第122話 極振りヒーラー、銀の狐と一線の向こう
前回の失敗を、ティアは何度も反復していた。
枝を踏んだこと――それは確かに直接の原因だ。
だが、本質はそこではない。
索敵スキルを展開していたこと自体が、問題だった可能性がある。
スキルは魔力を消費する。
そして魔力は、完全には隠しきれず空気へ滲む。
白狐の異常な感知能力を思い返す。
あの鋭さなら、魔力の揺らぎすら捉えていてもおかしくない。
索敵を使いながら近づく行為は――
気づかれないための行動ではなく、自ら存在を知らせているのと同義だった。
「……スキルの魔力反応にも気づく。なら」
小さく息を吐く。
「スキルを使わずに進む」
結論は、静かに定まった。
翌朝。
ティアは再び霧の森へ向かう。
今日は誰にも告げなかった。
ステラとは、何かあれば呼ぶと約束している。それで十分だった。
余計な言葉も、見送りもいらない。
ただ、もう一度――あの銀白の気配に辿り着くために。
森の入口で立ち止まり、ティアは一度だけ深く息を吸った。
索敵スキルは使わない。
魔力の流れを完全に抑え込み、頼るのは自分の五感のみ。
――踏み込む。
霧が視界を覆い、昨日と同じ白い静寂が広がった。
音は柔らかく吸い込まれ、存在そのものが薄れていくような感覚。
ティアは呼吸を浅く整え、足音を消しながら進む。
スキルなしで森を読む行為は、戦闘とは別種の集中力を要求する。
葉の揺れ方。霧の流れ。鳥が鳴き止む瞬間。空気に混じる僅かな温度差。
それらすべてを同時に受け取り、思考ではなく感覚で処理していく。
三十分が経過した頃――空気が変わった。
霧の密度が明らかに濃い区域へ差し掛かり、ティアは自然に足を止める。
気配がある。
昨日と同じ質の、鋭く研ぎ澄まされた存在感。
スキルを使っていないにもかかわらず、はっきりと感じ取れた。
「……いる」
声にならない呟きとともに、視線だけを動かす。
霧の奥。
白い輪郭が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
――白狐。
昨日見た個体と同じだった。
銀白色の毛並み。
光を弾くような静かな艶。
そして、霧の中でも鈍く輝く銀の瞳。
耳がわずかに揺れる仕草まで、記憶と寸分違わない。
見間違えるはずがなかった。
昨日、霧の中へ溶けるように消えた――あの白狐だ。
一歩。
踏み出す前に足元を確認する。
枯れ葉、小枝、苔の具合――すべてを把握してから、音のない場所へ重心を移した。
白狐の耳が、わずかに揺れる。
ティアは即座に動きを止めた。
数秒。
白狐の視線が別の方向へ向く。
――今だ。
もう一歩。
今度は霧の流れを利用した。
風は左から右へ、ゆるやかに流れている。風上から外れないよう経路を選び、自分の気配が流れていかない角度を保ったまま距離を詰める。
白狐が振り返った。
ティアは木の幹に体を沿わせ、呼吸を止める。
心拍を意識的に落とし、存在そのものを薄めるように意識を絞った。
静寂。
やがて、白狐の視線がゆっくりと外れる。
距離が縮まるにつれ、白狐の警戒はさらに細かくなっていった。
耳の動きが増え、振り返る頻度が上がる。
それでも――逃げない。
気づいていないのではない。
気づきながらも、判断を保留している。
そんな、静かな緊張の揺らぎ。
五メートル。
四メートル。
そして――三メートル。
そこで、白狐が動きを止めた。
振り返りもせず、逃げもせず、ただその場に立ち止まる。
やがて、ゆっくりとティアの方へ顔を向けた。
銀の瞳が、真っ直ぐにティアを射抜く。
ティアもまた、動かなかった。
沈黙が流れる。
霧だけが、二者のあいだを静かに通り過ぎていった。
――逃げない。
昨日は一瞬で消えたというのに、今日は逃げようとしない。
ティアは白狐の目を見据えたまま、その理由を探る。
警戒はしている。全身の毛はわずかに逆立ち、耳は真っ直ぐに立っている。
それでも――足は動かない。
警戒している。
だが、逃げない。
初対面の相手には一線を引く。
距離を測り、実力を見極め、簡単には信用しない。
それでも、認めた相手には――少しずつ近づく。
そういう生き物なのかもしれない、とティアは思った。
そして、しばらくして気づく。
自分もまた、同じだということに。
初対面の相手には、常に一線を引く。
合理性を盾に距離を保ち、踏み込まれない場所で戦う。
それが癖になり、いつの間にかそれが普通になっていた。
目の前の白狐が、ティア自身と重なって見える。
――けれど。
その事実に、ティア自身はまだ気づいていなかった。
テイムの選択肢が、静かに浮かび上がった。
ティアは、しばらくそのウィンドウを見つめていた。
テイムするということは――
自由に森を駆けていたこの白狐の居場所を、自分のもとへと変えることを意味する。
合理的に考えれば、答えは決まっている。
白狐の索敵能力と幻影生成は、ティアの弱点を確実に補う。戦術的価値は高く、迷う理由などないはずだった。
それでも――ティアは、一拍だけ間を置いた。
やがて、ゆっくりと手を差し伸べる。
強制するでもなく、急かすでもない。
ただ、そこにあると示すように。
白狐が、静かに鼻先を近づけた。
柔らかな温もりが、指先に触れる。
一瞬の静寂。
――テイム成立。
表示が消えるのを見届けてから、ティアは小さく息を吐いた。
「……来てくれますか」
その言葉には、いつもの皮肉も、計算もなかった。
ギルドホームへ戻ると、リビングにはステラがいた。
扉が開く音に反応して顔を上げたステラは、次の瞬間、目を丸くする。
ティアの少し後ろ――肩の高さに寄り添うような距離で、白狐が静かに歩いていた。
銀白色の毛並みが室内の灯りを柔らかく受け、淡く光をまとっている。
「わあ……綺麗……! テイムできたんだ!」
素直な感嘆に、ティアは短く答えた。
「……二回目で」
「二回目ってすごくない?」
ヒマワリが本から視線を上げる。「掲示板、成功者ゼロだったよ」
「条件を整えれば、難しくありません」
事実だけを述べる声音だった。
「名前どうするの?」とステラが身を乗り出す。
「シロガネ。そのままですが」
ヒマワリは一度シロガネへ視線を落とし、それからティアを見た。
「似合ってる」
ティアは答えない。
否定も、肯定もせず、ただ静かに受け止める。
視線を落とすと、シロガネがこちらを見上げていた。
銀の瞳が、揺れることなくティアを映している。
鼻先がわずかに動き、耳が小さく揺れた。
警戒でも威嚇でもない、ただそこにいることを確かめるような仕草だった。
――かわいい。
そう思った瞬間、ほんのわずかに口元が緩んだ。
自分でも気づかないほど、小さな変化だった。
ティアはすぐに視線を外し、何事もなかったように呟く。
「……よろしく」
その声に応えるように、シロガネの耳が一度だけ、静かに動いた。
次は5/9 21時投稿予定
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