第九幕半
一、処刑場にて
辺りはすっかり、朝の陽光に包まれていた。
今朝の死闘が嘘のように、穏やかな光が瓦礫を照らしている。妖が現れる気配は、もはや微塵もない。
「……『臣下を全て斃せば淵鵺は出てくる』と泥傀儡は言っていたが、そんな様子はないな」
秀兵衛は刀の鯉口を切り、周囲の気配を慎重に探りながら眉を寄せた。
「同心の旦那への報告のついでに、辺りを見回ってみよう」
スミレも短く頷き、二人は散策を開始した。だが――。
町中を探れど、莫大な妖気が溢れている様子もなければ、不審な影も見当たらない。
姿も不明、能力も不明。
淵鵺という存在は、勝利の余韻をかき消すかのように、依然として完全な闇の中にあった。
(見えぬ敵ほど、厄介なものはない……。奴は何を待っている?)
秀兵衛の胸に、言い知れぬ不快感が澱のように溜まっていく。
その夜。
二人は町奉行所へ赴き、同心へ事の次第を報告した後、早々に本拠地へと戻っていた。牛鬼との戦いで受けた傷が、まだ深く癒えていなかったからだ。
縁側に腰掛け、夜風に当たる秀兵衛。月明かりの下、ようやく静けさを取り戻した江戸の町が広がっている。
その時――。
一陣の突風が不自然に吹き抜け、彼の髪を激しく揺らした。同時に、夜空に散らばっていた星々の輝きが、墨を流したように消えていく。
否。分厚い、あまりに分厚い雲が、突如として江戸の空を覆い尽くしたのだ。
(……嫌な気配だ。空気が淀んでいる…)
胸騒ぎが走る。
直後。
ドォォォォォンッ!
地を揺らす激しい衝撃。凄まじい轟音が、江戸の八百八町全体を震わせた。
「……!」
秀兵衛は弾かれたように立ち上がる。
それを合図にするかのように、視界の端と端、天高く聳え立つ二本の赤黒い光の柱が出現した。不気味な脈動を繰り返す光が、夜の江戸を血の色に染め上げる。
「なんだ、あれは……」
絶句。隣に立つスミレも言葉を失っている。
正体は不明。だが――それが人智を超えた、禍々しき異物であることだけは明白だった。
「淵鵺が出たのかもしれません。秀兵衛さん、まずは近くの柱まで行ってみましょう」
スミレの声は、恐怖を押し殺したように冷静だった。
「……ああ、そうだな。ここに居ても何も始まらぬ」
二人は仮面を手に取り、刀を携え、再び夜の町へと駆け出した。
不思議なことに、町人たちは騒いでいない。窓を開けて空を仰ぐ者も、悲鳴を上げる者もいない。どうやら、あの巨大な光の柱は、彼らの目には映っていないらしい。
(やはり、妖の結界か。俺たちを招いているのか……?)
二本の柱のうち、比較的近い北の方角へ向かう。
やがて辿り着いたのは――。
肌を刺すような冷気が漂う、鬱屈とした場所。
小塚原刑場。
日々、幾多の罪人が命を落とし、埋められ続ける処刑場だ。地面には乾いた血痕が黒ずんで残り、鼻を突く腐臭が一面に漂っている。一本の禍々しい灯籠の真下から巨大な光の柱が湧き出ていた。広々とした場内には、盛り土が不気味に並び――
その上に、無数の「影」が蠢いていた。
人の形をしている。だが、生気はない。
白目を剥き、首を奇妙な角度に傾げながら、土の下から這い出してきたモノたち。
「『死人憑き(しびとつき)』だ!」
秀兵衛の叫びが、死の静寂を切り裂いた。
死人憑きの群れは、飢えた獣のように瞬く間に二人を取り囲む。
呻き声とも風鳴りともつかぬ、この世ならざる音が処刑場の冷えた空気を震わせる。秀兵衛とスミレは、阿吽の呼吸で背中合わせに立った。
同時に、銀光が闇を裂く。
「「はっ!」」
二つの「流転の型」が処刑場の中央で交錯した。円を描くように放たれる斬撃は、水面に広がる波紋の如く鋭く、前方の死人憑きを易々と斬り裂いていく。一つ、また一つと、腐った肉塊が土の上に転がった。
だが――。
「……数が減らぬ。どうなっている」
いくら斬り伏せても、背後から這い出してくる群れは一向に途切れる気配がない。
(確かに、「核」の場所を正確に断っているはず……)
秀兵衛は流転の型の一閃で生まれた僅かな空間へ踏み込み、着地した。生まれた刹那の静寂の中で、彼は自身の足元に視線を落とす。
そこには、今しがた斬り伏せたはずの死人憑きの残骸が横たわっていた。通常、核を断たれた妖は存在を維持できなくなり、黒い泥のように地へと溶けて霧散する。それは死人憑きとて例外ではない。以前に斬った時は、確かにそうだったのだ。
しかし――。
目の前のそれは、消えない。
倒れたまま、沈黙を保っている。そして。
数拍ののち、何事もなかったかのようにゆらりと、糸を引く人形ででもあるかのように起き上がった。
「……これは……」
秀兵衛が眉を顰めたその時、背後からスミレの切迫した声が響いた。
「秀兵衛さん! この死人憑きたち、核が二つあります! 左右の胸に、それぞれ光が……!」
仮面の奥で目を見開いたまま、彼女は叫ぶ。
(なるほど……そういうことか)
秀兵衛の中で、全て合点がいった。淵鵺の、強大すぎる妖力の影響。核を二つ持たせることで、一つを失っても残る一つで瞬時に再生するよう造り替えられているのだ。
秀兵衛は再び迫る群れを斬り払いながら、即座に太刀筋を変化させた。
核の場所を見極め、一呼吸の間に二つを同時に断つ。からくりさえ分かれば、あとは修練の差だ。
「スミレ、二つ同時にだ!」
「はい!」
二人の呼吸が完全に重なる。
右の胸を断ち斬り、返す刀で左の胸を斬り裂く。重なった核を正確に捉える流転の斬撃が、死人憑きたちの「命」を次々と刈り取っていく。
今度こそ、骸は起き上がることなく崩れ落ち、地へと溶けて消えていった。無限に思えた群れも、核を根絶やしにされることで次第にその数を減らしていく。
やがて。
最後の一体をスミレが鋭い突きで斬り伏せた。
再び処刑場に、重苦しい静寂が戻る。
秀兵衛はそれを見届けると、一息に刀を鞘に収め、仮面を外した。
「まさか核を二つ持つ個体まで造り出すとはな……」
額の汗を拭い、低く呟く。
「淵鵺の力によるものだろうが、今まで斬ってきたどの妖にもなかったことだ。死人憑きの力と奴の妖力が、最悪の形で掛け合わさった結果かもしれん」
スミレもまた仮面を外し、乱れた息を整えながら頷いた。
「ますます淵鵺の全体像が掴めなくなりましたね……。ですが、次で最後でしょう。それを斬れば、いよいよ奴との対面です」
確信めいた感覚が、二人の胸に重く宿っていた。
背後で天を突いていた赤黒い光の柱は、核の殲滅とともにすでに消え失せている。その中心にあった古びた灯籠は、妖力を失った石屑のように無惨に倒れていた。あれが、妖気を遮るための封印の器だったのだろう。
残るは、もう一方の柱。
二人は視線を交わし、力強く頷き合った。
そして、夜の江戸を不気味に照らし続ける、もう一つの光の柱の下へと向かって、闇深い町を疾風の如く駆け出した。
二人は西へと駆け、もう一つの赤黒い光の柱が天を衝く地へと辿り着いた。
そこは――鈴ヶ森刑場。
先ほどの小塚原と同じく、多くの罪人が露と消えた処刑場。漂う死の気配、陰鬱な空気、血のこびりついた砂と石、鼻を突く腐臭……。条件は同じはずだった。
だが――ひとつだけ、決定的に違うものがあった。
肌を刺す妖気の濃さだ。
「……ッ! この辺りの妖気、異常に濃いぞ! 小塚原の比ではない!」
秀兵衛が思わず警戒の声を上げる。
目の前には、再び土の下から這い出した死人憑きの群れ。だが、もはや二人の敵ではなかった。
対処法は既にその身に刻まれている。
「「はあああ!」」
秀兵衛とスミレの刃が、腐った夜空に銀の弧を描く。
左胸を斬り、返す刀で右胸を貫く。あるいは、二つの核をまとめて一刀両断に処す。
一撃の下に、確実に命脈を断たれた死人憑きたちは、次々と地へと溶け、黒い霧となって霧散していった。
残るは二体。
秀兵衛とスミレは互いに視線を交わし、交差するように踏み込んだ。
秀兵衛が手前から奥へと斬り進み、左の核を。同時にスミレが奥から手前へ駆け抜け、右の核を。
二体が同時に膝を突き、そのまま地へと消えた。
「…これで全て、か?」
静寂。
これで場内の死人憑きは全て消滅したはず。
――だが。
天を貫く赤黒い光の柱は消えない。それどころか、一層その輝きを増していく。
次の瞬間。
ドォォォォォンッ!
凄まじい妖気の奔流が柱から迸り、空間そのものが悲鳴を上げて震えた。地面が軋み、処刑場の石が砕け散る。
「くっ、まさか…」
吹き飛ばされた二人は慌てて体勢を立て直す。
その神の如き力の根源に、秀兵衛には心当たりがあった。
しかし秀兵衛がその名を口にする前に、当の妖が先に言葉を発した。
「……貴様が秀兵衛か……」
鋭い威圧を孕んだ、低く冷たい声が響き渡った。
赤黒い光が一点に凝縮し、闇が形を成していく。
そこから姿を現したのは――。
猿の頭。狸の胴体。虎の手足。そして、鎌首をもたげる蛇の尾。
伝承に語られる鵺の姿を、さらに禍々しく、巨大に歪めた異形の怪物。
元凶、淵鵺。
「ようやく、その面を拝めたものよ……」
淵鵺の声には、これまで斬られた臣下たちの無念を背負った怒りが滲み、わずかに震えているように感じられた。
「我が臣下を、我が手足を尽く斬り捨てた罰……その身に、その魂に、永劫の苦しみとして刻みつけてやろう!」
淵鵺が天を仰いで咆哮した。
刹那、乾いた夜空に雷鳴が轟き、一筋の紅い閃光が秀兵衛の眼前に落ちる。
激しい爆発と共に、鈴ヶ森刑場の外周全体が地獄の業火に包まれた。
退路は断たれた。燃え盛る炎が、ここが最期の地であることを告げている。
「淵鵺ッ!!」
秀兵衛が腹の底から吼える。
「お前こそ、己の欲望のために一体どれほどの町人を害し、江戸の安寧を汚してきた! その積もり積もった罪、この俺が、この刃で、今ここで直接思い知らせてくれる!」
魂を込めた絶叫。
闇が一層深まる夜空へと、秀兵衛は弾かれたように跳び上がった。
鞘から引き抜かれた刀が、炎の照り返しを受けて鮮烈に煌めく。
その一振りの刃には、己の剣士としての矜持と――そして、何物にも代えがたい江戸の未来が宿っている。
もはや退路も、迷いもない。
江戸の運命を賭した、正真正銘、最後の戦いが幕を開けた。
二、スミレの独白
スミレは、夜空へと舞い上がった秀兵衛の背を見つめていた。
(ついに、ここまできた――)
その瞳には、燃え盛る戦意だけではない、幾重もの想いが静かに、しかし激しく宿っている。
(あの日、お姉ちゃんが亡くなって。あの日、秀兵衛さんに出会って……)
目前で咆哮を上げる淵鵺よりも、これまで積み重ねてきた果てしない日々が、走馬灯のように胸を満たしていた。
(秀兵衛さんは、行き場を失った私に、生きるための術を教えてくれた。剣の理だけじゃない。船頭の仕事の一部から、人としてどう土に足を付けて生きるかまで。最初は、私のことなんて微塵も信用していなかったのに……)
反発し、時を共にし、命を預け合い、泥を啜りながら少しずつ築き上げた絆。
スミレは、かつて秀兵衛から贈られた小刀を、掌の皮が破れるほどに強く握りしめた。
(これも、全部、全部、あの絶望の時から繋がっている――)
意識は、現在の喧騒を離れ、深い闇が支配する遠い過去へと沈んでいく。
――私は、江戸近郊の何の変哲もない、静かな村に生まれた。
父と母、そして自慢の姉。
姉は活発で、その美しい顔立ちは村中の男子たちの憧れの的だった。
私たちはきっと、何の疑いもなく、穏やかな未来を夢見ていたのだろう。
このまま、ささやかな幸せを享受する村娘として生きていく未来を。
だが、運命という名の獣は、容赦なくその未来を食い千切った。
ある日、正体不明の疫病が村を襲った。
どんな薬師の煎じ薬も効かず、神仏に縋っても、病魔は一歩も引かなかった。
村のあちこちで、昨日まで笑っていた者たちが次々と倒れていく。
そして――。
大黒柱だった父が、最初に倒れた。
「熱い……苦しい……。誰か、殺してくれ……っ!」
あの厳格で堅物だった父が、獣のような声を上げてのた打ち回る。
身体を血が出るまで掻き毟り、その爪の間からはどす黒い血が滲み出した。
やがて、看病を続けていた母までもが毒に侵された。
私と姉は、震える手で必死に看病を続けた。
村に伝わる古い知恵を、拙い知識を、全て動員して。
だが――父は亡くなった。
かつての威厳など欠片もなく、膨れ上がり、もはや人とは思えぬ醜悪な姿に変わり果てて。
悲しみに暮れる間もなく、最愛の姉が倒れた。
「お姉ちゃん、嫌だよ! 死んじゃだめ!」
涙が枯れるほど溢れ、頬を伝う。
だが、高熱に浮かされながらも、姉は私を諭すように弱々しく微笑んだ。
「泣かないで、スミレ。私の分まで……貴女が、生きて。貴女の中に、私が生きるなら……それでいいから……」
それが震える指先を隠した強がりだと、私には分かっていた。
それでも、私は唯一の希望である姉を救うため、必死にその身の世話を続けた。
その時だった。
家の外が、不気味な怒声で騒がしくなった。
「感染ったんだってな! 汚ねぇ一族だ!」
「こっちに来るな! 穢れが伝染る!」
「家ごと焼き払え! 村から出てけ!」
罵声を浴びせてくるのは、近所の子どもたちだった。
かつては姉を慕い、顔を赤らめて無邪気に話しかけていた、あの少年たち。
(人は、恐怖一つで、こんなにも簡単に変わってしまうのか)
言い返そうとして、私は玄関に飛び出した。
だが、投げつけられたのは鋭い石飛礫と、氷のような言葉だった。
「近寄るなよ、化け物。お前もどうせ、もう中身は腐ってるんだろ?」
その嘲笑が、私の幼い心臓を残酷に引き裂いた。
心無い言葉を吐き捨てる子どもを、親たちは叱りもしない。それどころか、恐怖に歪んだ顔で同調し、私たちを「汚物」として排除しようとしていた。
私の周囲に、味方は一人もいなかった。
数日後、母も、そして姉も、絶望の中で息を引き取った。
誰に惜しまれることもなく。
死臭と静寂だけが支配する、私以外誰もいない家。
私は一人、板間に蹲り、世界を呪った。
(この世界は、なんて残酷で、身勝手なんだ)
「愛している」「好きだ」
昨日まで囁かれていたそんな言葉は、姿が変われば、風に舞う塵のように消え失せる上辺だけのまやかしだった。
子どもも大人も、皆が私たちを拒絶した。
私の家族を殺したのは、疫病じゃない。
この、残酷な世界そのものだ。
そう確信した瞬間。
私の瞳に映る全てが、醜く、汚らわしく、泥濘のように見えた。
もう、生きる意味などない。
この穢れた世界の一部になるくらいなら。
――死のう。
絶望に身を任せ、喉元に刃を当てようとした、その時。
私の周囲に、何かが集まり始めた。
それは風でもなければ、ただの影でもない。
人の理の外側に蠢く、悍ましくも静謐な超常の存在。
果てしない怨嗟のような、救いを求める祈りのような、名状し難い黒い力が、渦を巻いて私を取り囲む。
拒むことも、逃げることもできたはずだった。
なのに。
私は、自らその「力」を受け入れた。
胸の奥に空いた、埋まることのない虚無が、その闇を激しく求めていた。
力が血管を駆け巡り、流れ込む。
身体の内側が、悲鳴を上げて軋む。
視界が、全てを塗り潰すような深い漆黒に染まっていく。
そして、私は――。
死人憑き(変異種)。小妖ー創妖。
土着の死人憑きが、淵鵺によって二つの核を持つものに創り変えられた個体。




