えがあった。忘れていたはずの記憶が、熱鉄となって脳を焼く。

「……帰ってきたのか、秀兵衛」

 低く、耳朶に残っていた懐かしい声。

「もう、苦しまなくていい」

 優しく、すべてを包み込むような女の声が重なる。

「その忌まわしい記憶を、すべてこの温かな泥の中に捨ててしまえ……。そうすれば、私たちはまた一つになれる……」

 父。母。そして、幼かった妹。

 そこにあるのは、間違いなくあの日失った、かつての家族の姿だった。

 しかし。

 秀兵衛の表情は動かなかった。むしろ、沸き立つ殺意とは裏腹に、その心臓は氷のように冷え切っていく。

「……なぜ、俺だと分かった?」

 地の底を這うような低い声で問う。

 今の自分は髪の色も変わり、仮面でその貌も隠している。半ば妖と化したこの醜悪な気配を、かつての肉親が察せられるはずがない。

 返答はない。ただ、泥でできた顔が慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 その偽りの聖母のような微笑を見た瞬間、憤怒が秀兵衛の胸を焼き焦がした。

「偽物が……俺の家族を語るな!」

 次の瞬間。

 爆ぜるように地を蹴った。

 疾風の如き一閃。流転の型を繰り出すまでもない。

 三つの影を、一息に斬り裂いた。

 斬り跡から噴き出したのは、温かな血ではなく――冷たく、どす黒い泥。

 ぼとり、ぼとりと、無慈悲な音を立てて崩れ落ちる。

 やはり、傀儡。それも、死者の未練を弄ぶ最悪の呪い。

「……」

 秀兵衛は静かに刀を振って、刃に絡みついた泥を払う。

 そのとき。

 横から、掠れた小さな声が聞こえた。

「……お姉、ちゃん……?」

 反射的に振り向く。

 スミレが、恐怖に顔を強張らせ、よろよろと後退していた。

 彼女の前にも、一体の泥の傀儡が立っている。

 それは若い女の姿だった。頬が痩け、どこか儚げな、しかし芯の強そうな優しい目。

 泥の女は、ゆっくりとスミレへ手を伸ばす。

「……スミレ……。もう、大丈夫よ……」

 その声は、湿り気を帯びながらも、確かに愛する者を呼ぶ人間の響きを孕んでいた。

 スミレの足が止まる。

 その全身が、崩れそうなほどに激しく震えている。

 泥の指先が、彼女の頬に触れようとした、その瞬間。

 背後から、銀色の閃光が走った。

 傀儡は一切の抵抗もできず真っ二つに裂け、音もなくドロリと崩れ落ちた。

 返り血ならぬ、返り泥を浴びた秀兵衛がそこに立っている。

 彼は静かに刀を収めながら、言い放った。

「大丈夫か、スミレ」

 秀兵衛は呆然とする彼女の前に立ちはだかり、背中で守るように低く続けた。

「惑わされるな。それは本物ではない。……死者の痛みを食う、泥でできた偽物だ」

 そして。

 そっと、彼女の震える手を力強く握った。

 ここにあるのが、泥ではなく「生きている者の体温」であることを確かめるように。

 掌から伝わるその確かな熱に、スミレの激しい震えが、わずかに収まった。

 だが、村の深淵からは、さらなる「どろり」という音が幾重にも重なって響き始めていた。


 二人が歩を進めるごとに、村を覆い尽くしていた泥が、ゆらりと波打ち始めた。

 まるで巨大な肺臓が呼吸を繰り返しているかのように、地面そのものが不気味に脈動している。

 そのとき――。

 どこからともなく、湿り気を帯びた低い声が響いた。

「……人間……いや、中途半端な妖か。同胞の匂いがするな」

 秀兵衛の足が止まる。

 刀の柄にかけた手に指先が沈み、精神を極限まで研ぎ澄ます。

 視覚に頼れば惑わされる。空間の流れ、気配の歪み、泥が粘つくわずかな摩擦音――そのすべてを「色」として捉えようとする。

「……ッ、何者だ」

 声は、四方八方の足元から、地響きのように響いていた。

 ぬるり、と。

 前方の泥が山のように盛り上がる。

泥傀儡どろくぐつ……そう呼んでくれ」

 泥の塊から削り出されるように現れたのは、岩のように逞しい、巨躯の男だった。

 あの日。村が滅びた十五年前の夜、泥濘の中で最後に見た、あの絶望の影。

 秀兵衛の瞳が、仮面の奥で鋭く細められる。

「お前は……! やはりあの時の……貴様が全てを仕組んだのか!」

 次の瞬間、溜め込んだ怒りを爆発させるように地を蹴った。

 思考より先に、逆巻く感情が身体を突き動かす。刃が月なき闇に一筋の銀閃を描いた。

 しかし。

 泥傀儡は、慈悲深い神にでもなったかのように、溜息混じりに囁く。

「無理に争う必要のないものを……。思い出せば、また失う。ならば最初から持たぬ方が、お前にとっても幸福だろう?」

 男の身体は、斬撃が届く直前に溶けるように崩れ、再び泥の海へと潜った。

「まあ、よい。その怒りや悲しみさえも、忘却の彼方へと消し去ってくれる」

 直後、地面が爆ぜた。

 噴き上がった泥が、まるで胎児が成長するように幾つもの塊を形成していく。

 蠢き、伸び、骨格を形作り、肉を模し、かつての装束を纏う。

 造形は驚くべき速さで整えられ、やがてその「顔」が完成した。

 秀兵衛は、思わず息を呑んだ。

「な……っ……」

 源次郎。アヤメ。かつて背中を預け合った妖斬りの仲間たち。

 さらには、数日前に自ら引導を渡した、あの薬師の男までも。

 細部は泥ゆえに崩れ、声も空洞を通したように歪んでいる。だがその構え、その気配は、紛れもなく彼ら自身の写し身だった。

「……ッ!」

 泥に触れた者の記憶を強制的に引き出し、形を模しているのか。

 戦慄が走った瞬間、傀儡たちは一斉に地を蹴った。

 凄まじい斬撃の応酬。

 秀兵衛は包囲された。本物よりはわずかに重く、鈍い。だが死を恐れぬ物量が、波状攻撃となって襲いかかる。

 秀兵衛は流転の型でその威力を外へと逃がし、回転の勢いを乗せて斬り払う。飛び散る泥が視界を曇らせ、一歩動くごとに足元が泥濘に取られる。

 しかし――死者たちの執念は、容易には崩れない。

 そのとき、一体の傀儡が、秀兵衛への追撃を捨てて横へ抜けた。

 狙いは、後方に控えていたスミレ。

「危ない――っ、スミレ!」

 秀兵衛が叫び、無理な体勢から踏み出そうとする。

 だが、囲みの圧力がそれを阻み、一瞬の、決定的な遅れが生じる。

 泥の剣が、無防備な少女の頭上に振り下ろされた。

 刹那――閃光。

 小さな、しかし鋭利な光が夜を裂いた。

 どろり、と。

 傀儡は脳天から股下までを真っ二つに裂かれ、崩れ落ちた。

 秀兵衛の視界に映ったのは、いつもの震える少女ではなかった。

 懐から抜いた小刀を逆手に構え、冷徹なまでの静止を見せるスミレの姿。

 乱れぬ呼吸。

 迷いのない、氷のような眼差し。

「……私も戦えます。いえ、戦わせてください!」

 決意を宿したその凛とした声に、秀兵衛は一瞬、思考を白く染めた。

 教えてからまだ日は浅いはずだ。だというのに、今の抜き放ちは――。

 ある種の「異常」とも呼べる才気への疑念が、脳裏をよぎる。

 だが、今はそれを問い質す時ではない。

 地を蹴る。

 流転の型から一転、直線的な踏み込みで泥の壁を強引に突き破り、彼女のもとへ辿り着く。

 そして、流れるように彼女の背後へと滑り込んだ。

 二人は、互いの死角を埋めるように背中合わせになった。

 泥の傀儡たちが、獲物を囲い込むように無言で円を描き直す。

 闇の中、雨上がりの湿った空気が、鉛のように重く沈む。

 その中心で、秀兵衛は刀を構え直し、低く言った。

「……離れるなよ。一歩でもだ」

 スミレは、かつてないほど力強い声で答えた。

「はい!」

 次の瞬間、泥の海が再び逆巻き、死者たちの狂宴が再開された。


 二人は、右からも左からも絶え間なく押し寄せる剣戟を凌ぎ続ける。

 鋼がぶつかる甲高い音が夜の闇に響き、足元の泥がその振動に共鳴して波打つ。

 アヤメの傀儡は、あの忌まわしい炎を吐いてこない。疫鬼に取り憑かれた薬師の男も、死の触手を生やすことはなかった。どうやら、妖としての異能までは再現できないらしい。

だが、それでもなお脅威であることに変わりはなかった。

 「個」としての異能を欠いても、それを補って余りある「数」の暴力。それだけで、戦局を不利にするには十分すぎる要因だった。

 しかし——二人は崩れない。

 背後を完全に預けられる者がいる。それだけで、戦いの重みは一人だった頃とはまるで違った。

「くっ……受けるだけなら容易いが、攻める機会が……!」

 吐き捨てるように言いながら、秀兵衛は次々と迫る刃を捌いていく。彼の正面から、源次郎、アヤメ、薬師の男の傀儡が同時に斬りかかってきた。

 鋭い三連撃。だが秀兵衛の心は、凪いだ水面のように静かだった。

 受け流し、逸らし、踏み込みをずらす。

その回避行動の最中、彼の意識は戦いの先にある「理」を読み解いていた。

 ——観察。

(……剣筋は、驚くほど本人と同じか)

アヤメの鋭すぎる逆袈裟。源次郎の重く直線的な一刀。

 その連携を注視した瞬間、秀兵衛の脳裏にひとつの答えが浮かぶ。

(……隣の味方を、斬らないように振っているのか)

 横薙ぎに大きく振れば、密集した味方を巻き込む危険がある。多数で連携する戦いにおいて、それは致命的な制約だ。彼らはあえて、攻撃の軌道を「縦」に絞っている。

ならば——。

 秀兵衛は一歩退き、包囲の中心をわずかにずらした。

 横の選択肢を消せばいい。縦のみの攻撃に限定できれば、読み合いは単純化する。

思考に生まれたわずかな余白で、彼はさらに深く「個」を観察する。

 泥の傀儡は、複製元の動作を忠実に再現している。剣の型も、その癖も例外ではない。

かつてアヤメは言った。「その型では、私の速度にはついてこれない」と。

 だが今の秀兵衛は違う。流転の型——流れる水の如き速さと、変幻自在の理を備えた剣。

アヤメとの死闘で完成させた、その技。

そして、それは同時に——重厚ゆえに直線的すぎる源次郎の弱点を突く、最適の型でもあった。

 判断した瞬間、秀兵衛の視界から雑音が消える。

 標的はただ一つ。源次郎の傀儡。

 迫るアヤメの逆袈裟を、刃の腹で滑らせるようにいなす。続けざまに頭上から振り下ろされる、源次郎の一太刀。

 泥の巨躯が繰り出すその撃は、確かに重い。鋭い。

 だが——今の秀兵衛の眼には、あまりに遅い。

 秀兵衛はその必殺の軌道の外へ半歩退き、空いた空間へ爆ぜるように踏み込む。

流転の型。相手の重圧を利用し、その勢いのまま重力の楔をすり抜けて懐へ。

 距離が、消えた。

「源次郎さん……」

 仮面の奥で、静かに呟く。

「俺はもう、貴方を超えましたよ」

一瞬の閃光。

 夜の帳を切り裂くような、鋭利な一閃が走った。

 源次郎の傀儡は抵抗する間もなく、その胴を深々と断たれた。

 泥の身体が支えを失って崩れ、重い音を立てて湿った地へと落ちる。そのまま人の形を保てず、怨念の煤を吐きながらどろりと黒い液体に溶けていった。

 静寂が、ほんのわずか、戦場を支配する。

秀兵衛は血の付かぬ刃を構え直し、残る傀儡たちを冷徹に睨み据えた。

——攻略法は、完全に視えた。

 隣で小刀を構えるスミレが、その背中の気迫に息を呑む。

 秀兵衛の剣は、もはや防戦のための盾ではない。泥の深淵を引き裂くための、鋭い牙へと変わっていた。

 一体を落としたことで、戦況の天秤は確実に秀兵衛たちへと傾き始める。

 秀兵衛はすぐさま肺の奥まで空気を送り込み、次なる標的へと鋭い視線を射抜く。

 アヤメの傀儡。

 既に幾度となく刃を交え、その死を看取った相手だ。

 彼女の踏み込みの深さも、太刀筋の癖も、そして唯一の綻びも、秀兵衛の身体は克明に記憶している。

 ——一歩目は必ず、最短距離の逆袈裟。

 それは、彼女が「淵」での過酷な日々の中で磨き上げた、生存のための剣だった。

 だが、今目の前にいるのは、泥に形を借りた記憶の残滓。

 動きには生身のしなやかさが欠け、あの業火を伴う火球もない。

(ならば、恐れる理由はどこにもない)

 ただ一つ、背後に控える薬師の男との挟撃だけに意識の糸を張っておけばいい。

 薬師が、腐臭のような泥を滴らせて間合いを詰める。

 縦に鋭く振り下ろされる刃を、秀兵衛はあえて真正面から受け止めた。

ガン、と骨に響く重い衝撃。

 その一瞬の硬直を狙い、予測通りアヤメの逆袈裟が死角から迫る。

 だが、秀兵衛の心は既にそこにあった。

 秀兵衛は刃を滑らせ、柳のように身体を流す。

 アヤメの逆袈裟を最小限の動きでいなし、その刃が空を切る刹那、泥の懐へと深く踏み込んだ。

 流れは、決して止めない。

 一閃。

 アヤメの傀儡は胸元から斜めに深く斬り裂かれ、その端正な輪郭を保てなくなった。

 崩落。泥となって地へと溶け、もはや人の形へ戻ることはなかった。

 残るは、薬師の男ただ一体。

 ——そう確信しかけたが、秀兵衛の意識は既にその先、背後の「音」を捉えていた。

 後方。スミレ。

 彼女はまだ数体の無名の傀儡に包囲され、防戦一方の極限状態にあった。

 鋭い剣戟を受けるだけで精一杯なのだろう。その足取りにはわずかな乱れが生じ、泥に足を取られかけている。

 秀兵衛は薬師の再度の打ち込みを剛剣で受け止めると、全身のバネを使い、獣のような咆哮と共に刃を弾き返した。

 激しい火花。薬師の身体が大きく後方へと弾き飛ばされ、泥の波を割る。

 距離が開いた。

 ——今だ。

 秀兵衛は迷わず踵を返し、疾風の如く戦場を駆けた。

 視覚の外から一気に包囲の間合いへ割り込み、スミレを追い詰めていた傀儡たちを、電光石火の速さで次々と斬り伏せていく。

 刃が閃くたび、闇に泥が飛び散る。

「秀兵衛さん!」

 スミレの叫びと同時に、彼女を脅かしていた最後の影が泥濘へと沈んだ。

 これで残るは、吹き飛ばされた薬師の男のみ。

 状況は二対一。戦術的な優位は揺るぎないものとなった。

 二人は肩を並べて立ち、静かに、そして鋭く、ただ一体残った敵を見据える。

 そのとき、秀兵衛はわずかに身を寄せ、スミレの耳元で低く、しかし確信に満ちた声で何かを囁いた。

 彼女は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに戦士の表情へと戻り、力強く頷く。

「……分かりました」

 そこにはもはや、守られるだけの少女の面影はない。

 秀兵衛は小さく息を吐き、刀を低く構え直した。

「では——行くぞ」

 次の瞬間、二人は示し合わせたかのように同時に駆け出した。

 秀兵衛は正面から、猛然と薬師へ斬りかかる。

 流転の型を繰り出し、重厚かつ絶え間ない連撃。薬師はこれを受け止めることにすべての意識を削られ、完全に「受け」へと回らざるを得ない。

 その猛攻の隙を突き、スミレは蝶のように軽やかに敵の側面をすり抜けた。

 薬師ではなく、その後方。死角へと。

 挟撃の形が、闇の中で完成する。

 秀兵衛は一切の手を緩めない。

 一瞬の反撃も許さぬよう、刃と刃がぶつかる高音を夜の村に響かせ続ける。

 一方で、スミレはすぐには仕掛けなかった。

 秀兵衛の、あの言葉を反芻していた。

 ——挟撃を受ける者は、一方だけに集中し続けることはできない。

 ——後ろの気配に意識を割けば、必ず攻めは緩む。

 ——奴は簡単には崩れない。だから、お前が最後を仕留めてこい。

 スミレは深く、深く息を吸い込み、視覚を超えた「妖の核」を凝視する。

そして、一気に踏み込んだ。

 薬師がその背後の殺気に気づき、首を捻って振り向こうとする。

 だが、そこでもう一つの助言が彼女を導いた。

 ——そのまま行けば返される。だから、敵の右へ回ると見せかけて、左前方に跳べ。

スミレは迷わず地を蹴った。

 薬師は右利き。咄嗟の反撃は、必ず右側からの薙ぎ払いになる。

 果たして、薬師は強引に身体を右へと回転させた。

 だが、そこに彼女の姿はない。

 彼女は既に、がら空きとなった左側面の至近距離に肉薄していた。

 一瞬の静寂。

 鋭い一閃。

 スミレの手にする小刀が、薬師の喉元を横一文字に掻き切った。

 首が泥となって地に落ち、身体もまた支えを失った柱のように崩れ去る。

 全てが、静かな泥の海へと還っていった。

 完全な静寂が、荒れ果てた村に戻る。

 スミレは肩で息を切りながら、秀兵衛の方を振り返った。

「……やりました! 私、やれました……!」

 その声には、恐怖を乗り越えた者だけが持てる、抑えきれない喜びが滲んでいた。

 秀兵衛は刀を鞘に収め、小さく、しかし重みを持って頷いた。

「よくやった。……見事だ」

 短い言葉だったが、その声音には確かな称賛と、一人の「相棒」としての信頼が込められていた。


「忌まわしい……。なぜ、そこまで抗う……」

 泥の底から、再びあの重く湿った声が響いた。

 地面が、生き物の腹のように大きく波打ち始める。

 次の瞬間、四方の泥が一箇所に集まり、恐るべき質量を伴って隆起した。

 巨岩のような体躯。

 人の形を模してはいるが、その表面は絶えずどろどろと溶け落ち、執念を形にしたような歪な威圧感を放っている。

「元よりオレは救済者……。忘れさせることで、その魂を永劫の苦痛から解放してやっているのだぞ……」

 その言葉と同時に、地面を覆う泥が逆巻いた。

 怒りに呼応するかのように、それは巨大な牙となって二人へと襲いかかる。

「危ない——!」

 秀兵衛は反射的にスミレの腰を抱き寄せ、爆ぜるように跳躍した。

 近くにあった倒壊した家屋の屋根へと飛び移る。

 直後、二人が立っていた場所を泥の濁流が完全に飲み込んだ。

 凄まじい轟音。泥は砕けた木材すらも容易く圧し折り、重く渦を巻く。

 間一髪。

 腕の中でスミレの身体が震えているのを感じながら、秀兵衛は前方の怪物を鋭く睨み据えた。

「それが不要だと言っている。第一——お前たち妖は、なぜそこまで執拗に人を襲う」

 秀兵衛の問いかけに、泥傀儡はゆっくりと、泥の裂け目のような口元を歪めた。

 嘲るような、あるいは憐れむような笑み。

「なぜか? 決まっているだろう」

 泥が同心円状に波紋を広げる。

「それは、お前たち人間こそが、オレら妖の発生原因だからだ」

 秀兵衛の表情が、仮面の下で固まった。

「なに——?」

 思考が追いつかない。

 かつて源次郎たちに妖の正体を尋ねた時、返ってきたのは曖昧な言葉ばかりだった。神仏の罰、付喪神、あるいは死者の未練。だが、泥傀儡が口にしたのは、より直接的で悍ましい「繋がり」だった。

「苦痛を伴って死んだ怨霊が、その恨みを晴らすために寄る辺を求めた姿……。オレたち妖の根底には、お前たちが積み上げた不条理な怨念が流れているんだよ」

 泥傀儡は、ゆっくりと秀兵衛の目を見据える。

「……お前も同じ。妖の淵に立ち、その力を喰らっている者。魂で理解しているはずだぞ?」

 秀兵衛は奥歯が砕けるほど噛み締めた。

 胸の奥に、言いようのない不快感と、それを凌駕する激しい怒りが噴き上がる。

「……だが、それでもやりすぎだ。己の恨みを晴らすために、無関係の者まで道連れに……」

 しかし、その言葉は最後まで続かなかった。

 泥傀儡が、冷酷な響きで遮る。

「上に立つ司法が真っ当に機能していないのが悪いんだろ?」

 声音が、地鳴りのように重く響く。

「死には死を。皆、自分一人の死は、他の十人の死に値すると考えている。その公平な裁定を下すのは、力ある者の特権だ」

 言い終えると同時に、泥が爆発的な勢いで隆起した。

 地面から巨大な「腕」が生成され、岩塊のような拳が唸りを上げて秀兵衛へと掴みかかる。

「……ッ!」

 秀兵衛はスミレを伴って、咄嗟に屋根から飛び降りた。

 足が地に触れた瞬間、背後で家屋の残骸が粉々に粉砕される衝撃音が響く。

 だが、着地と同時に異変が起きた。

 足元の泥が、蛇のように粘りついて脚を捕らえた。まるで意思を持つ捕縛具のように、彼の動きを封じようとじわりと沈み込ませる。

 自由を奪われる感覚。

 その不快さが、秀兵衛の胸の中で眠っていた「獣」を叩き起こした。

 スミレを後方へと逃し、再び泥傀儡の方を見据える。

「だったら——」

 彼は咆哮した。

「俺が、貴様を成仏させてやる!」

 脚を強引に引き抜き、泥を派手に跳ね散らす。

 一直線に、秀兵衛は泥傀儡の胸元へと刃を振り上げた。


二、救済

 泥が唸りを上げた。

 地面が裂けるように盛り上がり、次々と巨大な腕や足が形成されていく。それらは粘りつくような重々しい軋みを伴いながら、獲物である秀兵衛へと振り下ろされた。

 轟音。

 地面が砕け、土煙と共に泥が周囲へ激しく飛び散る。

「……ッ!」

 秀兵衛は紙一重で跳び退き、さらに横へ転がって衝撃を逃がした。次の瞬間、先ほどまで彼が立っていた場所を、家屋の柱ほどもある泥の脚が無慈悲に踏み潰す。

 重さと速さの両立。物理の理を超えたその猛威は、直撃すれば骨の一本も残さず圧し折るだろう。

 息が荒い。

 肺が、吸い込む冷気で焼けるように痛む。

 それでも彼は止まらなかった。一歩、また一歩。

 迫る泥の触手や腕を、皮膚を掠めるほどの距離で避け続けながら、確実に泥傀儡の「核」へと距離を詰めていく。

 その様子を、泥傀儡は高みから静かに見下ろしていた。

(人間とは……常に何かに囚われ、苦痛から逃れられない、不自由な生き物だ……)

 低く、心の奥底で呟く。

(だが、コイツはそれでも抗う。光も届かぬ底なしの泥の中で、なぜそこまで前を向ける……)

 その問いが、泥傀儡自身の思念を、遥か過去の深淵へと沈ませていった。

 かつて。

 とある山の麓に、名もなき小さな村があった。

 青々とした緑に囲まれ、清らかな川に恵まれた、どこにでもあるような平和な村。

 人々は慎ましく、しかし穏やかに暮らしていた。畑を耕し、収穫の祭りを楽しみ、子らの成長を愛おしく喜び合う。

 ありふれた日常。だが、そこには確かに、人としての幸福が息づいていた。

 ——あの日が来るまでは。

 その日、朝から空は不気味な鉛色に染まっていた。

 黒い雲が山肌を這い、やがて視界を塞ぐほどの豪雨が始まる。雨は止む気配を見せず、夜を迎えてもなお、地の底を叩くような激しさを増していった。

 そして。

 山が、耐えきれずに崩れた。

 轟音とともに大地が裂け、膨大な土砂が、咆哮を上げる獣の如く村へと押し寄せた。

 家々を飲み込み、丹精込めた畑を呑み込み、悲鳴を上げる人を呑み込む。

 逃げる暇など、瞬きほどもなかった。

 泥に押し潰され、呼吸を奪われ、全身の骨を無残に砕かれながら、村人たちは暗黒の恐怖と苦痛の中で、一人、また一人と息絶えていった。

 断末魔の叫び。

 底知れぬ絶望。

 天に助けを求める、掠れた声。

 それら全てが、重く冷たい泥の中に閉ざされた。

(……彼らの魂は、等しく救済を求めた)

 だが、あまりに凄惨な死に様だった。

 自分が誰だったのか。誰を愛し、誰に愛されていたのか。

 幸福だった頃の記憶を思い出すたび、もう二度とそこへは戻れないという残酷な現実が、死してもなお魂を再び引き裂いた。

 失ったものの大きさを知るたび、苦しみは泥濘の中で繰り返された。

 終わることのない、忘却への渇望。

 ——思い出したくない。

 ——愛する者が死んだという事実そのものを、消し去りたい。

 その強烈な「逃避」の願いが、いつしか泥そのものに染み込んでいった。

 怨念ではない。復讐でもない。ただ、この世から己の存在ごと「忘却」されることを望む声。

 やがてそれらは一つに溶け合い、歪な意思を持つ存在となった。

(それが……オレという名の、救済だ……)

 泥傀儡の視界に、再び現在の、血生臭い光景が戻る。

 秀兵衛が、飛来する泥の礫を避けながら、執念深く迫ってくる。

(だからこの亀井村も、耐え難い苦痛に苛まれる前に……村があったという事実ごと、歴史から消し去ってやったのだ……)

 あくまで似た境遇にあった、この村だけ。

(別に全人類を滅ぼそうなどとは考えていない……「お前のやったことは救済だ」……あの淵鵺様も、そう仰っていた……)

 その畏るべき主君の名を思い出した瞬間、泥の表面が畏怖にわずかに波打つ。

 だが次の瞬間、彼は再び冷徹な視線を目の前の敵へ向けた。

(やはり人間は愚かだ……。手放してしまえば、こんなにも楽になれるというのに……)

 泥傀儡が思索の深淵に沈んでいる間にも、秀兵衛は着実に進んでいた。

 肩を上下させ、全身に不浄な泥を浴びながら。

 足取りは鉛のように重い。呼吸は、喉を血が通うほどに荒い。

 それでも。

 その唯一の瞳に宿る眼光だけは、一瞬たりとも衰えていない。

 一歩。

 また一歩。

 秀兵衛は、運命の泥を切り裂くように、確実にその間合いを詰めていた。


 泥は、無慈悲に絶え間なく襲いかかっていた。

 巨大な腕が空を裂いて振り下ろされ、地を揺らす足が全てを踏み潰すように迫る。秀兵衛は奥歯を噛み締め、剥き出しの生存本能だけでそれらを必死に避け続けていた。

 刀で受けたところで、もはや意味を成さない。あの圧倒的な質量を止められるはずもなく、小枝のように弾かれ、そのまま押し潰されるのが関の山だ。

 足元は底知れぬぬかるみと化し、動くたびに足中あしなかが深く沈み込む。わずか一瞬の遅滞が、そのまま生と死を分かつ境界線となる極限の状況だった。

 それでも、彼は止まらない。

 泥を蹴り、転がり、跳び、泥濘の中で身を捩る。

 次第にその身体は、不浄な泥にまみれていった。頬に、腕に、胸に。

 不気味な熱を帯びた「忘却の泥」が、確実に、そして冷酷に彼の内側を侵食していく。

 一歩、前へ。

 そのたびに、彼を形作っていた何かが、指の間からこぼれ落ちる砂のように欠けていく。

 ——後ろに控える、あの茜色の影は、誰だったか。

 思考が、ぷつりと途切れる。

 ——なぜ自分は仮面を着けているのか。

 その理由も、夜の霧に巻かれるように霞んで消えていく。

 果てには。

 目の前に立ちはだかる、この悲しき怪物が誰なのかさえ、分からなくなっていた。

だが。

 一つだけ。魂の最深部に楔のように打ち込まれ、決して消えないものがあった。

 ——この男を斬れば、救済が叶う。

 何を救うのか。誰を救うのか。もはやその名も顔も思い出せない。

 だが、その確信だけが、暗い胸の奥で消えない灯火として焼き付いていた。

 意志が消えかけても、身体が、勝手に動く。

 右へ。左へ。

 限界を超え、悲鳴を上げる筋肉の訴えを黙殺し、肉体に刻まれた反射のままに回避を続ける。

 刀の振り方も、忘れてはいない。

 積み重ねた技は思い出の中にあるのではなく、血肉そのものに刻まれていた。

 息は激しく荒れ、揺れる視界は泥の色に染まっていく。

 それでも。

 ついに最後の泥の腕を紙一重でかわし、秀兵衛は泥傀儡の目前へと到達した。

 泥傀儡は、まるで獲物が罠にかかるのを待っていたかのように、慈悲すら感じさせる眼差しで静かに見下ろした。

「……ここまで、よくご苦労だったな」

 低い声が、地鳴りのように重く響く。

「これで終いだ。お前を、全ての痛みから解き放つ救済へと導こう」

 その宣告とともに、男の足元の泥が猛烈にうねり始めた。

 空間そのものが歪むような、不吉な響き。

 大量の泥が意思を持って持ち上がり、秀兵衛の視界を遮るように、横に広く、縦に長い巨大な「壁」を形成していく。

 それはもはや攻撃という概念を超えていた。視界の全てを、世界の終わりを告げる闇のように覆い尽くす質量。

「なん……だと……」

 秀兵衛は、ただ愕然とするしかなかった。

 もはや男の姿は、完全にその巨壁の向こう側へと隠れ、気配さえも消え失せている。

「眠れ」

 壁の裏側から、神の審判のような静かな声が降った。

 次の瞬間。

 巨大な泥の壁が、重力を置き去りにするほどの轟音とともに、秀兵衛の頭上へと倒れ込んできた。

「秀兵衛さんーーッ!」

 背後から、心を引き裂くような誰かの叫び声が聞こえた。

 その切実な響きに、秀兵衛は反射的に、無意識に振り向く。

 誰か。

 自分を呼んでいる、大切な、誰か。

 だが、思い出せない。名前が、顔が、茜色の温もりが、泥に溶けて出てこない。

 本能のままに跳び退こうとした。

 しかし、もはや避け切れる距離ではなかった。

 重圧。

 空気が圧し潰され、圧倒的な質量が秀兵衛の全てを蹂躙する。

 視界は瞬時に泥に閉ざされ、肺から空気が、喉から呼吸が奪われる。

 次の瞬間には、その姿は完全に黒い泥の底へと呑み込まれていた。

 抗う気配もなく。

 ただ、粘ついた泥だけが、何事もなかったかのように静かに、不気味に波打っている。


 秀兵衛の意識は、底の見えない深い闇の中へと沈んでいた。

 そこには痛みも、苦しみもなかった。ただ、全てを拒絶するような絶対的な静寂だけがあった。

 泥の中は、思っていたよりもずっと心地良い。それはまるで母の胎内にあるような、柔らかな安らぎとなって全身を包み込んでいた。

 あれほど身体を苛んでいた激痛は、いつの間にか消え失せている。荒れ狂っていた呼吸も、今は凪のように穏やかだ。自分がまだ息をしているのかさえ判然としないほど、世界は静まり返っていた。

 ――天国とは、この泥の中にこそあったのかもしれない。

 意識が甘美な忘却に染まりかけた、その時だった。

 遠く、気の遠くなるような彼方から、かすかな震えを伴った声が届いた。

「秀兵衛さーーーん!」

 少女の声だ。必死で、今にも張り裂けてしまいそうな、切実な叫び。

「貴方はまだ、やり残したことがありますよね!? 淵鵺を斬って、江戸の町を妖から守るって! そのために、ここまで来たんじゃないですか! ここで倒れたら……妖斬りの皆が浮かばれませんよ!」

 その言葉が、硬く閉ざされていた泥の深淵にまで、鋭い楔となって突き刺さる。

 淵鵺。

 妖斬り。

 泥に溶けかけていた言葉が、一つ、また一つと水面に浮かび上がる泡のように蘇ってくる。

 すると、今度はそれらを塗り潰すような、低く冷酷な男の声が響いた。

「淵鵺様を斬るだと? 分不相応も甚だしいぞ、貴様」

「きゃあっ!」

 少女の短い悲鳴。

 その瞬間、秀兵衛の脳内で弾けるように、全ての記憶が濁流となって回帰した。

 俺は――柳島秀兵衛。

 妖を斬り、影を払う。死を許されぬ「妖斬り」だ!

 胸の奥底から、凍土を割る芽のように激しい怒りが噴き上がった。同時に、勇気という名の劫火が全身を駆け巡る。

 無へと還りかけていた世界が、急速に輪郭を取り戻していく。冷たく静かだった泥の中に、生者としての凄まじい熱量が流れ込んだ。

『もっと、生きていたかった……』

 泥の中に溶け込んだ無数の死者たちの、泣き言のような、羨んでいるような声が耳を打つ。

 生者である自分に縋る、無数の想い。

 そうか。人が生きる、あるいは生きねばならぬのは、果たすべき使命が、守るべき目標があるからだ。

 それを思い出した瞬間、身体を押し潰していた膨大な泥の重みが、羽毛のように軽くなった。

 次の瞬間。

 轟音と共に、泥が爆ぜた。

 泥傀儡の背後で、天を突くほどの泥の柱が吹き上がる。

 その飛沫の中から、狐の仮面をつけた一人の男が、修羅の如き気迫を纏って現れた。

「淵鵺の配下だと言うなら、ちょうどいい。まずはお前を斬って、奴への手向けとしてやる」

 秀兵衛の視界に映ったのは、泥を纏った巨大な腕で、無抵抗なスミレを掴み上げている泥傀儡の背中だった。

 宙吊りにされたスミレは、驚きと、そして弾けるような歓喜を瞳に湛えて叫んだ。

「秀兵衛さん!」

 泥傀儡は信じられぬといった様子で振り向き、その虚ろな眼を見開いた。

「なに……!? この質量の中から、自力で……!」

 その驚愕による一瞬の硬直を、秀兵衛は見逃さない。

 地を蹴り、弾丸となって一直線に踏み込む。

「まずは――その汚ねぇ手を離せッ!」

 振り下ろされた刃が、夜の闇を黄金色に裂く閃光となって走った。

 泥傀儡は咄嗟に防ごうと、地面から幾重もの泥の腕を盾のように生やす。

 だが。

 秀兵衛の気迫を乗せた一閃は、鉄の如き泥の豪腕を紙を裂くが如く容易く断ち切った。

 どろり、と巨腕が崩れ落ちる。

「ッ、貴様ァ!」

 泥傀儡は反射的に本物の腕で身体を庇うと、その激痛により思わずスミレを放した。

 彼は自らの欠損した腕を泥で補い、守りを固めながら大きく後退して距離を取る。

 初めてだった。

 底なしの「忘却」の力が、生身の人間によって、真正面から打ち破られたのは。

 泥傀儡の粘ついた表情には、隠しようのない動揺と戦慄が浮かんでいた。

 秀兵衛は、もはや一歩も退かなかった。

 泥傀儡が焦燥に駆られて後退するたび、逃さぬと言わんばかりに間合いを詰める。その足取りは、先ほどまで泥の巨壁に押し潰され、重傷を負っていた者とは思えぬほどに確かで、力強い。

「おのれ……人間がぁッ!」

 泥傀儡は悲鳴に似た声を上げ、再び地面を激しく隆起させる。泥の中から無数の手足が蠢きながら生じ、あるものは槍のように鋭く、あるものは鞭のようにしなって秀兵衛を襲う。

 だが——。

 夜の闇を裂いて、銀の閃光が幾重にも走る。

 一振り。

 また一振り。

 秀兵衛の刃は一毫の迷いもなく、迫りくる泥の触手を次々と断ち切っていく。斬り飛ばされた泥は空中で砕け、意思を失ったただの土塊となって地に崩れ落ちた。

 泥傀儡は、その身に初めて「明確な恐怖」を覚えていた。

「なぜだ……! さっきよりも強く……!」

 その問いに、秀兵衛は即座に答えた。思考を介さず、魂の底から溢れ出した言葉を、研ぎ澄まされた刃と共に叩きつける。

「お前が操るその泥が、俺に教えてくれたんだ」

 泥を斬り払いながら、さらに前進する。

「死者は、生者を恨んでいるんじゃない」

 さらに一歩。

「目標を遂げられず、道半ばで死んだ自分自身を恨んでいるんだ!」

 喉元を狙う泥の腕を無造作に断ち切り、踏み込む。

「だから俺は——お前たち死者の無念まで背負って、使命を果たすために生き抜いてやる!」

 その叫びは、泥の中に溶け込み、出口を求めていた無数の死者たちの想いへと真っ直ぐに届けられた。

 だが、秀兵衛はただ激情に身を任せていたわけではない。

 正面から直線的に詰めれば、泥傀儡はただ逃げる。だからこそ、彼は左右へ鋭く進路を振り分け、獲物を追い込む獣のように敵の退路を断っていく。

 ある一点へと、敵を誘導する。

 最初から、この戦いは秀兵衛一人のものではなかった。

 ——スミレもまた、戦える。

 泥傀儡の意識は、完全に正面の秀兵衛へと釘付けになっていた。これほどまでに激しく、圧倒的な剣気で肉薄してくる男に、全神経を注がざるを得なかったのだ。

 秀兵衛の刃を避けようと、最大距離を取るため対角へと逃げる泥傀儡。

 その背中が、一瞬だけがら空きになる。

 その刹那を、スミレは見逃さなかった。

 呼吸を整え、瞳に宿る「色」で捉える。

 不気味に脈動する泥の奥深くに潜む、妖力の源泉——“核”。

「——そこだッ!」

 迷いのない一閃が夜を駆ける。

 小刀は吸い込まれるように、泥傀儡の背後からその核を正確に貫き、斬り裂いた。

「ぐはッ……ぁぁあああ!」

 意識の外からの、致命的な一撃。

 泥傀儡の巨躯が、がくりと膝を折る。

 その決定的な隙を、妖斬りが逃すはずもなかった。

「これで、終いだ」

 泥傀儡は咄嗟に太い両腕を交差させ、盾として防ごうとする。

 だが、秀兵衛の刃は、絶望も、忘却も、その豪腕ごとまとめて斬り伏せた。

 重く、深い、魂の一撃。

 両腕を断ち割り、そのまま胴を真っ二つに両断する。

 刃が抜け去った瞬間、斬り口から堰を切ったように膨大な妖気が噴き出した。

 黒い靄が浄化されるように空へと散り、村を覆い尽くしていた泥が、魔法が解けたかのようにみるみるうちに消えていく。

 隠されていた乾いた地面が露わになり、倒壊した家屋の骨組みが、かつての形を主張するように夜の闇に浮かび上がった。

 泥傀儡の身体もまた崩れ、地へと溶け落ちようとしていた。

 その最期の瞬間に、怪物の口角が、わずかに吊り上がる。

「へっ……なかなか、強ぇ意思じゃねぇか……」

 掠れた、しかしどこか晴れやかな声。

「お前の言葉で……少しは、救われた気がするぜ……」

 泥がさらさらと崩れていく。

「お前なら……本当に、あの淵鵺様を……斬れる、かもしれねぇな……」

 秀兵衛は咄嗟に膝を突き、消えゆく泥に手を伸ばした。

「淵鵺……! 淵鵺とはどういう奴なんだ! どこにいる!」

 泥傀儡は、崩れかけの顔で微かに笑う。

「オレの……数倍は強ぇ、恐ろしいお方さ……」

 息が途切れ途切れになり、光が失われていく。

「滅多に、地上へは出てこねぇが……。あと二体の臣下を斬れば……あるいは……道が……」

 秀兵衛は畳みかけるように問う。

「あと二体……? それはどういう意味だ! 言えッ!」

 だが。

 それ以上の返答はなかった。

 泥傀儡の身体は完全に形を失い、冷たい地面へと吸い込まれるように消滅した。

 後に残ったのは、静寂。

 吹き抜ける風の音だけが、かつて村だった場所に虚しく響いている。

 秀兵衛は、ゆっくりと立ち上がった。

 泥の消えた、しかしあまりに静かすぎる故郷を見渡し、そして晴れ始めた夜空を仰いだ。

「残り、二体の臣下——」

 泥にまみれた拳を、強く、強く握りしめる。

「それを斬れば……やっと、届く」

 ——親の仇。友の仇。そしてこの国の闇の根源、淵鵺。

 その喉元へ、ついに刃が届く距離まで来た。

 固く握られたその拳に、柔らかい温もりが重なった。スミレがそっと手を添えたのだ。

「……もうちょっとですね、秀兵衛さん」

 優しく、そして共に歩む決意に満ちた声。

「ああ。……行くぞ、スミレ」

 秀兵衛の仮面の奥、ただ一つ残された瞳には、冷徹な殺意と共に、確実に「希望」という名の光が宿っていた。



 その様子を、遠くの木立の陰から、じっと見つめる一つの影があった。

 闇に溶け込むように佇む男は、息を潜め、秀兵衛の剣捌きを食い入るように観察していた。

「……あれが、秀兵衛殿か」

 独り言のように、低く呟く声は風に紛れて消えそうだった。

 男の視線は、汗に濡れた秀兵衛の背中をゆっくりと辿った。

「泥傀儡を斃せるほどの腕前……。想定以上だな」

 わずかに唇の端が上がる。賞賛とも、計算ともつかない、冷ややかな笑み。

「彼ならば……奴も、倒せるかもしれない」

 その言葉を最後に、男はゆっくりと身を翻した。

 夜の帳が濃く降りた山道へ、音もなく足を踏み入れる。

 黒い衣の裾が、枯れ葉を軽く擦る音だけが、一瞬、周囲に響いた。

 次の瞬間には、もうその姿はどこにもなかった。

 ただ、冷たい夜風が木々の間を抜け、かすかなざわめきを残すばかり。

 闇は、再び静寂を取り戻した。

 だがその静けさの中には、誰かが――何かが、動き始めた予感が、確かに漂っていた。


泥傀儡(どろくぐつ)。大妖ー原妖。土砂崩れに巻き込まれた村人の苦痛からの逃避願望が泥に染み込んで、一つの意思となったもの。彼の操る泥には記憶を溶解する力がある。嫌な記憶を消してやることを救済と考え、それ故に彼自身の考えとしては、誰かを責めるよりも、自分自身で解決することを是としている。

 ※大妖(だいよう):中妖よりも強力な妖。人語を喋れる。原妖(げんよう):自然発生した妖。

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