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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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第十幕

一、妖の深淵

 秀兵衛の刃が淵鵺の喉元を裂かんと肉薄した刹那――。

 淵鵺の蛇の尾が、鞭のように鋭く揺れた。

 威嚇するように空を切り裂いたその瞬間、淵鵺の背後にどろりとした黒い霧が噴き出す。闇よりもなお濃い霧。それが爆発的に膨れ上がり、淵鵺の巨体を一息に呑み込んだ。

 そして――。

「なに――ッ!?」

 秀兵衛の刃は、手応えなく虚しく空を斬った。淵鵺の姿が、掻き消えるように消失したのだ。

 その一瞬の空白。

 だが次の瞬間、着地しようとする秀兵衛の背後の空間が、熱に浮かされたようにぐにゃりと歪んだ。

 空気が裂ける不吉な音。直後、闇の霧が瞬時に弾け飛び――。

 そこから淵鵺が、死神の如き速さで飛び出した。

「ハアッ!」

 剛毛に覆われた虎の腕が振り下ろされる。鋭い爪が月光を四条の線となって引き裂いた。

 秀兵衛は、背筋を凍らせる殺気に反射的に振り返る。抜刀の勢いのまま刀を斜めに構え、間一髪でその剛爪を受け止めた。

 ギィィィィィィンッ!

 金属と爪が激しく火花を散らす。

「くっ……!」

 だが――その重圧は、想定を遥かに超えていた。

 淵鵺の腕力は、もはや理の範疇にない。受け止めた刀ごと、秀兵衛の身体は木の葉のように軽々と弾き飛ばされた。

 空中で体勢を崩しながら、秀兵衛は地面へと叩きつけられる。

「がはっ……!」

 背中を強打し、砂煙が舞い上がった。二人の距離が、絶望的なまでに大きく開く。

 その隙を、淵鵺は逃さない。天に向かって咆哮し、その猿の顎に紅い雷火を収束させる。

大気が震え、雷鳴が鼓膜を突き破らんばかりに轟く。

 次の瞬間――。

 一筋の紅い閃光が、地を這う秀兵衛へと放たれた。

「ッ!」

 秀兵衛は肺に残る空気を全て吐き出し、反射的に横へ跳んだ。

 直後、紅い雷撃が彼のいた場所を直撃し、石畳を爆砕した。直撃こそ避けたものの、落雷の衝撃波が周囲の酸素を燃やし、凄まじい火炎が円状に広がる。

 爆ぜた火が、秀兵衛の身体を容赦なく包み込んだ。

「くはっ……あああああッ!」

 肌を灼く熱。着物が一瞬にして燃え上がる。

 秀兵衛は苦痛に顔を歪め、呻き声を上げながら地面を激しく転がった。砂を巻き上げ、何度も土に身体を打ちつけながら、必死に炎を消し止める。

 ようやく火が消えた。

 周囲には焦げた布の匂いと、肉が焼ける生々しい臭いが漂う。

 荒い呼吸を繰り返し、肺に溜まった煙を吐き出しながら、秀兵衛は震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。

 煤にまみれ、血を流しながらも、彼は刀を握り直す。

 折れぬ意志を宿した切っ先を、再び淵鵺へと向けた。

 その淵鵺は――。

 黒い霧を纏いながら悠然と空中に浮かび、秀兵衛を冷酷に見下ろしていた。

 まるで地を這う虫の最期を眺めるかのような、慈悲なき眼差し。

「潔く諦めよ。貴様の足掻きなど、天の理を覆すには至らぬ」

 低く、冷淡な声。

「その命、無駄に散らす必要はあるまい。屈すれば、楽にしてやる」

 圧倒的な力の差を見せつけ、どこか幼子を諭すような、傲慢な口調。

 だが。

 秀兵衛の答えは、疾うに決まっていた。

「ここまで来て……先に逝った奴らを背負って……諦めるわけには、いかぬ!」

 刀を握る手に、白骨が浮き出るほどの力がこもる。

 視線は一瞬たりとも逸らさない。

 しかし、秀兵衛の頭の中では、狂おしいほど冷徹な思考が巡っていた。

(……なにか)

 激しい呼吸を整えながら、先ほどの淵鵺の挙動を、一コマずつ脳裏で反芻する。

(なにか、突破口があるはずだ。こいつは万能ではない……)

 今まで幾度となく、勝ち目のない死地を越えてきた。

 圧倒的な強者を前にしてなお、その攻撃を見極め、分析し、針の穴を通すような活路を見いだしてきた。

 この「淵鵺」という異形の神もどきも、例外ではないはずだ。

 闇の霧による空間転移。

 予測不能な紅い雷撃。

 そして、鋼をも砕く圧倒的な腕力。

だが――。

(必ず、クセがある。あるいは、代償が――)

 秀兵衛の瞳は、静かに、そして鋭く淵鵺を捉え続けていた。

 肉体が悲鳴を上げ、圧倒的な絶望が目の前に鎮座していても。

 江戸の夜明けを信じるその決意は、微塵も、一分も揺らがなかった。

 蛇の尾が空を薙ぎ、再び秀兵衛を威嚇する。

 直後、淵鵺の巨体が吸い込まれるように闇の霧へと溶けていく。

「――ッ!」

 その消失の瞬間を凝視した秀兵衛の脳裏に、一つの断片が火花を散らした。

 確証はない。だが、その違和感こそが逆転の糸口。

 次の瞬間――秀兵衛の背後の空間が泥のように濁り、闇の霧が噴き出した。

 そこから淵鵺の巨体が弾け出す。

 剛毛に覆われた虎の腕が振り下ろされ、鋭い爪が秀兵衛の背後から迫った。

「やはりか――!」

 高い金属音が夜気を激しく震わせる。

 秀兵衛は振り返りざま、最小限の動きで刀を合わせ、その剛力を真横へと弾き返した。

(蛇の尾の叫び――それが奴が闇の中へと姿を消す合図だ)

 火花が散る中、秀兵衛は冷徹に思考を加速させる。

(そして別の場所へと闇を繋ぎ、再び姿を現す)

 幾多の修羅場を潜り抜けてきた秀兵衛の観察眼。

 妖がどれほど人智を超えた力を振るおうとも、それを操るのがひとつの意志である以上、そこには必ず「拍子」と「クセ」が生まれる。

(つまり、奴の方から攻撃の場所と時期を、丁寧に明かしているも同義!)

 闇の霧の出現場所、その大気の変化さえ掴んでしまえば――防ぐこと自体は、もはや秀兵衛にとって造作もないことだった。

 その直後。

 淵鵺が天を仰いで咆哮する。

 大気が震え、その顎に紅い火花が収束した。

 だが秀兵衛は、すでにその挙動を読んで身構えていた。

 雷鳴と共に落ちた紅い雷を、彼は重力を無視したような軽やかな跳躍でかわす。

 地面が爆ぜ、業火が広がる中を、秀兵衛は風となって駆け抜けた。

(この雷もそうだ。決まって咆哮の後に降ってきている)

 攻撃には、必ず兆候がある。

 それさえ読めてしまえば、この圧倒的な破壊力もただの「現象」に過ぎない。

(あとは……どう攻めるかだ。この強固な皮膚をどう抉るか)

 反撃の手筋を組み立てようとした――その時。

「……フン」

 低い、どこか愉しげな声が闇の中から響いた。

「『もうお前の行動は読めた』――そんな顔だな、人間」

 秀兵衛の思考が一瞬、硬直する。

 淵鵺は蛇の尾を舌のように動かし、嘲るように続けた。

「いいだろう。貴様のような小賢しい羽虫は、これまでにも何人も食うてきた。ならば――趣向を変えるとしよう」

 まるで秀兵衛の内心の傲慢を、そっくりそのまま見透かしたかのような言い方だった。

 だが秀兵衛は、表情一つ動かさない。ただ静かに刀を構え続け、その五感の糸をさらに鋭く張り巡らせる。

 蛇の尾が再び、不吉な音を立てて威嚇した。

 直後――淵鵺の姿が再び闇の霧へと消える。

 一見すれば、これまでと同じ攻撃。

 だが。

 次の瞬間、秀兵衛の瞳がかつてないほどに見開かれた。

 今まで、闇の霧は必ず「一箇所」に現れていた。

 しかし――今回は違う。

 秀兵衛の背後だけではない。

 前方。

 右方。

 左方。

 そして、上空。

 秀兵衛を中心とし、逃げ場を完全に封殺するように、無数の闇の霧が同時に現れたのだ。

「――ッ!」

 思わず息が詰まる。

 どこから来る。

 いや、全方位から来るのか。

 一瞬の判断の遅れ、迷い。それがそのまま、肉の塊へと変わる結末を意味する。

 だが秀兵衛は、すぐに乱れた呼吸を整えた。

 視線を鋭く巡らせる。

 耳を澄ませる。

 足音、風切り音、空気の密度の揺らぎ――。

 わずかな物音すら逃さぬよう、神経を細胞の隅々まで極限に研ぎ澄ませた。

 四方八方の闇が、秀兵衛を喰らわんと一斉に蠢き出す。

 わずかな違和感。

 それが波紋のように、秀兵衛の鋭敏な感覚を伝って全身へと走った。

 直後。

 左方の闇の霧が、生き物のように歪む。

 そこから淵鵺が、大気を引き裂きながら飛び出した。

 虎の剛腕が振るわれ、鋭い爪が秀兵衛の脇腹を抉らんと迫る。

 だが、秀兵衛は紙一重で刀を差し込み、その一撃を真っ向から受け止めた。

 ガギィィィンッ!!

「ぐっ…!」

 しかし、衝撃は一度では終わらない。

 淵鵺はそのまま腕に、山をも動かさんばかりの力を込めた。圧倒的な怪力。秀兵衛の足は地を離れ、その身体は木の葉のように軽々と弾き飛ばされる。

 地を蹴って体勢を立て直す間もなく――。

 淵鵺は天に向かって咆哮した。

 一度。

 そして、二度。

 さらに、三度。

 咆哮が重なるたび、夜空の雲が渦を巻き、赤黒い電光が奔る。

 直後、一筋の紅い閃光が地を打った。

 轟く雷鳴。着弾地点から爆発的な炎が噴き上がる。

 ここまでは、予測の範疇だった。

 秀兵衛は横へ跳び、難なくそれを回避する。

 だが――次の瞬間。

 二発目の雷が、間髪入れず、回避した先を狙い澄まして落ちた。

「ッ!」

 体勢が崩れていた秀兵衛は、身を捩って直撃を避ける。だが、爆ぜた炎の波がその身体を容赦なく舐めた。袖が焼け、剥き出しの皮膚がじりじりと焼ける。

「くっ……!」

 激痛が走る。だが、それすら慈悲を乞う隙は与えられない。

 三発目。

 紅い雷が天を割り、垂直に降り注いだ。

 秀兵衛はもはや受け身などかなぐり捨てていた。本能のままに、ただ泥を啜るように横へと転がる。

 雷が地を打ち、石礫が弾け飛ぶ。

 辛うじて回避。

 しかし、その勢いのまま秀兵衛の身体は地面を激しく滑った。砂と石が容赦なく肌を削る。

 気が付けば、彼のすぐ目の前には――。

 鈴ヶ森処刑場の外周を包囲する、あの忌まわしき業火が迫っていた。

 炎が猛り、熱気が肌を焼く。

 地面に擦りつけられた腕や肩からは、生々しく血が滲んでいた。

「くっ……」

 秀兵衛はしばらく、地に伏せたまま蹲った。

 呼吸は途切れ途切れで、肺には煙が混じり、身体が思うように動かない。

 だが――。

 それでも、秀兵衛は折れなかった。

 泥を噛み、震える身体を意思の力だけで押さえつける。

 そしてゆっくりと、震える両足で地を噛み締め、立ち上がった。

「……ほう。まだ、そのむくろを立たせるか」

 低い声が、静寂を取り戻した夜空から降ってくる。

 淵鵺は上空で黒霧を纏い、冷淡にその様子を見下ろしていた。

 焼け焦げた着物。土埃にまみれた身体。あちこちに滲む、昏い血の色。

 常人ならば、疾うに心が砕け、絶望に身を任せていてもおかしくない惨状。

 それでも、秀兵衛は刀を強く握り直し、切っ先を真っ直ぐに淵鵺へと向けた。

「……当たり前だ」

 荒い息を吐き出しながら、魂を絞り出すように言葉を繋ぐ。

「……お前をこの刃で斬り、夜を終わらせるまで……何度でも、俺は立ち上がる!」

 その瞳には、未だ消えぬ戦意が宿っていた。

 迷いのない、鋼のような光。

 それを見た淵鵺は、ふと、底の知れぬ問いを投げた。

「……それは、復讐心か?」

 冷たい風の中に、どこか秀兵衛の本質を試すような響き。

 だが、秀兵衛は即座に首を振った。

「いや、違う!」

 力強く、その問いを撥ね退ける。

「これは、そんな過去の亡霊に囚われたものでは決してない!」

 刀を握る手に、さらに力がこもる。

「江戸の明日を……人々の命が続く未来を想う力だ!」

 言い切った。その言葉の重みに、周囲の炎さえも一瞬怯んだように見えた。

 淵鵺は黙ってそれを聞いていた。

 やがて――。

「……そうか」

 ぽつりと、独り言のように呟く。

「分かり合えると思ったのだがな。……この世の醜さを知る者同士として」

 その声には、一瞬だけ、本当に残念そうな、深い孤独の響きが混じった。

 だが、次の刹那、その温情めいたものは消え失せた。

 冷たい夜気だけが、再び戦場を支配する。

「ならば――」

 淵鵺の声が、奈落の底へと沈むように低くなる。

「力で示すしかあるまい。貴様のその『未来』が、いかに脆い幻想であるかをな」

 冷酷な死の宣告。

 蛇の尾が、再び獲物を捕らえる蛇のように、不気味にうねり始めた。

 淵鵺の巨躯が再び闇へと溶け落ちる、その刹那。

 秀兵衛は弾かれたように振り向き、これまで戦火のただ中で静かに機を伺っていたスミレへと、喉を裂かんばかりの声で叫んだ。

「スミレ! 奴の蛇の尾を狙え! あれが闇の出処だ。お前があれを断て。本体は俺が引きつける!」

 突然の、しかし迷いのない指示。スミレは一瞬だけ驚愕に目を見開いたが、即座に深く、静かに頷いた。

「……承知しました」

 秀兵衛がこの策を打ち出したのは、確固たる勝算があったからである。自分一人では淵鵺の懐に潜り込むことさえ叶わない。だが、自分が正面で猛攻を食い止めている隙に、気配を殺す術に長けたスミレが背後へ回れば――接近さえ許せば、淵鵺の広範囲雷撃は自らを巻き込むため封じられる。

 失敗など、万に一つも考えていなかった。

 次の瞬間、淵鵺が秀兵衛の右手頭上の闇を裂いて出現した。

 山をも砕く虎の爪。秀兵衛は刀を斜めに差し込み、火花を散らしてそれを受け止める。

 だが、淵鵺の攻勢は止まらない。

 右の剛爪。間髪入れず、左の剛爪。

 獣そのものの荒々しく、かつ超常的な速さの連撃が秀兵衛を襲う。

 秀兵衛は奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、円を描く「流転」の軌道で全ての衝撃を逃し、受け流した。

 しかし――最後はやはり、暴力的なまでの力任せだった。

 淵鵺は咆哮と共に腕に異形の力を込め、秀兵衛を紙屑のように弾き飛ばす。

 大きく距離が開く。

 直後、淵鵺は勝利を確信したように天へ向かって高らかに吠えた。

(狙い通りだ……来い!)

 秀兵衛は胸中で快哉を叫ぶ。

 紅い閃光が夜空を焼き、雷鳴が鼓膜を震わせた。

 その轟音を、そして自らに向けられた殺意を合図にするかのように――スミレが音もなく地を蹴った。

 闇の中を滑る、一筋の影。

 狙うは、淵鵺の背後で禍々しくうねる蛇の尾。

 スミレの瞳には何の感情も映っていない。ただ、機械的なまでの正確さで、銀色の小刀が虚空を薙いだ。

 一閃。

 蛇の尾は、驚くほど呆気なく断ち斬られた。

 意識を秀兵衛の殲滅に集中させていた淵鵺は、死神の如き接近に全く気づいていなかったのだ。

「グッ……!? 貴様……!」

 遅れて、淵鵺の喉から苦悶が漏れる。

 同時に、斬り落とされた蛇の尾が「シャアアアア!」と呪わしい絶叫を上げ、闇に溶けるように霧散した。

 斬った。そう、確信したはずだった。

 だが――。

 数拍の後、淵鵺の背後の闇がどろりと蠢いた。

 そして、あろうことか。

 今しがた斬り落としたはずの蛇の尾が、肉を焼く音と共に再び生え揃ったのだ。

 何一つ、以前と変わらぬ毒々しさを湛えて。

「なっ……再生だと!?」

 秀兵衛が思わず驚愕の声を上げる。

 着地したスミレは、乱れた息ひとつ乱さず、淡々と、しかし残酷な事実を告げた。

「……淵鵺には、核が二つありました」

 感情の死んだ、氷のような声。

「猿の頭部と、蛇の尾。その両方に」

 スミレは消えゆく霧を見つめ、静かに続ける。

「片方を断っても、もう一方が生きていれば即座に修復される。二つ同時に断たねば、あれは殺せません」

 その説明を聞いた瞬間、秀兵衛は指先から凍りつくような感覚に襲われた。

 死人憑きも二つの核を持っていた。だがあれは、動作の鈍い小妖だったからこそ対処できたのだ。

 相手は江戸を灰にせんと荒ぶる大妖、淵鵺。

 神速の頭部を捉えつつ、同時に背後でうねる尾を断つ。

 そんな、人の身を超えた芸当が果たして可能なのか。

 苦戦などという次元ではない。これは「詰み」ではないか。

 秀兵衛は絶望的な状況に混乱し、なぜそれを早く言わなかったのかと、スミレに詰め寄ろうとした。

 その刹那。

 上空で淵鵺が嘲笑うかのように咆哮した。

 ドォォォォンッ!

 紅雷が二人の間に突き刺さり、爆ぜた炎が視界を赤く染める。二人は反射的に左右へと飛び退き、分断された。

「フハハハハ!」

 炎の向こう、夜空から響く傲岸な哄笑。

「だから言っただろう、人間よ。我を斃すなど不可能だ」

 降り注ぐ雷火を回避しながら、秀兵衛の思考は泥濘の中にあった。

 二つの核を、同時に。

 その問いが、鉛のように胸の奥で重く沈み、熱を奪っていく。

 最強の妖斬りと謳われた秀兵衛の心に、これまで一度として許さなかった暗い影――「絶望」が、初めて音を立てて忍び寄っていた。

 その後も、淵鵺の攻撃は絶え間なく続く。

 夜空を裂く咆哮。

 闇を切り裂く紅い閃光。

 そして、逃げ場を奪うように地面を焦がす業火。

 雷火は容赦なく降り注ぎ、戦場を焼き、空気を歪め続ける。

 しかし――

 その猛攻に晒され、死の淵を彷徨いながらも、秀兵衛は一つの不可解な事実に気づいていた。

 淵鵺は、頑なに秀兵衛「だけ」を狙っている。

 確かにスミレは、ほとんど攻撃に参加していない。

 それは秀兵衛自身が「本体は俺が引き受ける」と指示したからだ。彼女を温存し、勝機を見出すための策だった。

 だが、この閉ざされた鈴ヶ森刑場において、淵鵺の広範囲攻撃に巻き込まれずに済む場所などどこにもない。

 それなのに、なぜ淵鵺はスミレを無視し、執拗に自分だけを壊そうとするのか。

 そんな疑問が、焼けつくような意識の端をよぎった、その時だった。

 蛇の尾が不吉にうねり、威嚇する。

 直後、淵鵺の巨体が黒い霧へと呑み込まれ、掻き消えた。

「ッ!」

 秀兵衛の直感が警鐘を鳴らす。

 頭上の闇が裂け、そこから淵鵺が、死神の如き重圧を伴って姿を現した。

 振り下ろされる虎の剛爪。

 秀兵衛は折れかけた腕を叩き起こして刀を掲げ、金属音を響かせてそれを受け止めた。

 だが、一撃では終わらない。

 右。左。そして右。

 獣の獰猛さを宿した、呼吸すら許さぬ連撃が襲いかかる。

 秀兵衛は歯を食いしばり、必死で刀を振るった。

 骨が軋み、視界が火花で明滅する。辛うじて致命傷を免れるが、もはや限界はとうに超えていた。

 度重なる猛攻。

 戦場を満たす猛烈な熱気。

 そして、削られ続けた体力と精神力。

 秀兵衛の肩は大きく上下し、その肺は煙を吸い込んで悲鳴を上げていた。

 そして――

 これまでのように、距離を空けるために弾き飛ばされる。

 そう、秀兵衛は予測した。

 だが。

 違った。

 淵鵺は刀の下を掬うように腕を潜り込ませると、無防備な懐へとその剛腕を叩き込み、一気に上方へと振り上げた。

「なっ――!?」

 圧倒的な剛力。

 秀兵衛の身体は重力を失ったかのように、夜空へと放り上げられた。

 一瞬の浮遊感。何が起きたのか理解が追いつかない。

 無防備な身体が空中に投げ出され、逃げ場のない「標的」となる。

 その瞬間。

 淵鵺は地を睨みつけ、天を仰ぎ、高らかに咆哮した。

 一度。二度。そして、三度。

 秀兵衛は空中で必死に身体を捩った。

 だが、足場のない空では抗う術がない。

 ドォォォォォォンッ!!

 紅い閃光が夜空を貫いた。

 直撃。

「ぐはっ……あ、あああッ!!」

 心臓を直接灼かれるような衝撃。雷火が秀兵衛の肉体を貫通し、内臓を焼き尽くさんばかりに暴れ回る。

 そのまま凄まじい勢いで地面へと叩き落とされた。

 だが、地獄は終わらない。

 間髪入れず。

 二発目。三発目。

 容赦ない追撃が、動かぬ秀兵衛へと正確に降り注ぐ。

 炎が爆ぜ、地面が砕け、雷鳴が鈴ヶ森を震わせる。

 もはや、悲鳴を上げる余力すら、彼には残されていなかった。

「カハッ……!」

 秀兵衛は白目を剥き、その衝撃に突き動かされるように跳ね、そのまま力なく地面へと沈んだ。

 傍らには、主の手を離れた愛刀が無残に転がっている。

 その周囲では、淵鵺が呼んだ業火がパチパチと音を立てて燃え滾っていた。

 身体は炭のように黒く焦げ、全身から白い煙が立ち昇っている。

 焼けた布の臭い。

 そして、焼けた肉の――生々しく、凄惨な異臭が辺りを支配した。

 その無惨な光景を。

 淵鵺は上空から、感情の読み取れない眼差しで静かに見下ろしていた。

 そして、ぽつりと。

 独り言のように呟いた。

「……やりすぎたか」

 わずかな沈黙。

 処刑場の土が、秀兵衛の血を吸い込んでいく。

「死んでなければいいが……」

 本来、不倶戴天の敵であるはずの男。その身を案じるかのような、場違いに静かな声音。

 その慈悲とも嘲弄ともつかぬ言葉だけが、

炎と死臭に満ちた絶望の戦場に、空虚に響き渡っていた。

 秀兵衛の周囲には、地獄を具現化したような業火が広がっている。

 地面を舐めるように走る炎。視界を歪ませる熱気。鼻を突くのは、焼けた衣服と、自身の肉が焼ける生々しい匂いだ。

 その絶望的な光景の中を――

 一つの影が、まるで春の小道を散策するかのように、何事もない様子で歩いていた。

 スミレだ。

 彼女は、背後で巨躯を揺らす淵鵺をあえて無視し、秀兵衛の下へとゆっくり歩を進める。

 炎が牙を剥き、火の粉が雪のように舞い落ちる。しかし、火炎は彼女を避けるかのように割れ、その足元を焼くことさえなかった。

 そして不可解なことに――。

 淵鵺は、その無防備極まりないスミレの背中を撃とうとはしなかった。

 スミレはやがて、泥と血にまみれて横たわる秀兵衛の前へと辿り着く。

 彼の真正面に立ち、憐れみとも慈しみともつかぬ静かな眼差しで、その顔を覗き込んだ。 もっとも、秀兵衛はまだ仮面を纏っている。鉄の奥にある本当の顔は見えない。

 スミレは、鈴を転がすような声で静かに呼びかけた。

「秀兵衛さん。目を開けてください」

 その声は、戦場の喧騒を塗り潰すほどに優しかった。

 彼女はゆっくりと屈み込み、炭のように動かない秀兵衛の身体を、折れものを扱うように抱き上げる。小さな両手でその首を支え、仮面に指をかけた。

 そっと持ち上げられた仮面の下から、露わになった素顔。

 まだ他の皮膚よりも幾分ましだったとはいえ、頬に刻まれた焼け跡が痛々しい。

 スミレはその痛みを吸い取るかのように、そっと指先で頬を撫でた。

 その直後。

 秀兵衛の瞼が、重々しく、ゆっくりと開かれた。

「良かった。まだ、生きていますね」

 スミレは、心の底から安堵したように、花が綻ぶような笑みを浮かべた。

「……ス、ミレ……」

 秀兵衛は震える声で、その名を呼ぶ。地獄から引き戻されたような掠れた声。その反応に、スミレはさらに深く、にこりと微笑んだ。

 その時だった。

 上空から、淵鵺がゆっくりと、重力を無視するように降りてきた。

 広がる炎の上に不気味な影を落としながら、二人の目の前へと着地する。そして、地を震わせるような重低音で口を開いた。

「秀兵衛よ。お主に、一つ話がある」

 秀兵衛は、焦点の定まらない目で、巨大な異形を見上げた。

「我の目的は……妖の皆に、生前成し遂げられなかった復讐を、果たさせてやることにある」

 静かな声だった。だが、そこには何万人もの怨嗟を束ねたような重圧がある。

「故にお主ら妖斬りは、復讐を遂げた妖のみを、後の始末として斬るようにしてはくれぬか。我らと、共生という名の譲歩をせよ」

 その言葉に、秀兵衛は己の耳を疑った。

 今まで、どの妖の口からも語られなかった、淵鵺の真の目的。

「……俺と、交渉を……しようというのか……?」

「そうだ。お主は妖の淵に立ち、その苦しみを知る者。これ以上の適任はおらぬ」

 なるほど、と秀兵衛の脳裏に冷たい納得が走る。

 最初から――この戦いは、自分を殺すためのものではなかった。自分を屈服させ、交渉の場に引きずり出すための「儀式」だったのだ。

 だが。

 秀兵衛は、焼けるような喉を震わせ、ゆっくりと、しかし断固として首を振った。

「……ならぬ」

 掠れた、消え入りそうな声。それでも、そこには山をも動かさぬ拒絶があった。

「……復讐は、何も生まぬ。ただ……さらなる影を落とすだけだ……」

 復讐は連鎖する。誰かが報復を遂げれば、その遺族がまた新たな怨念を生む。終わりなく続く闇の螺旋。だからこそ、どこかで誰かが、血に染まってでもそれを断ち切らねばならないのだ。

 秀兵衛の言葉を聞いた淵鵺の瞳に、氷のような冷ややかさが宿った。

「そうは言えど。その復讐を生んだ元凶は、元を辿れば人間の方にあるのではないか?」

 淵鵺は一歩、地を踏みしめて続ける。

「被害者は――常に我ら妖の方だ。生前は力もなく、ただ無慈悲に虐げられ、声も上げられずに死んでいった弱者たち……。それが今世では力を持ち、自ら罰を下す者へと相成った。強者が弱者を正し、不条理を雪ぐ。これは、当然の理であろう?」

 その口調には、微塵の迷いもなかった。

 自らの狂った正義を、救済であると心から信じ込んでいる。

 秀兵衛は苦しげに血を吐きながら、必死に言い返した。

「……いや……違う。お前たちは……あの日々の、無関係な人まで巻き込んで……」

 しかし、淵鵺はその言葉を力強く遮った。

「だからこそ、お主に頼んでいるのだ。必要以上の犠牲を払わずに済むよう、最低限の復讐を成し遂げ、満足した妖から順にお主が引導を渡してくれとな」

「……」

 秀兵衛は、言葉を失った。

 提案の論理は、歪んでいる。だが、その狂気はあまりに理路整然としていた。

 復讐が「終結した」と、一体誰が判断するのか。牛鬼のように世の全てを憎む者が、どうして満足などできようか。その基準は曖昧で、あまりにも詰めが甘い。到底、受け入れられるものではなかった。

 だが。

 焼けた身体は、指先ひとつ動かない。

 愛刀は遠く、炎の向こう側に転がっている。

 抗う術は、もう何一つ残されていないようにさえ思えた。

 秀兵衛は、焼けるような痛みに抗いながら、必死に上体を起こそうとしたが、身体は冷酷に拒絶する。

 炭化した筋肉は力を失い、指先一つ満足に動かせない。砕けた奥歯を食いしばり、泥を噛みながら腕に渾身の力を込めようとするが、視界が火花を散らして遠のくだけだった。

 その時だった。

 直上から、この世のものとは思えぬほど穏やかな声が降りてくる。

「秀兵衛さん」

 スミレだった。

 炎の照り返しを受ける彼女の瞳は、どこまでも澄んでいた。

「まだ、立ち上がりたいですよね?」

 静かな問い。

「なら、私の手を取ってください」

 そう言うと、彼女は陶器のように白い小さな右手を、そっと差し出した。

「私を信じてくれるなら、戦える力を与えましょう」

 差し出された手。

 荒れ狂う業火の揺らめきの中で、その白い手だけが、まるで唯一の救いであるかのように鮮明に浮かび上がっていた。

「……ス、ミレ……」

 秀兵衛は微かな吐息で彼女の名を呼ぶ。

 彼女に何ができるのか。この絶望を覆す策など、本当にあるのか。

 今の彼には、見当もつかなかった。

 だが――。

 残された時間はなく、頼れる魂は、目の前の少女しかいなかった。

 秀兵衛は意を決し、震える右手を泥の中からゆっくりと持ち上げる。

 かつて――アヤメという女に裏切られ、心に消えない傷を負ったあの日から、秀兵衛は他人に背を預けることを止めていた。

 だが。

 スミレだけは、違った。

 共に貧しい粥を啜り、共に死線を潜り抜け、互いの傷を癒やし合ってきた長い時間。

 その積み重ねが、偽りであるはずがない。

 二人の間には、血よりも濃い「絆」が、確かに結ばれていた。

 迷う必要など、どこにもなかった。

 秀兵衛は小さく、しかし確固たる意志で頷き、彼女の手へと指を伸ばす。

 そして――。

 指先が触れ合う、その瞬間。

 スミレは、何を思ったのか。

 吸い込まれるような瞳で秀兵衛を見つめたまま、すっと自らの手を引いた。

「……?」

 秀兵衛の顔に困惑が広がる。

 スミレは何も言わず、そのまま右手を自らの顔――常に素顔を隠していたあの仮面へと伸ばした。

 そして。

 躊躇なく、仮面を外す。

 露わになったのは、月の光を凝縮したような美しく白い肌。淵鵺の猛攻に晒され、炎に包まれていたはずのその顔には、煤一つ、傷一つついていなかった。

 スミレは悲しげに、それでいて慈しむような微笑を浮かべて言った。

「秀兵衛さん。私、実は――」

 その言葉を言い終える前に。

 突如として、鈴ヶ森の全域を揺るがすほどの、膨大な妖気の渦が巻き起こった。

「……ッ!?」

 思いがけない事態に、秀兵衛は顔を顰め、風圧に耐える。

 妖気は黒い嵐となって荒れ狂い、逃げ場のない業火さえもなぎ倒しながら、ぐるぐるとスミレの身体を核として旋回する。

 やがて。

 その渦が、目にも止まらぬ速さで収縮を始めた。

 莫大な妖力が――まるで大気そのものを吸い込むように、彼女の小さな身体へと一点に流れ込んでいく。

「――ッ!? スミレ、まさかお前、それは……!」

 秀兵衛は悟った。その妖気の「質」に見覚えがあったからだ。

 思わず声を張り上げる。

 妖気の渦は完全に消え失せ、溢れ出した余波だけが紫紺の霧となって彼女の周囲に漂っていた。

 その霧が、夜風に吹かれてゆっくりと晴れていく。

 そして。

 そこに立っていたのは――。

 仮面を脱ぎ捨てた少女ではない。

 頭上には、月光を弾くしなやかな狐の耳。

 背後には、闇を払うようにふわりと揺れる、白銀の尻尾。

 スミレ――。

 否。

 そこにいたのは、人の理を外れた妖。

 「()(ぎつね)」たる真の姿であった。

「実は、化け狐だったんです」

 その告白が落ちた瞬間。

 つい先ほどまで、雷鳴と怒号、肉を焼く凄惨な音に満ちていた鈴ヶ森処刑場に、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。

 パチパチと、周囲の業火が爆ぜる音だけが、遠い世界の出来事のように鼓膜を叩く。

 秀兵衛は――ただ、唖然としていた。

 血と煤に汚れ、死の淵にいたはずの身体から、戦意も苦痛も、あらゆる感情が抜け落ちていく。目を見開き、幽霊でも見るかのように呆然と、目の前の「少女」を凝視していた。

 最初にその静寂を破ったのは、化け狐自身だった。

「黙っていてごめんなさい」

 スミレ――いや、化け狐は、眉を下げて申し訳なさそうに呟く。だがすぐに、いたずらが成功した子供のように、少し困ったように笑った。

「でも、秀兵衛さんも悪いんですよ?だって、あれだけ長い間一緒にいたのに、一度も見破れなかったんですから」

 その軽やかな言葉を聞いた瞬間。

 秀兵衛の脳裏に、濁流のような勢いで彼女との記憶が逆流してきた。

 なぜ、彼女は初見の妖の「核」を寸分違わず見通せたのか。

 なぜ、凡庸な村娘のはずの彼女が、人外の剣速をその身に宿せたのか。

 なぜ、あれほど苛烈な淵鵺の猛攻の中で、彼女だけが一点の傷も負わず、標的からも外れていたのか。

 パズルの最後の一片が嵌まるように、全ての疑問がたった一つの「絶望」へと結実する。

 ――彼女が、妖だったから。

 そのあまりに単純な事実が、今になってようやく、重い鉛となって胃の底に沈んでいく。

 今までの自分の行動が、ひどく滑稽で、救いようのない道化芝居に思えてくる。

 あの時。

 夜、共に粥を啜っていた時。あるいは稽古の合間に、ほんの少し彼女の頬をつねってやれば。

 その瑞々しい化けの皮は、案外簡単に剥がれ落ちていたのではないか。

 そんな、どうでもいい後悔ばかりが、壊れた時計のように頭の中を巡る。

 そして――。

 気づけば、秀兵衛の頬を一筋の涙が伝っていた。

 それは裏切られた悲しみか、己の無能さへの嘆きか。

 次に口を開いたのは、傍らに佇む淵鵺だった。

「彼女をお主の下へ送り込んだのは、この我だ」

 淡々とした、勝利者の声。

「つまり最初から、お主は我が掌の上で、筋書き通りに踊っていたに過ぎぬということだ」

 その言葉は、刃よりも深く秀兵衛の尊厳を切り裂いた。

 最初から。出会いから、積み重ねた信頼も、共に乗り越えた死線も。

 全てが敵の用意した檻の中の出来事。

「あっ……あ、あ…………」

 声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れ出る。

その崩れゆく姿を見つめながら、化け狐は慈しむように言葉を重ねた。

「最初は私も、貴方を復讐を完遂させるための、便利な道具としか見ていませんでした」

 しかし、と彼女は愛おしそうに首を振る。

「でも、貴方は違った。疫鬼に壊された人々を前にしても、決して無体な真似はせず、人を、命を、最後まで守ろうとしてくれた。人を外見で判断しない、その心からの優しさに……私の孤独も、救われたんです」

 彼女は目を細め、遠い日々を懐かしむように微笑む。

「二人で過ごした日々に、嘘はありません。あの時芽生えた絆も、本物です」

 その表情は、長年隠し通してきた重荷をようやく下ろしたかのように、どこまでも清々しく、穏やかだった。自らの正体を明かせたことを、至上の喜びと感じているようにさえ見える。

 だが――。

 秀兵衛の目には、もうその微笑みは届かない。

 視界に映るのは、愛おしい弟子などではない。

 人の言葉を巧みに操り、心を弄ぶ「化け物」だ。

 見慣れた顔も、聞き慣れた声も、温かな仕草も。

 全てが吐き気を催すほどに歪み、おぞましく変質していく。

 化け狐は、願いが叶ったかのような恍惚とした笑みを浮かべた。

 そして、その右手に――かつて秀兵衛が授けた、あの銀色の小刀を取り出す。

 静かに。ゆっくりと。

 愛を囁くように、その刃を秀兵衛の喉元へと添えた。

「ですから、秀兵衛さん」

 囁くような、熱を帯びた声。

「お願いです。私と同じ妖となって――二人で、永遠に終わらぬ時を過ごしましょう?」

 冷たい刃が喉元に触れる。

 鋭利な先端がわずかに皮膚を裂き、そこから一筋の赤い雫が、ゆっくりと鎖骨を伝い落ちる。

 その様子を見守りながら、淵鵺もまた、傲慢さを捨てた慎重な声で告げた。

「我からも頼む。我が臣下三体をにえとし、お主の命を天秤にかけて出した答えが、これなのだ」

 淵鵺は続ける。

「信頼を勝ち取るという一点のために、あえて犠牲にした同胞も多い。これは、妖と人間――二つの種族の未来を分かつ、乾坤一擲の選択。全ては、お主の手に、かかっておるのだ」

 その物腰は、驚くほど低かった。

 当然だ。淵鵺にとってこれは、江戸を統べるための、一世一代の大博打の終着点なのだから。

 だが――。

 秀兵衛には、もうその言葉の意味すら届いていなかった。

 あるのは、底なしの自己嫌悪。

 そして、全てを塗り潰す絶望の暗闇。

 自らの臣下すら斬らせ、時間をかけて「信頼」という名の毒を注ぎ込んできたその凶行。

 それを露ほども見抜けず、手を取り合っていた、愚かな自分。

 少なくとも。

 自分にはもう――この世のどこを探しても、明るい光など残されていないように思える。

 そう思った――その瞬間だった。

 秀兵衛の傷ついた肉体の底から、どろりと濁った、それでいて凍りつくような冷気を孕んだ妖気が溢れ出した。

 最初は、傷口から立ち上る細い煙に過ぎなかった。

 だがそれは瞬く間に、鈴ヶ森の処刑場全てを飲み込むほど巨大な漆黒の渦へと変貌し、秀兵衛の身体を核として荒れ狂い始める。

 夜空の雲を掻き乱し、月光さえも遮断する絶望の奔流。

「くっ……。な、なんだ……これは……!?」

 空中へ退避した淵鵺が、驚愕に目を見開く。

数百年の怨嗟を束ねた自分ですら経験したことのない、あまりに純粋で、あまりに苛烈な「負」の質量。

 一方で、その嵐の只中に立つ化け狐は、頬を紅潮させ、恍惚とした表情でその光景を仰いでいた。

「ああ……なんて、なんて美しいの……」

 まるで、待ち焦がれた恋人の真の姿を、初めて目にした少女のように。

 やがて、天を衝くほどの妖気の渦が、音を立てて一点へと収縮を始めた。

 行き場を失った膨大な妖力は、吸い込まれるように一つの「起点」へと凝縮していく。

 それは――化け狐が小刀で刻んだ、秀兵衛の喉元の細い傷。

 そこが底なしの淵となり、全ての闇を飲み込んでいく。

 そして。

 全ての妖気が肉体へと爆発的に同化し、余剰の力が紫黒の霧となって辺りを覆い隠した。

 濃い霧の向こうで、影が静かに、しかし力強く揺れる。

 やがて霧が夜風にさらわれ、ゆっくりと晴れていった。

 そこに立っていたのは――。

 額からは、天を突く一本の禍々しい角が生え。

 裂けた顎からは、獲物を噛み砕く鋭い牙が覗く。

 そして、その瞳は――かつての理知を失い、血の色をした殺意の光を宿していた。

 それはもう、人の子、秀兵衛ではなかった。

 仮面は地に落ち、内側からの圧力に耐えかねたかのように砕け散っている。

 その右手には、いつの間にか、地獄の業火を吸い込んだかのように黒ずんだ愛刀が握られていた。

 その切っ先が、音もなく、真っ直ぐに淵鵺へと向けられる。

「秀兵衛さん……! ああ、秀兵衛さん!!」

 化け狐が歓喜の声を上げ、駆け寄った。

 その声には、狂おしいほどの情念と、自らの願いが成就したことへの全能感が滲んでいる。

 彼女は背後から、新しく生まれ変わった「鬼」の背に抱きつこうと手を伸ばした。

しかし――。

 ドォッ!!

 次の瞬間。鬼は一瞥もくれず、背後へ向かって鋭い後ろ蹴りを放った。

 鈍い衝撃音が夜の静寂を打ち破る。

「……っ、がはっ!?」

 化け狐の身体が、紙屑のように軽々と後方へと吹き飛んだ。

 本性を現した妖であるはずの彼女ですら、反応することさえ叶わぬ、圧倒的な、無機質なまでの破壊力。

 化け狐は地面を転がり、着地しながらも信じられないものを見るかのように目を見開く。

 一方で、鬼となった秀兵衛は、彼女の方を振り返りすらしない。

 ただ、その赤く燃える瞳で、上空の淵鵺だけを射抜いていた。

「秀兵衛――いや」

 淵鵺が、重々しく、しかしどこか満足げに口を開く。

「同胞の『鬼』よ。その姿になってもなお、お主は我を斬るというのか?」

 それは、この絶望的な茶番における、最後の問いかけだった。

 鬼は答えない。

 ただ、爆ぜるような踏み込みと共に地を割り。

 次の刹那、空間を飛び越えるような速さで淵鵺へと斬りかかった。

 その迷いのない、獣じみた一撃を見て、淵鵺は静かに目を細める。

 そして、自らもまた「王」としての決意を固めた。

「いいだろう」

 低く、地鳴りのような声。

「その誇りごと、何度でも地に叩き伏せてやる」

 淵鵺の全身から、紅い雷火が溢れ出す。その声には、絶対的な力を持つ者特有の、揺るぎない自信が漲っていた。

「成り立ての鬼程度、我が力の前に屈するのみよ!」

 淵鵺は高らかに宣言し、迎撃の構えを取る。

 言葉で通じぬならば、力で組み伏せ、その魂を磨り潰してから改めて支配すればよい。

 なぜなら――。

 史上最強の座に君臨する自分こそが、この江戸の夜を統べる真の主なのだから。

 鬼の放った凄まじい斬撃を、淵鵺は真正面から受け止めた。

 これまで幾多の英傑や同胞を屠り、絶望させてきた豪腕の虎の爪。鋼をも容易く引き千切るその五指が、万力のような力で鬼の刀をがっしりと挟み込む。

 ――しかし。

 次の瞬間、処刑場の空気を震わせる不吉な軋み音と共に、その均衡がゆっくりと崩れ始めた。

「くっ……お、おのれ……!」

 淵鵺の巨躯が、わずかに沈む。

「な、なに……!? この力、まさか……」

 信じられない光景だった。これまで、羽虫でも払うかのように秀兵衛を軽々と弾き飛ばしてきたその剛爪が――逆に押し込まれている。

 鬼と化した秀兵衛の刀は、技術を越えた純粋な破壊の質量で淵鵺を圧倒していた。黒ずんだ刃がじりじりと淵鵺の防御を割り、猿の貌の鼻先まで肉薄する。

「くっ……クソ……がぁッ!」

 このままでは首を落とされる。そう直感した淵鵺は、鬼の凄まじい圧力を逆に利用した。自ら死力を振り絞って抵抗を解き、押し込まれる力を推進力に変えて後方へと大きく弾け飛ぶ。

 二人の間に、一瞬の空白が生まれた。

 淵鵺の蛇の尾が、鞭のように空気を打って威嚇する。次の瞬間、その身体は逃げるように闇の霧の中へと溶け、輪郭を失った。

 鬼は一度、荒れ果てた地に着地する。

 無闇には追わない。低く構え、金色の瞳を妖しく光らせながら、冷静に敵の「揺らぎ」を窺う。

 やがて――淵鵺は、鬼から最も距離を取った対角線上の空中に姿を現した。

 本能で理解していた。正面からの腕力勝負では、もはや分が悪い。ならば。

「戦い方を変えるまでよ……!」

 淵鵺は天を仰ぎ、喉を裂かんばかりに咆哮した。

 一度。二度。さらに三度。

 その禍々しい声が、鈴ヶ森の夜空を物理的に震わせる。

 雷の予兆を察した鬼は、即座に地を蹴った。その速度は――人間だった頃の秀兵衛を、あるいは化け狐のスミレさえも遥かに凌駕している。

 ドォォォォンッ!!

 紅い雷が夜空を割り、間髪入れずに降り注ぐ雷火。

 しかし。

 その神速の雷が捉えたのは、鬼が残した漆黒の残像だけだった。三つの雷撃全てが、ただ土を爆ぜさせ、虚空を穿つ。

 その一瞬の隙に、鬼は淵鵺との距離を零へと詰めていた。

 ついに、刃が届く死の間合い。

 鬼は躊躇なく踏み込み、その狂おしいまでの連撃を叩き込んだ。

 だが、それは単なる力任せの乱撃ではない。

秀兵衛がその生涯を賭して磨き上げた至高の剣技。

 ――「流転の型」。

 鬼の身体能力が、技の極致をさらに上の階梯へと押し上げていた。

 人間には不可能だった超高速の円運動。流れるような黒い剣の軌跡。美しい斬撃の連なりが、夜の闇に幾重もの円環を描く。

 それはもはや、真の、完成された流転の型と呼ぶべき神速の演舞。

 一撃ごとに大気を断ち、重厚な威力が増していくその刃が、淵鵺の豪腕を、肩を、胴を次々と斬り刻んでいく。防ぎきれなかった箇所からは黒い霧が噴き出し、身体ごと無残に裂かれていった。

「グハッ……! あ、あああああッ!」

 淵鵺が絶叫に近い呻きを漏らす。

「貴様……貴様ぁッ!」

 生まれて初めて味わう「敗北」の予感。そして、鋭利な痛み。

 淵鵺は必死に蛇の尾を伸ばして空気を打ち、その反動を利用して、溺れる者が水を掻くように闇の中へと身を滑り込ませた。鬼の苛烈な連撃から、辛うじて離脱する。

 再び距離を取り、震えながら闇の霧の中から姿を現した淵鵺。

 その醜悪な猿の顔には、隠しようのない苦悶と屈辱が張り付いていた。

 荒い息を吐きながら、彼は鬼へと呪詛を吐きかける。

「確かに……強く、なったようだな……」

 血を吐き捨てるように、低く、冷笑的に呟く。

「だがな」

 その瞳が、勝ち誇ったように鋭く光った。

「結局、貴様の原動力も……我らと同じ『復讐心』だったということだ」

 嘲るように言い放つ。

「貴様も所詮、怨みと憎しみでしか動けぬ怪物よ。我ら妖と同類だ」

 かつて、高潔な剣士であった秀兵衛が説いた言葉。

 ――復讐とは、過去に囚われた者の行い。

 その理想は、土壇場で脆くも崩れ去った。現に今、秀兵衛自身が怨念を糧とし、人の理を捨てた妖へと成り下がっている。

 その挑発が、鬼の心に届いたのか。

 一瞬、鬼の身体がさらに低く沈み、周囲の空気が凍りついた。

 そして、次の瞬間。

 地を粉砕する爆発的な踏み込み。

 鬼は一点の曇りもない直線となって、淵鵺の喉元へと肉薄した。

 鬼が地を蹴った瞬間、背後で怒れる雷鳴が轟いた。

 淵鵺が呼び寄せた極大の雷火が、夜空を真っ二つに裂いて降り注ぐ。

 だが――その苛烈な光の柱は、ただの一本たりとも「鬼」を捉えることはできなかった。

 稲光は虚しく、鬼が駆け抜けた後の残像を穿つのみ。

 鬼は迷いなき一直線の軌跡を描き、淵鵺の懐へと肉薄する。その動きは、先ほど淵鵺を圧倒した連撃の再現――そう見えた。

 しかし、鬼の眼に宿る金色の光は、さらなる深淵を見据えていた。

 同じ手では、この大妖を完全に屠るには至らない。

 故に、鬼は制止を振り切るようにさらに踏み込み、淵鵺との間合いを、物理的限界を超えて一気に詰め切った。

そして――そのまま、淵鵺の巨体をすれ違いざまに通り越した。

「なっ――!? 」

 淵鵺の顔に、初めて真の驚愕が浮かぶ。

 鬼は振り向きもしない。背後へと抜ける刹那、その標的を「本体」から切り替えていた。

 淵鵺の背後で、弱点である蛇の尾が威嚇するようにうねる。

 鬼は、その無防備な尾へ向けて、黒ずんだ刀を音速の彼方から振り抜いた。

 淵鵺は咄嗟に振り返り、迎え撃とうとする。だが、時すでに遅し。

 鋭利な一閃が、呪わしくうねる蛇の尾を、根元から一刀両断に処した。

「シュアアアアアッ!!」

 尾が断末魔の絶叫を上げる。切り離されたその身は空中でボロボロと崩れ、浄化されることもなく汚濁した霧となって消えていった。

 しかし、これだけでは終わらない。

 淵鵺には、二つの核がある。今斬った尾の核、そして――猿の「頭部」。

 その両方を、再生の暇を与えず同時に断たねば、この怪物は終わらない。

 鬼は着地と同時に、独楽こまのような鋭さで切り返した。

 尾を失い、均衡を崩した淵鵺へと再び踏み込み、その眉間へと切っ先を向ける。

 そして――「流転の型」が、再び夜空に血の円環を描いた。

 淀みのない剣の流れ。

 鋭い斬撃が、淵鵺の猿の頭部を、肉を、骨を、次々と刻み細分化していく。

「くっ……おのれぇッ!」

 淵鵺は砕けゆく牙を食いしばる。

「意識のない……ただの、殺戮人形め……!」

 淵鵺は間近で見たのだ。鬼の瞳に宿る、意志なき光を。

 そこにあるのは正義でも、ましてや淵鵺が嘲笑った復讐心ですらない。ただ、眼前の敵を滅ぼすという「機能」だけが駆動する、修羅の光。

 実際、その通りだった。鬼の身体は、もはや思考を介さず、ただ生存本能と滅殺の理に従って動いているに過ぎない。

 淵鵺は修羅の連撃の雨に打たれ、急速に疲弊していく。虎の剛腕はすでにズタズタに裂け、黒い霧が噴き出している。それでもなお、本能的な恐怖に突き動かされ、必死に守りを固めるが――。

 その絶望的な防御は、鬼の刃の前では薄紙に等しかった。

 一撃ごとに守りは打ち破られ、淵鵺の存在そのものが摩耗していく。

 そして。

 ついに、因縁を断ち切る決定的な一撃が放たれた。

 「流転」の最終局、螺旋を描くような一閃。

その刃が、淵鵺の猿の頭を――その奥に潜む核ごと、真っ向から斬り裂いた。

「グアアアアアアアアアッ!!」

 淵鵺が、江戸の全域に響き渡るほどの、最大最悪の絶叫を上げた。

 核は砕けた。尾も失った。本来なら、ここで霧散するはずだった。

 だが。

 淵鵺の執念は、死のことわりさえも一瞬だけ繋ぎ止めた。

 震えるボロボロの腕に、最後の、呪いにも似た力を込める。

 そして――自らの身体を貫いている鬼の刀を、折れんばかりの力で抱き留めた。

「逃さん……」

 淵鵺の声が、血混じりの霧となって漏れ出す。

「決して……貴様だけは、逃がさぬ……ッ!」

 その瞳が、暗い歓喜を孕んだ狂気に染まった。

「道連れだああああッ!!」

 怨嗟の声が夜気を震わせた直後。

 淵鵺は――自らへ向かって、天の理を逆撫でするような巨大な雷を呼び落とした。

 捨て身の自爆。

 天から垂直に落ちた最大級の紅雷が、淵鵺の身体を真っ直ぐに直撃する。

 凄まじい高電圧の電撃が、淵鵺の肉体を媒介にし、刀を伝って――鬼へと雪崩れ込んだ。

「――ッ!!アアアアアアアアアッ!!」

 人間とも妖ともつかぬ、魂を削り取るような絶叫が夜空に木霊する。

 次の瞬間。

 眩い閃光と共に、二つの影がもつれ合いながら、空から地へと真っ逆さまに落下した。

 激突。

 大地が悲鳴を上げて震え、衝突盆地を穿つ。

 淵鵺の身体は、衝撃と共に泥のように闇へと溶けていった。

 今度こそ、その存在は一片の塵も残さず、永劫の虚無へと消滅する。

 そして――。

 鬼の身体は、爆風に吹き飛ばされ、無造作に地面へと横たわっていた。

 その下では、処刑場を囲んでいた業火がいまだ猛り、燃え盛っている。

 炎は容赦なく、物言わぬ屍のようになった鬼の肉体を、静かに焼き続けていた。

 それを目指して化け狐は、一歩ずつ、灼けた土を踏みしめて近づいていった。

 周囲の業火が彼女の白い肌を赤く照らし、影を長く伸ばす。その足取りに、もはや迷いも、かつての瑞々しい欺瞞もなかった。

「秀兵衛さん」

 静かに、祈るように呼びかける。

 最初のうち、鬼は死した石像のように微動だにしなかった。爆ぜる火の粉がその黒ずんだ肉体を焼き、煙が立ち昇る。だが、化け狐がその指先に触れられるほどの距離まで迫った、その刹那。

 鬼の身体が、獲物を察知した獣のようにぴくりと跳ねた。

 重く、軋むような音を立てて、鬼はゆっくりと上体を起こす。

 その動作は呪いのように鈍いが、逃れられぬ運命のように確実だった。

 立ち上がったその目に、かつての「妖斬り、柳島秀兵衛」としての意志の光はない。

 ただ、底なしの闇が渦巻く金色の瞳が、目の前の標的――化け狐を捉えていた。

 鬼はおぼつかない足取りで一歩を踏み出す。傍らに転がる愛刀には一瞥もくれない。

 ただ、化け狐を肉の塊へと変えるためだけに、その巨躯が前傾する。

 直後、空気を爆ぜさせるほどの鋭い蹴りが放たれた。

 躊躇のない、純粋な殺意の塊。

 裏切られた絶望が、彼を理性なき修羅へと変えてしまったのか。あるいは、己を陥れた女への拭い去れぬ怨嗟が、身体を突き動かしているのか。

 だが、化け狐はその答えを、誰よりも深く理解していた。

 否。化け狐と化したスミレはその答えを知っていた。

 彼女は静かに、自らを包んでいた膨大な妖気を霧散させる。

 耳も、尾も、異形の気配も消え――再び、秀兵衛が愛した「弟子」の姿へと戻った。

 そして、襲い来る鬼の蹴りを、舞うような身のこなしで紙一重に回避する。

 突風が彼女の頬を切り裂かんばかりに掠めるが、スミレはその勢いに乗って通り過ぎようとする鬼の足を、細い片手でそっと触った。

「秀兵衛さんは今、私のことを怨んでいることでしょう」

 静寂に包まれたこの地で、彼女は静かに声を紡ぐ。

「裏切られた怒りで、私を今すぐにでも殺したい気持ちでいっぱいでしょう」

 一拍置いて、彼女は続ける。

「でも……貴方はそうはしないんですね」

 スミレは、感情を失った鬼の双眸を、真っ直ぐに見上げた。

「刀を握り、あの一閃を振るえば……私を斬ることなど、瞬きよりも容易いというのに」

 そう。

 鬼は、頑なに刀を手に取ろうとはしなかった。

 先ほど彼女を蹴り飛ばした時も。今、殺意に満ちた連撃を放とうとしているこの瞬間も。

 その一点に、スミレは賭けていた。

 秀兵衛の魂の深奥に、まだ、焼き切れていない「慈しみ」の破片が残っていることを。

「本当に、ごめんなさい」

 スミレの声が、初めて震えた。

「私は、貴方が心を失うほどに……修羅と化すまで絶望させてしまうとは、思いもしなかった。私の身勝手な愛が、貴方をここまで壊してしまった」

 彼女は、泥と灰にまみれた地面に深く頭を下げた。

「どうか……私にお詫びをさせてください」

 鬼は、その平伏する姿を前にして、一瞬だけ動きを止めた。

 喉の奥から、言葉にならない掠れた呻きが漏れる。だが、沈黙は重く、夜を支配し続けた。

 スミレはゆっくりと顔を上げた。その頬は、熱風のせいではなく、溢れ出した涙で濡れていた。

「……厚かましい願いだとは、分かっています」

 悲しげな自嘲の笑みが、彼女の唇に浮かぶ。

「でも、私は、貴方を止めたくて……」

 彼女の肩が激しく上下し、嗚咽が混じる。

「これだけは……嘘じゃなかった。貴方と過ごした時間は、私にとっての全てだった……!」

 スミレは、立ち上がった鬼の、冷たく硬い身体へと迷わず抱きついた。

 小さな、折れそうな腕。だが、その抱擁は決して離さないという執念に満ちていた。

 彼女は「化け狐」として数年を生きてきたかもしれない。だが、その中身は、愛の伝え方を知らぬまま時を止めてしまった、孤独な子供のままだった。

 こんな歪な形でしか、誰かを愛することができなかった。

 スミレの身体の熱が、涙となって鬼の焦げた着物を濡らしていく。

 ぽたり。

 ぽたりと。

 その雫が落ちるたびに、鬼の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。

 それはあまりに微かな、魂の揺らぎ。

 だが、その震えは確かに、深淵に沈んでいた秀兵衛へと届いていた。

 ――復讐は、何も生まない。

 ――ただ、悲しみの螺旋を広げるだけだ。

 かつて、自分が信じ、他者に説き続けてきた言葉。

 秀兵衛は、崩壊しかけた意識の中でその言葉を反芻する。

(ここで彼女を殺しても……俺の夜は明けない)

 確信した。

 だが、今の彼の肉体は、怨念によって再構成された「修羅」そのものだ。

 内側の秀兵衛が「許し」を求めても、外側の鬼は――自分を弄んだ敵を、今すぐにでも引き裂きたいという渇望に打ち震えていた。

殺意と慈愛。

 二つの相反する衝動が、鬼の肉体の中で激しく衝突し、火花を散らす。

 修羅の鬼が、ゆっくりと、しかし確実な殺意を孕んで右足を持ち上げた。

 強靭な筋繊維が軋み、膝が深く折れる。

 爆発的な踏み込みの予兆。

 まともに喰らえば、人間の少女の形をとったスミレの身体など、容易くひき肉へと変えてしまうだろう。

(まずい――!)

 秀兵衛は、自身の魂の深奥で絶叫した。

 どす黒い衝動に支配され、自分の意思を無視して駆動しようとする「鬼」の肉体を、千切れるほどの精神力で押さえ込む。

 だが――限界だった。

 身体の主導権を握っているのは、絶望から生まれた修羅の側だ。その暴力的な生命力は、疲弊した秀兵衛の理性を濁流のように飲み込んでいく。

 このままでは、愛しき弟子を、守りたかったはずの存在を、自らの足で踏み殺してしまう。

(何か……奴を止める、俺を止める方法は……!)

 混濁する視界の中で、秀兵衛は必死に周囲を、そして自分に縋りつくスミレの姿を走査した。

 その時、炎の照り返しの中に、鋭い銀の光を見た。

 スミレの懐。

 かつて自分が授け、先ほど彼女が自身の喉元に突きつけた、あの小刀。

「……ス、ミレ……」

 鬼の裂けた喉から、地を這うような重低音が漏れ出た。

 スミレは弾かれたように顔を上げる。

「その小刀で……俺の胸を、突け……」

 あまりにも短く、あまりにも残酷な指示。

 だが、秀兵衛にはもう、言葉を飾る余裕も、身体を繋ぎ止める端緒も残されていなかった。

「……え?」

 スミレの瞳が、驚愕に激しく揺れる。

「で、でも、そんなことをしたら……秀兵衛さんが……!」

 死んでしまう。

 自分の手で、唯一の拠り所を殺めてしまう。その恐怖が彼女の指先を凍りつかせた。

「……大丈夫だ」

 鬼の貌が、一瞬だけ苦痛に歪む。

「核は……別の場所だ……」

 嘘ではない。鬼と化した今の彼にとって、胸の傷は致命傷にはならない。だが、その衝撃こそが、暴走する修羅の脈動を一時的に停止させる唯一のくさびとなる。

 だが、その説明の間にも、鬼の脚に溜め込まれた破壊の奔流は、今にも堰を切って放たれようとしていた。

「……だから!」

 秀兵衛は、残された全霊の叫びを、鬼の咆哮に乗せて叩きつけた。

「早く!!」

 その怒号が、鈴ヶ森の夜気を切り裂く。

 スミレは一瞬、絶望の淵で躊躇った。

 握った拳が、小刻みに震える。

 だが――彼女の「化け狐」としての眼が、鬼の肉体の奥、脈打つ妖気の流れを冷徹に捉えていた。

(秀兵衛さんの核は……頭部にある。胸を突いても、死なない……!)

 スミレの脳裏に、これまでの旅路が走馬灯のように駆け巡る。

 自分は今まで、何度、彼の言葉を信じて戦ってきただろうか。

 理屈ではなく、ただ彼という人間を信じて、どれほどの死線を越えてきただろうか。

(今も同じ……)

 胸の奥で、熱い決意が氷のような恐怖を溶かしていく。

(秀兵衛さんを信じれば、道は拓ける……!)

 スミレは意を決し、震える手で懐の小刀を抜き放った。

 直後。

 秀兵衛の最後の抗いを力ずくでねじ伏せ、鬼の脚がついに解放された。

 空気を爆ぜさせ、死の軌跡を描いてスミレの頭部へと迫る、渾身の蹴り。

 しかし。

 それよりも、わずかに早かった。

 スミレの身体が、本能的な鋭さで沈み込む。

 風のように、鋭く。

 迷いの欠片もない、魂の一突き。

 銀色の小刀が、鬼の胸板を深く、深く貫いた。

「グァハッ……!!」

 鬼の身体が落雷を浴びたように激しく打ち震える。

 蹴り出された脚は標的を逸れ、虚空を薙いだ。

 その勢いのまま、鬼の巨躯は糸の切れた人形のように後方へと仰向けに倒れ込んだ。

 どさりと、重く土が舞う。

「秀兵衛さん!!」

 スミレが叫びながら、倒れ伏した彼に駆け寄る。

「大丈夫ですか、秀兵衛さん……返事をして!!」

 その頃には。

 不吉に夜空を覆っていた黒雲が、嘘のように静かに晴れ渡っていた。

 荒れ狂っていた雷鳴も、処刑場を囲んでいた執念の業火も、いつの間にか夜の闇へと吸い込まれて消えている。

 鈴ヶ森処刑場は、再び、死者の眠りを守るような深い静寂に包まれていた。

 その冷たい月光が降り注ぐ空間に。

 鬼の肉体を必死に揺さぶり、血を吐くような思いでその名を呼び続ける、スミレの悲哀に満ちた声だけが――。

 いつまでも、いつまでも、明けない夜の中に響き渡っていたのだった。


二、並び立つ影

 陽炎が立つ江戸川の土手に、二つの人影が並んで立っていた。

 片方は、鮮やかな着物に身を包んだ若い女。その頭上には、隠すこともない白銀の狐耳がぴくりと震え、背後では豊かな尻尾が初夏の風に揺れている。

 そしてその隣に立つ男の額には、一本の禍々しい角が天を突き、唇の間からは鋭い牙が覗いていた。

 二人の姿は、もはや人のことわりから遠く外れている。

 しかし。

 土手を行き交う町人や荷運びの男たちは、誰一人として足を止めることはなかった。二人のすぐ脇を通り過ぎ、肩が触れそうな距離になっても、不審に思う者すらおらず、ただ虚空を見つめるように通り過ぎていく。

 まるで、そこには始めから何も存在していないかのように。

「江戸の町は、今日も平和ですね」

 女性が、風に乱れる髪を細い指で押さえながら、慈しむように呟いた。

「これも、私たちが毎晩のように、闇に潜む輩を斬り伏せているからなんですけれど……」

 少しだけおどけて肩をすくめてみせる。

「生憎と、誰にも認識されることはありませんし…。感謝も、驚きも、何ひとつ」

 それでも、その横顔に寂寥の色はなかった。むしろ、選ばれた者だけが共有する秘密を慈しむような、誇らしげな響きさえある。

 彼女は隣に屹立する男を見上げた。

「秀兵衛さんは、この新しい生活にも慣れましたか?」

 問いかけに、狐の耳が愛らしく動く。

「お腹は空かないし、眠る必要もない。ただ、全力を出せるのは夜だけ、というのが玉に瑕ですけれど……」

 彼女の声は、春の陽だまりのように温かく、弾んでいた。

 しかし。

 隣に立つ男は、何も語らない。ただ、深く沈んだ金色の瞳で、悠々と流れる川面を静かに見つめている。

 いや――今の彼には、もう人の言葉を紡ぐ術は残されていないのかもしれない。

 その時、一陣の強い風が土手を吹き抜けた。

 青々と茂る草が波打ち、きらめく川面が銀色に爆ぜる。

 頭上には、万物を平等に照らす燦然たる太陽。昼の光が、江戸の活気を白く鮮やかに描き出している。

 だが。

 眩い光を浴びながらも、波音を響かせる川面に、二人の姿が映ることはなかった。

 岸辺の石にも、土手の草の上にも、重なるべき「影」が落ちていない。

 彼らは、確かにそこに在る。

 けれど、この世界とは異なる層を歩む、永劫の境界人。

 やがて、女性が小さく、満足げに息を吐いた。

 そして、かつて師に見せたのと同じ、あどけなさを残した微笑みを浮かべる。

「さあ、行きましょうか」

 彼女は、自分を陥れ、そして救ってくれた男の腕に、自らの腕を優しく絡めた。

「江戸の安寧を守るために東奔西走するのが、私たちの役目なのですから」

 女性が軽やかに一歩を踏み出す。

 それに引かれるように、鬼となった男もまた、重厚な、しかし音のない足取りで地を蹴った。

 寄り添い、消えては現れる二つの存在。

 誰にも見えず。誰にも知られず。

 それでも、彼らは確かにこの町の一部として、愛した未来を守り続けている。

 その背中は。

 永遠の時を歩んでいるようにも。

 あるいは。

 この一瞬を大切に生きているようにも見えた。

淵鵺(ふちぬえ)。大妖ー原妖。特定の何かではなく、江戸に積もり積もった多くの怨嗟が集って一体の妖となった姿。

()(ぎつね)。中妖ー転妖。スミレが妖となった姿。

修羅(しゅら)(おに)。大妖ー転妖。秀兵衛が妖となった姿。

 これにて完結です。ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。

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