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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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第九幕【後編】

一、毒の深淵

 秀兵衛とスミレは、建物が爆ぜるような音と、喉を掻き切るような悲鳴が木霊する方角へと泥を蹴って駆けていく。

 現場へ近づくほどに、地響きは大きく、空気は重く湿り気を帯びていった。

「――ッ! この腐臭……毒か!」

 鼻腔を直接灼かれるような、甘ったるくも吐き気を催す腐敗臭。秀兵衛が鋭く叫んだ直後、視界の先で、並び立つ家屋の屋根を軽々と越える巨躯が姿を現した。

 塵輪鬼じんりんき――その巨大な頭部が、朝靄の中に不気味に浮かび上がる。

 その頭上では、棘の付いた巨大な金砕棒が、逃げ惑う人々の絶望を嘲笑うかのように振りかぶられていた。

 次の瞬間。

 鼓膜を震わせる轟音が響き、一軒の商家が飴細工のように押し潰された。飛散する材木、砕け散る瓦。もうもうと立ち込める土煙の中から、逃げ遅れた住民の悲鳴が悲痛に響く。

「きゃああああ!」

 その混乱の極致、瓦礫の山の間から聞き覚えのある、野太い声が飛び込んできた。

「おい!もたもたしてねぇで早く逃げろ! 家財よりも自分の命の方が大切だろうが!」

 秀兵衛は一瞬、息を詰めた。

 声の主は、紛れもなくあの馴染みの同心だった。土埃にまみれながら、必死に住民を安全な方角へ押し戻している。

 二人は迷わずその元へ駆け寄った。

 塵輪鬼の巨躯までは、目と鼻の先。奴が一歩踏み出せば、その巨大な足に容易く踏み潰される距離だ。

「旦那! 大丈夫ですか!」

 秀兵衛の呼びかけに、同心が弾かれたように振り向いた。

「おお、秀兵衛か! 助かった、なんだか分からねぇが勝手に家が溶けて潰れていくんだ。……これが、『妖』の仕業ってやつか」

 その声音には、恐怖を通り越した確信と、役人としての意地が滲んでいた。

「ええ、そうです。旦那、ここから早く離れてください! 奴の一撃に巻き込まれます!」

 秀兵衛は、かつてないほど真剣な眼差しで退避を促した。だが、同心は歯を食いしばり、頑なに首を横に振った。

「そうしたいのは山々なんだがな……。この奥にまだ逃げ遅れた奴らがいる。住民を逃がすのは俺の務めだ。応援が揃うまで、ここを離れるわけにゃいかねぇんだよ」

 まだ夜が明けきらぬ早朝。配置についていた役人は少なく、最初に行き当たった彼の肩には、あまりにも重い責任がのしかかっていた。

 秀兵衛は苦い表情を浮かべ、拳を握りしめたが、やがて短く頷いた。

「……分かりました。ならば、私が奴を引きつけます。その間に住民を逃がし、旦那もここを離れてください」

「分かった、恩に着る。……だが秀兵衛、これだけは言っておく」

 同心が声を低め、苦痛に顔を歪ませながら告げる。

「辺りに飛び散ってるあの紫色の液体にだけは触れるな。あれは『毒』だ……。俺も、不覚を取って足をやられた」

 同心が着物の裾を捲り上げる。

 露わになったその足は、見るも無残に紫黒く変色し、肉が溶け落ちてただれていた。

「……これは……ッ!」

 秀兵衛は絶句した。

 塵輪鬼の周囲に漂うあの異常な腐臭の正体。そして、家屋を「溶かして」いたのは、奴の体から溢れ出す猛毒だったのだ。

 その惨状を見て、スミレも静かに一歩前へ出た。

「私も避難を手伝います。秀兵衛さんにはその間、一人で負担を強いることになりますが……一刻も早く片付けて参戦します。それまで、どうか」

 負傷した同心一人にこの現場を任せるのは、死ねと言っているに等しい。スミレの決断に、秀兵衛は深く、力強く頷いた。

「相分かった。……では、行ってくる!」

 秀兵衛は決意を湛えた瞳で、巨大な悪意の塊――塵輪鬼を真っ向から射抜く。

 そして仮面を着け、爆発的な踏み込みで地を蹴った。

 死を撒き散らす八顔の鬼のもとへ、一直線に駆け出す。

 それを見送った同心とスミレもまた、それぞれの覚悟を胸に動き始めた。二人は反対側へ散り、崩れゆく町の中で、命を救うための奔走を始めた。


 辺りの家屋は尽く叩き潰され、無惨な瓦礫の山が連なっていた。地面には所々に紫色の毒が溜まり、生き物の内臓をぶちまけたかのように不気味に泡立っている。

 秀兵衛はその猛毒の澱みを縫うように駆けた。僅かでも足を踏み入れれば、たちどころに肉を溶かされる死の迷路。一瞬の判断の遅れ、一度の足の滑りが、そのまま「終わり」を意味する。

 やがて、その圧倒的な巨躯が目前に迫る。

 塵輪鬼。

 背

 連ねし八つの顔が一斉に秀兵衛を捉え、それぞれが異なる歪んだ表情で不敵に笑った。

「お前が秀兵衛か」

 それは、待ち焦がれた獲物をようやく手中に収めたという、昏い悦びに満ちた声音だった。

(くっ……やはり、俺の情報は既に……!)

 動揺を奥歯で噛み殺し、秀兵衛は無言のまま踏み込む。名乗る必要などない。妖斬りにとって、言葉を交わすよりも先にすべきことは、ただ一つ――斬ることだ。

「おいおい、人間ってのは自己紹介もできねぇのか?」

 塵輪鬼は呆れたように鼻を鳴らす。巨躯に似合わぬ速度で、巨大な金砕棒が天へと振り上げられた。

「俺は塵輪鬼。地獄の底まで、その名を刻んでおけ」

 言葉の終わりと同時に――

 ドォォォォォンッ!

 金砕棒が振り下ろされ、大地が爆ぜた。衝撃で石畳が砕け、土煙が視界を遮る。

 塵輪鬼は、己の力に酔いしれるようにゆっくりと棒を持ち上げた。

 しかし、そこに死体はない。

 代わりに広がっていたのは、さらに広範囲にぶちまけられた毒の水溜まりのみ。

「……ッ」

 塵輪鬼の眉が僅かに寄る。

 その瞬間。

「こっちだ!」

 鋭い声と共に、無防備になった左足へ斬撃が走った。

 土煙の合間から、秀兵衛が飛び出していた。

淀みない足運び。流転の舞。

 一撃を放ち、その勢いのまま円を描き、さらに深く斬り付ける。連続する刃が、塵輪鬼の巨岩のような足を刻む。

 だが――。

「……それがどうした」

 声は、氷のように無感情だった。

 塵輪鬼は、足元で蠢く羽虫を見るかのように秀兵衛を見下ろしていた。

「なに…!?」

 秀兵衛の刃は確かに届いている。しかし、その肉は鋼を鍛え上げた岩のように硬く、刃先が深く食い込まない。痛みどころか、痒みすら感じていないのだ。

 塵輪鬼は無造作に、ゆっくりと左足を持ち上げる。

 そして。

「死ね」

 凄まじい質量が振り下ろされた。

 再び轟音。衝撃で地面が蜘蛛の巣状に裂け、逃げ場を塞ぐように毒液が飛散する。

 秀兵衛は間一髪、風となって跳ね退いた。

「くっ……!」

 歯を食いしばる。額を伝う汗が、目に入りそうになる。

(刃が通らない……! それに――)

 それどころか、あの巨体は存在そのものが武器だ。刀で受けることなど論外。物理的な破壊力に、触れれば終わりの猛毒が加わっている。

 塵輪鬼は、秀兵衛の機動力を封じるべく、左右の足を交互に振り下ろし始めた。

 その光景は、まるで無邪気な子どもが蟻を踏み潰して愉しんでいるかのようだった。

 ドォン! ドォン!

 轟音。衝撃。跳ねる瓦礫。

 秀兵衛は、回避に全神経を注ぐしかない。

「フン。自分の無力さに震えるがいい」

 八つの顔が、唱和するように嘲る。

「人間なぞ、その程度の矮小な存在に過ぎん。地へと沈め」

 妖は、多くの人間には視ることすら叶わぬ影。だがその振るう力は、余りに不条理で圧倒的だ。抗うことなど不可能――塵輪鬼から放たれるのは、対峙する者の魂を折る「絶望」そのものだった。

(……違う)

 秀兵衛は毒の水溜まりを避け、飛散する毒液を紙一重でかわしながら駆け続ける。

 観察する。

 分析する。

 金砕棒。振り下ろしの軌道。毒の飛散パターン。

 どうやら毒は、金砕棒の表面から滲み出ている。

 振り下ろした地点、接触した箇所にしか溜まらない。

 つまり、直接的な接触を避け続けている限り、即死は免れる。

 だが――攻める余地が、あまりに狭い。

 一歩でも判断を誤れば、肉を溶かされるか、骨を砕かれるかの二択。

 それでも、秀兵衛の瞳から光は消えていなかった。

 生き延びるためではない。

 この絶望を斬り裂き、勝利を掴み取るために。

 秀兵衛は唸りを上げて振り下ろされた金砕棒を、紙一重の転身で回避した。巨大な鉄塊が、鼻先を数寸の差で通り過ぎ、背後の大気を爆ぜさせる。掠めるだけでも五体を粉砕しかねないその一撃を、彼は恐怖ではなく、冷徹な観測の眼で捉えていた。

「……」

 足の届かぬ間合いを維持しながら、秀兵衛はわざと懐を晒すように一歩踏み込む。金砕棒を誘う、死の抱擁。

「チョロチョロと……いい加減に沈めッ!」

 苛立ちを爆発させた塵輪鬼が、全身の剛力を込めて棒を叩きつける。石畳が悲鳴を上げて砕け、土砂が礫となって飛散した。

 回避しながら、秀兵衛の唇が小さく動く。

「やはりか…」

 塵輪鬼は家屋を越える巨体であり、そのリーチは圧倒的だ。しかし、この広範囲を確実に「面」で叩き潰そうとすれば、金砕棒の重い側面を地面へ水平に叩きつけねばならない。

 その一撃に全ての威力を乗せるためには、上半身を深く折り込み、体重を乗せて屈む動作が不可欠。

 ――つまり、その瞬間だけは、天を突く高さにあるはずの頭部が、地上付近まで降りてくるのだ。

(弱点を、自ら晒している。ならば、そこが勝機だ)

 問題は、その一瞬でどう距離を詰めるか。だが、流転の型を極めんとする秀兵衛に迷いはなかった。

「さっさと――死ねいッ!」

 塵輪鬼の怒声と共に、空を覆う影が落ちてくる。

 秀兵衛は、度重なる回避からその着弾点を見切っていた。毒液の飛沫を避け、なおかつ最短距離となる地点へ、心臓を叩く鼓動と共に踏み込む。

 ズズゥゥゥンッ!!

 巨大な棒がすぐ傍を掠め、地面へ激突した。

 その直後、大地を伝って押し寄せる凄まじい衝撃の波。秀兵衛は抗うのではなく、その振動を自らの跳躍の糧とした。

(今だ――!)

 波に乗るように膝をバネにし、爆発的な勢いで地を蹴る。

 巻き上がる土埃を突き抜け、秀兵衛の身体は常人では到底届かぬ高みへと到達した。しかし、まだ足りない。

(ここからは、速さ勝負……!)

 空中で鮮やかに体勢を整えた秀兵衛は、塵輪鬼の左膝を足場として踏みつけた。その反動でさらに加速し、胸を蹴り、一気に肩へと駆け上がる。

「なっ……!?」

 自らの巨体の上を走る、羽虫のような違和感。塵輪鬼が驚愕に目を見開いた時には、既に秀兵衛は眼前に迫っていた。

 左肩に視線を落とした塵輪鬼は、そこに立つ人間の姿を捉え、咄嗟に左手で払おうとする。

 だが、秀兵衛の方が一瞬早い。

 八つの首を持つ塵輪鬼の肩から、端に位置する首までの距離は僅か。

 一気に間合いを詰め、逆風の中で刀を抜き放った。

「はあああ!」

 岩のように硬質な皮膚へ、鋼の刃を無理やり食い込ませる。全身の筋肉を撓わせ、一寸の躊躇もなく押し込んだ。

「ぐっ……グアッ……!?」

 初めて通った確かな痛み。塵輪鬼が喉の奥で唸る。

 刃が少しずつ強靭な肉を断ち割り、どす黒い血が飛沫となって秀兵衛の頬を濡らした。

 同時に、背後からは丸太のような左手が迫る。秀兵衛はその殺気を背中で察知していた。

(ここで退けば、次はない!)

 反発する筋肉の抵抗を、叫びと共に力でねじ伏せる。巨大な指が背に触れようとしたその刹那――。

 刃がついに頸骨を断った。

 一つの首が、断末魔もなく胴から離れ、虚空へと舞う。

「「「グアアアアアア!!」」」

 残る首が一斉に絶叫を上げた。秀兵衛はそのまま勢いを利用して肩の奥へと踏み込み、迫る巨大な手のひらを紙一重で回避する。

 しかし。

(……違う。これではない!)

 近距離で対峙して初めて分かった。斬り落としたこの首に、妖力の源泉たる「核」は存在しない。地上からは遠すぎて判別できなかった真実が、残酷に突きつけられる。

 直後、左右から巨大な両手が、拍手を打つように秀兵衛を圧殺せんと迫った。

 これ以上の滞在は自死に等しい。秀兵衛はやむなく肩から反転して飛び降り、荒れ狂う土煙の中、再び毒の溜まった地上へと着地した。

「人間ごときが……絶対に、生かしては返さん……!」

 塵輪鬼の残された七つの顔が、一斉に醜く憤怒に歪んだ。斬り落とされた首の断面からはどす黒い瘴気が噴き出し、怒りに震える巨躯は、周囲の瓦礫や家屋の残骸を塵芥ちりあくたのように払い退け、金砕棒を構えて大きく一回転した。凄まじい風圧だけで地面の土砂が巻き上がり、視界を茶色く染め上げる。

 続けて右足を踏み下ろす。

 ドォォォンッ!

 今度は左足。

 さらに巨体を跳ねさせ、両足で力任せに地を叩きつけた。地震のような衝撃に地面が大きく波打ち、秀兵衛の足元を狂わせる。

 だが――金砕棒は振り下ろさない。

 徹底して頭部を下げぬよう、棒を横に、あるいは斜めに振る構え。先ほどの失態を糧にし、弱点を晒さぬ「守りの攻め」へと戦い方を切り替えたのだ。

(……二度同じ轍は踏まない、か)

 秀兵衛は歯を食いしばる。先ほどのような、頭部を狙う千載一遇の好機は完全に封じられた。

 しばらくの間、彼は回避に専念する。踏みつけ、回転、跳躍。死の舞踏を踊るように身をこなしながら、攻撃の癖や速度、毒の飛散する角度を克明に頭へと刻み込んでいく。

 しかし。

(このままでは、こちらから攻める術がない。俺一人では、奴の重心を崩すことすら叶わぬか……)

 そう思考が影を落とした、その瞬間だった。

「秀兵衛さん! 住民の避難、全て完了しました! ここから加勢できます!」

 戦場に似つかわしくないほど、凛として澄んだ声が背後から響いた。

 振り返れば、仮面をつけたスミレが瓦礫の山の上に立っている。肩を激しく上下させ、息は上がっているが、その眼差しには塵一つない決意が宿っていた。

「スミレ! 助かった。ちょうど今、お前の力を必要としていたところだった」

 秀兵衛は瞬時に作戦を伝える。声に出さずとも、長年の修行で培われた信頼が、簡潔な指示を正確にスミレの心へ届けた。

 スミレは仮面の奥で迷いなく深く頷く。

「では――行くぞ!」

 二人は横に並び、同時に地を蹴った。

「なんだ?……ハッ、人間が一匹増えただけか」

 塵輪鬼は鼻で笑う。

「どうせ何もできやしない。まとめて泥を啜らせてやる!」

 金砕棒が唸りを上げて水平に振り回された。二人をまとめて叩き潰さんとする絶望の横一閃。

 スミレの脳裏に、先ほど受け取った秀兵衛の言葉が鮮明に蘇る。

『振り回しは接地面積が狭い。上に跳ぶな、懐へ潜れ!』

 初見のはずの巨獣の猛攻。だが、スミレの心に恐怖はない。

 彼女は前進して棒の懐へと滑り込み、回避。

 秀兵衛は後退してその円運動の外縁へ逃れ、回避。

 動きは対照的だが、狙いは一つに収束していた。

 塵輪鬼は自らの足元へ迫ったスミレを踏み潰そうと、巨大な左足を高く振り上げた。

『片足の踏みつけは、逆足へ走れ。奴の重心を追い越すんだ!』

 スミレは迷わず、振り上げられた左足を無視して右足側へと全速力で駆け抜けた。

 直後、背後で地面が爆ぜる轟音が響く。しかし彼女は振り返らず、そのまま巨体の奥深くへと入り込んだ。

 これにより、スミレは右側。秀兵衛は左側。

 巨大な塵輪鬼を挟む「挟撃」の陣形が完成した。

 互いに距離を取ったまま、目だけで意思を交わす。

 先に秀兵衛が動いた。あえて騒がしく地を蹴り、左足へと斬りかかる。

 塵輪鬼はそれを迎撃しようと、反射的に左足を振り上げた。

 その瞬間――死角となっていた右側から、スミレが疾走した。

「はぁぁぁっ!!」

 全体重を支えていた軸足――右足の関節へと、全力の斬撃を叩き込む。

「グアアッ!?」

 塵輪鬼が驚愕に目を見開いた。

 突然襲った激痛。左足を浮かせていたが故に、唯一の支えを打たれた巨躯が大きく揺らぐ。

 左足は振り下ろせず、巨体は崩れるように一歩、二歩と後退を余儀なくされた。

 秀兵衛が着地しながら、小さく頷く。「よくやった」という無言の賞賛。

 スミレもまた、仮面の奥で微かに微笑み、頷き返した。

「貴様ら……!」

 七つの顔全てに、底冷えするような真の怒りが宿る。塵輪鬼の周囲に漂う瘴気が一段と膨れ上がった。

 塵輪鬼は、もはや理性をかなぐり捨てた獣のように暴れ回る。

 金砕棒を力任せに振り回し、地を穿つたびに家屋の残骸をつぶてとして撒き散らす。巨体が動くたびに空気が震え、逃げ場を奪うような地響きが絶え間なく続く。

 しかし――。

 対峙する秀兵衛とスミレの心根が揺らぐことはなかった。

 二人は鏡のような静寂を保ち、常に冷静だった。塵輪鬼の大仰な一挙手一投足を冷徹に観察し、死線の隙間を縫うように回避と攻撃を繰り返す。焦りは毒となり、恐れは隙となる。それを熟知している二人の動きは、研ぎ澄まされた一対の刃のようだった。

 着実に、そして確実に。塵輪鬼の巨躯を支える両足へ、数多の傷を刻み込んでいく。

 片足での踏みつけは、懐へ潜り込む前進で。

 両足跳躍からの押し潰しは、速やかな後退で。

 いかに強大な破壊力といえど、その質量ゆえに生じる「硬直」だけは、妖の力をもってしても消し去ることはできない。

 時折、片足を上げてから一拍遅れて逆足を叩きつける「揺さぶり」も放たれたが、その予備動作の大きさは二人の眼を欺くには至らなかった。

 そして――ついに、その時が訪れる。

 塵輪鬼が焦燥に駆られ、右足で大地を激しく踏みつけた。

 その瞬間、全ての自重を支える左足が、逃れ得ぬ標的として棒立ちになる。

「ここだッ!」

 秀兵衛が爆ぜるように地を蹴った。

 幾度もの斬撃によって筋を断たれ、既に限界を迎えていたその部位へ、吸い込まれるように肉薄する。

「はあああああッ!」

 気迫と共に、魂を込めた一閃が左足の付け根へ深く食い込んだ。

 肉を裂き、骨を断つ。手に伝わる確かな崩壊の手応え。

「グアアアアアアアアッ!!」

 鼓膜を震わせる絶叫が大地を揺るがした。

 支えを失った塵輪鬼の巨体が、糸の切れた人形のように大きく傾ぎ、背後の瓦礫の山へと轟音を立てて倒れ込んだ。

 その刹那の隙を、秀兵衛は逃さない。

「スミレ、核を!」

「はいッ!」

 スミレは間髪入れずに応じ、仮面の奥で「真実」を射抜いた。

 倒れ伏した巨躯の奥、右肩から二番目の首――そこに脈打つ、禍々しい妖気の源泉。

 スミレは風と化して駆け出した。

 瓦礫を跳び、塵輪鬼の胴体を駆け上がり、迷いなくその首元へと到達する。

「これで、終いよ……!」

 渾身の力で小刀を突き立てた。

 硬質な皮膚を割り、肉の抵抗をねじ伏せ、確実に「核」へと刃を沈めていく。

 あと、数寸。

 その核を貫き、呪われた命を絶とうとした、その瞬間だった。

 塵輪鬼の残された七つの顔すべてに、底知れぬ怨嗟と、人間への狂おしいほどの憎悪が宿った。

「憎き……人間が……溶けて、混ざりて、消え失せろ……ッ!!」

 次の刹那。

 塵輪鬼の内側から、凝縮された莫大な妖気が狂ったように暴発した。

 凄まじい衝撃波。

 小刀を突き立てていたスミレの身体は、木の葉のように軽々と虚空へ吹き飛ばされた。

「くっ……!」

 スミレは瓦礫の上を激しく転がりながらも、反射的に受身を取り、即座に体勢を立て直す。

 土煙に霞む視界の中で、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 荒れ狂う妖気が霧散し、静寂が訪れる。

 だが、そこに立っていた「モノ」を見て――スミレは息を呑んだ。

「……あれは……」

 震える唇から、言葉が漏れる。

 そこにいたのは、もはや人の形を留めた鬼ではなかった。

 家屋を跨ぐほどに巨大な蜘蛛の胴体。鎌のように鋭く伸びる、節くれ立った八本の脚。そして、その異様な身体の上には、呪詛を吐き散らす巨大な牛の頭部が鎮座していた。

 伝説に謳われ、人々に恐れられた異形の怪物。

 真なる姿を現した「牛鬼(うしおに)」が、そこに降臨していた。



二、矮小なるもの

 塵輪鬼が牛鬼へと変貌する寸前――その内側の暗闇では、どろりとした怨嗟が、沸騰する泥のように渦巻いていた。

 それは塵輪鬼の、いや――「牛鬼」という怪異を形作る、あまりに凄惨な生前の記憶。

 牛鬼は、かつて八人の子どもだった。

 名も、育ちも、親の顔さえも異なる八人。何の縁もなかったはずの彼らを繋ぎ止めていたのは、血縁ではなく、ただ一つの残酷な「境遇」だった。

 冷たい鉄の檻。

 手足は太い縄で縛られ、逃げる術はない。痩せ細った身体、浮き出たあばら骨。その幼い体内には、刻一刻と命を削り、内臓を灼く「毒」が脈打っていた。

 やがて、重い足音と共に檻の前に二人の男が現れる。

 四十ほどの年頃。一人は威圧的に鞭を鳴らし、もう一人は左右の手に、不気味な色の液体が満ちた碗を抱えていた。

 鞭を持つ男が冷たく鍵を開け、子どもたちを獣のように一人ずつ檻の前へ引きずり出す。

 碗を持つ男が、表情を消して屈み込んだ。

 右手の碗には、どろりと濁った深い緑色の液体。

「今回の新薬だ。一滴残らず飲め」

 感情の欠片もない、地を這うような平坦な声。

 八人は左右二つの班に分けられた。

 まず右の班。一人目の子どもが、抗う力もなく口を無理やりこじ開けられ、緑の液体を流し込まれる。

「おえっ……苦っ……! あ、熱い……っ!」

 強烈な苦味と、喉を焼く熱感。耐えきれず吐き戻そうとした瞬間――。

 ピシィッ!

「吐くんじゃねぇ! 一滴残らず飲み込めや!」

 容赦なく鞭が振るわれた。幼い肌に新たな赤い筋が刻まれる。既にその身体は、癒えることのない痣と腫れ物で覆い尽くされていた。

 続いて左の班。

 男の左手の碗には、鼻を突く異臭を放つ紫色の液体。

 次の一人が、震えながらそれを飲まされる。

「ぐっ……! あがっ……!」

 飲み物とは思えぬ腐敗臭と、内臓を握り潰されるような激痛。

 そして、四人目。

「かはっ……!」

 その子は白目を剥き、激しく泡を吹いて前のめりに倒れた。

 男は無造作にその子の髪を掴み、生死を確かめるように首筋に指を当てる。

「チッ、死んだか。……この程度の分量にも耐えられねぇようじゃ、なんの参考にもならねぇな」

 男は、冷たくなった亡骸をゴミのように横へと投げ捨てた。

 まるで、使い古して壊れた道具を片付けるかのような手つきで。

「いいか? テメェらは、親にすら見捨てられたゴミ屑だ。俺が拾って生かしてやってるんだ、ありがたいと思え」

 子どもたちの多くは、貧困による口減らしで川へ流され、山へ捨てられた者たちだった。

 その絶望を男が買い取り――己の「薬」を完成させるための被験体として飼い慣らしていたのだ。

 男の職は、江戸でも名高い「薬師」だった。

 自ら毒を調合して子どもに与え、それを治すための薬を練る。こうして「人体」という犠牲の上に完成した薬は、安価で確かな効能を持つものとして江戸の町に出回った。

 男の腕を「名医」と称える者は多い。

 溢れる称賛。溢れる感謝。そして積み上がる富。

 だがその輝かしい名声の裏側で、名もなき子どもたちが一人、また一人と、声も上げられずに腐り落ちていった。

 この檻にいる八人も、やがて全員が同じ末路を辿る。

「せいぜい世間様(せけんさま)の役に立てよ。何の価値もなかったテメェらの命が、誰かの病を治す糧になるんだ。誇りを持って死んでいけ」

 男たちの嘲笑が響き、再び檻は閉ざされる。

 冷たい闇、死の匂い。

 極限の苦しみの中で、子どもたちの胸に募っていくものがあった。

 初めは、目の前の男たちへの殺意だった。

 だが次第に、その憎悪は檻の外側――江戸の町全てへと向けられていく。

 なぜ、自分たちが犠牲にならねばならないのか。

 誰かの幸福や健康が、自分たちの尊厳を溶かした上に成り立っているというのなら。

 そんな世間に、意味はあるのか。

 小を切り捨て、大を救う。

 それがこの世の正義だというのなら。

 ならば、その「大」なるもの全てに、この痛みを、この苦しみを刻みつけてやる。

 死の床で積み重なった八人の怨嗟。それは溶け合い、繋がり、一つの巨大な「呪い」へと形を成した。

 それが――牛鬼。

(小の苦しみを知らぬと言うのなら――)

(ならば貴様らも等しく、毒を啜り、泥を這え)

 力を得た犠牲者による、理不尽なまでの復讐。

 かつて檻で見下ろされた牛鬼の目に映るのは、常に「自分たちを使い潰した」矮小な人間共の姿。

 その内側から、限界を超えた妖気の奔流が爆発する。

 塵輪鬼という「鬼」の皮は粉々に砕け散り――。

 源流たる本性、八人の童子の絶望が寄り集まった巨大な「牛鬼」の怨嗟が、今、秀兵衛とスミレへと牙を剥いた。


「牛鬼……それがお前の正体か」

 妖気が晴れた先に立つ、巨大な異形を前にして、秀兵衛は低く、地を這うような声で言った。

 おぞましき蜘蛛の胴体に、怨嗟を湛えた牛の頭。八つの童子の絶望を宿した眼が、ぎらりと紅く濁った光を放つ。

「ああ……この形こそが馴染む……。溶けろ、混ざれ、全て無に帰せ……」

 八人の声が重なり合ったような、不気味で空洞を震わせる威圧的な響き。それは耳鳴りのように空気を震わせ、聞く者の精神を直接削り取るかのようだった。

「毒に溶けて、消え失せろ」

 牛鬼の裂けた口角が、吊り上がった。

 次の瞬間――。

 その顎から、紫色の猛毒をべったりと纏った蜘蛛の巣が、散弾のように複数吐き出された。それは空中で網のように広がり、周囲の瓦礫や路地を瞬く間に覆い尽くしていく。糸を伝って滴り落ちる粘液が、石畳をシュウシュウと音を立てて溶かしていった。

 そして。

 牛鬼は八本の節くれ立った脚で、爆発的に地を蹴った。

 突進。

 先ほどまでの塵輪鬼とは比較にならぬ、戦慄すべき速さ。巨大な蜘蛛脚がしなやかに、かつ強靭に動き、その巨躯からは想像もつかぬ身軽さで秀兵衛たちを追い詰める。

「散れッ!」

 秀兵衛の鋭い号令と同時に、二人は左右別方向へ跳んだ。

 間一髪。牛鬼はその間を、暴風を巻き起こしながら通り抜ける。

 だが、攻撃は止まらない。即座に壁を蹴って反転。再び、大地を削りながらの突進。また回避。

 かと思えば、今度は跳ねるような不規則な前進で翻弄してくる。

 着地のたびに地面が悲鳴を上げて揺れ、巻き上がる砂煙が視界を白く遮った。

 直線的な攻撃とはいえ、その質量と速度の掛け合わせはもはや天災に近い。秀兵衛とスミレは、絶え間ない回避によって後退を強いられ、徐々に毒の糸が張り巡らされた袋小路へと追い詰められていく。

 これまで牛鬼は、二人を同時に射程に収める位置から執拗に突進を繰り返していた。

 だが。

 突如として、その殺意の矛先がスミレ一人へと鋭く定まった。

「ッ……!」

 スミレは懸命に身を翻し、死線を潜り抜ける。蜘蛛脚の先端が彼女の背後を抉り、瓦礫が礫となって弾け飛ぶ。

 その刹那――。

 スミレを追う牛鬼の動きに釣られ、秀兵衛の正面が僅かに空いた。

(好機……!)

 秀兵衛は迷わず地を蹴り、ガラ空きとなった牛鬼の後方へと肉薄する。

 一閃で決めるべく、刀を高く振り上げた。

 しかし。

 それこそが八つの脚を持つ牛鬼の、狡猾な狙いだった。

 牛鬼は、物理的な法則を無視するかのような速度で急激に反転した。

 人の目では到底追い切れぬ、異形の旋回。

「――!?」

 反転の勢いのまま、牛鬼が至近距離で蜘蛛の巣を複数吐き出す。

 その一つが、振り上げた秀兵衛の刀へと直撃した。

 強烈な粘着と重圧。

 愛刀は吸い付くような糸に絡め取られ、その衝撃で秀兵衛の手から弾かれ、遥か後方へと吹き飛ばされた。

「なっ……」

 秀兵衛の目が見開かれる。

 丸腰。一瞬の、決定的な無防備。

 牛鬼の口角が、勝ち誇ったようにさらに跳ね上がった。

 地を抉り、土煙を撒き散らしながら、一直線に秀兵衛へと迫る牛の頭。

「秀兵衛さん!」

 背後で異変に気づいたスミレが、悲鳴に近い叫びを上げた。

 彼女は弾かれたように反転し、己の命を顧みず、秀兵衛を救うべく牛鬼の背後へと駆けた。

 全体重を乗せ、小刀をその胴体へ叩きつける。

 だが――。

 キィィィィィンッ! と、火花を散らして刃が弾かれた。

 蜘蛛の外殻。先ほどの塵輪鬼とは次元の違う硬度。それはもはや生物の肉体ではなく、怨嗟によって鍛え上げられた鋼の如き強度を誇っていた。

 牛鬼は止まらない。

 スミレの攻撃を羽虫の羽ばたきほどにしか一顧だにせず、一直線に秀兵衛へと迫る。

 距離は、もう、ない。

 迫る牛の角。溢れ出す毒の吐息。

 秀兵衛の眼前に、死の影が色濃く落ちる。

 しかし秀兵衛はあえて、猛然と迫り来る牛鬼の眼前に不動のまま立った。

 背後に飛ばされた刀を拾いに行く素振りすら見せない。

 両腕を悠然と広げ、死の突進をそのまま受け止めようとするかのような、あまりに無防備な姿勢。仮面の奥で顔を伏せ、微動だにしない。

「フッ、無様に弾け飛べ!」

 牛鬼の紅い眼には、その姿が絶望の果てに死を受け入れたものにしか映らなかった。勝利を確信した異形の笑みが裂け、鋭く長い二本の角が、今まさに秀兵衛の胸を貫こうと肉薄する。

 その瞬間――。

 秀兵衛の瞳が、凍てつくような決意の光を宿した。

 氷の上を滑るような足運びで、僅かに左へ。一閃の如き最小限の動きで、牛鬼の顔の右側面へと回り込む。

 そして。

 剥き出しになった右の角を、両手で力強く掴んだ。

「ッ――!」

 そのまま、突進の勢いを利用するように前方下方向へ――全体重を乗せて一気に押し出す。

 常人ならば触れた瞬間に腕ごと弾き飛ばされる暴挙。だが、牛鬼は全霊を込めた突進の真っ只中だ。全ての質量と慣性が前方の一点に向かっている。

 故に、その先端に加わった「わずかな重心の乱れ」だけで、事足りた。

「なっ……!?」

 牛鬼の巨大な後方が、自らの推進力に耐えきれず浮き上がった。

 重力のことわりが崩れ、巨体が前のめりに、無様に崩れる。

 次の瞬間、牛鬼は天地を逆転させながら豪快に宙を舞い、そのまま背後の瓦礫の山へと叩きつけられた。

 ドォォォォォンッ!!

 鼓膜を劈く轟音。爆ぜる砂煙。

 秀兵衛は静かにその光景を見届けると、踵を返して蜘蛛の巣に張り付いていた刀のもとへ歩み寄った。絡みつく粘糸を力任せに引き剥がし、刃の欠けがないかを確かめてから、ゆっくりと鞘へ収める。

「すごいです、秀兵衛さん! 私には、本当に死を待っているようにしか見えなくて……!」

 スミレが駆け寄り、興奮と安堵を入り混ぜた震える声で言った。

「いや、俺にとっても一か八かの賭けだった。奴の怒りが、その巨体の力を全て前方へ向けてくれたおかげだ。上手く運べて良かった」

 秀兵衛は小さく呼気を吐き出し、胸を撫で下ろす。だが、戦いが終わっていないことは百も承知だった。

 やがて砂煙が晴れる。

 瓦礫の山の中から、牛鬼がゆっくりと、地を這うような動作で上体を起こした。泥にまみれた牛の頭部が、血走った紅い眼で二人を凝視する。

「貴様……人間風情が……!!」

 自ら仕掛けた罠を逆用され、文字通り投げ飛ばされた絶望的な屈辱。底なしの怒りがその眼に、そして全身から漏れ出る瘴気に燃え上がる。

「もう一度やるか? 今度はもっと高く投げてやろう」

 秀兵衛は挑発するように、再び刀を抜かずに両腕を広げてみせた。

 しかし、牛鬼はもはやその誘いに乗るほど、怒りに我を忘れてはいなかった。

 蜘蛛脚をバネのようにしならせ、垂直に跳躍する。

 夜明け前の暗い空へ。重力を無視した奇襲。

(……やはり、上に来たか)

 秀兵衛は目を細め、上空に舞う巨大な影を見据えた。

 投げ続けて体力を削る策には、もう出ない。それは牛鬼も、そして秀兵衛も理解している。

 そして、秀兵衛の胸中にもまた、次なる「策」が形を成していた。

 だが、この策は文字通り、命を賭金にするに等しい。

 一瞬の判断の誤り、一歩の踏み込みの遅れが、即座に肉体を挽肉へと変えるだろう。

 秀兵衛は降下してくる死の塊を冷静に見据えた。

 まずは――敵を識ること。

 その空中での挙動、降下の癖、毒糸を吐く間合い。

 全てをこの眼に、脳に、魂に焼き付けねばならない。

 秀兵衛は静かに、かつてないほど深く重心を落とし、構えを取った。

 牛鬼は怒りと本能に従い、跳躍と着地を繰り返して地を震わせている。

 そのたびに瓦礫が礫となって跳ね、濃い土煙が二人の視界を奪わんと舞い上がる。

 だが、死線を幾度も超えてきた秀兵衛の眼は、その狂乱の中に「理」を見出していた。回を重ねるごとに、攻撃の範囲、跳躍の予備動作、着地の癖――そして、隠しきれぬ敵の弱点が露わになっていく。

「……やはりそうだ」

 秀兵衛は確信を得た。静かに思考を巡らせ、頭の中で一寸の狂いもない必勝の作戦を組み立てる。そして、短く鋭い言葉でスミレへその全てを伝えた。

「……はい、分かりました。お任せください」

 スミレは一度だけ深く頷く。その瞳に迷いはない。跳躍を繰り返す巨大な異形を、研ぎ澄まされた刃のような眼差しで見据える。

「……それでは、行きます!」

 次の瞬間、スミレが踏み込んだ。着地し、地を震わせたばかりの牛鬼へと、真正面から、最短距離で近づいていく。

 牛鬼は彼女一人が獲物だとは判断しなかった。二人まとめて踏み潰せば事足りると、再びその巨体を天へと躍らせる。

 その瞬間――。

 スミレは燕のような身のこなしで前へ滑り込み、牛鬼が飛び立った「真下」へと潜り抜けた。

「……本当だ」

 視界に飛び込んできた光景に、彼女は思わず目を見開いた。脳裏に、秀兵衛の言葉が鮮明に蘇る。

『牛鬼の裏面には、あの外殻特有の光沢が見当たらない。つまり、奴の腹側は守りが薄く、柔らかい』

 外殻に覆われた表面は、鈍い光を放つ難攻不落の要塞。だが、その裏側は光を一切返さぬ、闇のように深い肉の層だった。

 スミレは走り抜けながら、その「闇」を凝視する。

 視えた。

 蜘蛛の身体の中央、脈打つ妖気の奔流。そこに、確かに核がある。

 彼女の頭上を、牛鬼が跳躍の勢いのまま通り過ぎていく。

「核は、蜘蛛の身体の中央部分に! 」

 鋭い声が戦場に響き渡った。

 秀兵衛は短く頷き、牛鬼が次なる跳躍を見せた刹那、同じように真下へと潜り込む。

 上空から、数十石もの質量が迫る。一歩でも、一瞬でも遅れれば、即座に押し潰される死の間合い。

 秀兵衛は目を細め、腰の鞘に右手をかけた。

 その行動に、牛鬼は本能的な違和感を覚えた。己の裏面の弱点は自らも理解している。

「させん……!」

 牛鬼は空中で咄嗟に口を開き、広範囲を制圧する毒の蜘蛛糸を吐き出した。

 その一つが、秀兵衛の退路を断ち、動きを封じる。

 足が止まる。

 次の瞬間、秀兵衛の背中へ粘着質な蜘蛛の巣がべったりと絡みついた。

 ジュウ、という不気味な音と共に、衣が溶け、肉が灼ける。

 背中に走る、焼火箸を押し当てられたような激痛。

「くっ……」

 秀兵衛の顔が歪んだ。思わず目を背けようとしてしまう。

 身体をどうにか捩るも、一歩動くこともままならない。

 牛鬼の口角が、残酷に吊り上がる。

「潰れろォォォッ!」

 巨体が重力に従い、秀兵衛を圧殺せんと落下する――その刹那。

 ――キィィン!

 鮮烈な一閃。

 秀兵衛の背中にまとわりついていた蜘蛛の巣が、見事な太刀筋で断ち切られ、剥がれ落ちた。

「秀兵衛さん!」

 駆け戻ったスミレの小刀だった。

 言葉を交わす余裕はない。秀兵衛はただ、背中で彼女の信頼を受け取り、一気に刀を抜き放った。

 直後。

「「はあああああッ!!」」

 二人の気迫が重なり合った。

 上空からの落下の勢いを、秀兵衛は「流転」の円運動で己の剣速へと変える。

 全力を込めた二重の斬撃が、牛鬼の無防備な裏面の肉を断ち、その深奥へと深く抉り込んだ。

「これで、終いだ!」

 刃は吸い込まれるように核へ到達し――一気にそれを両断した。

「「「グアアアアアアアアア!!」」」

 牛鬼が八つの声を重ねがけ、地獄の底まで届くような、これまでにない最大の絶叫を上げた。

 巨体が空中で四散するように崩れ、左右へと分かれて倒れ落ちる。地面に触れた瞬間、その身体はかつて檻で流された涙のように、真っ黒な泥となって溶け、消えていった。

 周囲に張り巡らされていた毒の糸も、立ち込めていた腐臭も、朝の光に焼かれるように次第に霧散していく。

 訪れるのは、静寂。

 秀兵衛とスミレは同時に刀を収めた。そして、戦い抜いた証として、それぞれの仮面を外した。

 大きく息を吐き出す。焼けた肺が冷たい空気を求め、肩が激しく上下する。

 空を覆っていた重苦しい黒雲が、ゆっくりと割れていった。そこから差し込む一筋の陽光。清涼な風が、死闘の跡が残る二人の間を、優しく通り抜けた。

「……終わりましたね」

 スミレが、どこか遠くを見つめるような穏やかな声で言う。

「ああ。これで臣下は三体、全て斬ることができた」

 秀兵衛は深く頷き、力尽きた町を、そしてその向こうを見据えた。

「いよいよ残すは、淵鵺のみですね」

 二人は並んで前を向く。その視線の先に、この悲劇の元凶であり、討つべき最後の影が潜んでいる。

「奴を斬って、全ての決着をつけよう」

 覚悟は、すでに剣に宿っている。

 江戸を揺るがした長い夜が明け、戦いはいよいよ最後の、そして最も過酷な局面へと向かう。

牛鬼(うしおに)。大妖ー原妖。


次、最終章かも。

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