第121話 極振りヒーラー、気配を消す者
掲示板に上がっていた報告は、簡潔だった。
霧深い森エリアに生息する特殊モンスター。
索敵系スキルへの反応が異様なほど鋭く、複数人で近づいた瞬間に気配を察して姿を消す。
追跡を試みたプレイヤーは、例外なく見失っていた。
テイム成功の記録は――まだない。
「……複数人では近づけない、か」
ティアはウィンドウを閉じ、静かに立ち上がる。
条件は明確だった。
単独で、気配を殺し、慎重に距離を詰める。
自分の戦い方と方向性は変わらない。
ただそれを、戦闘ではなく“接触”に使うだけだ。
装備を確認し、弓の弦を一度だけ張り直す。
矢筒の残数も問題ない。
《七の矢・神降》は温存。
全霊を込めた一射である代わりに、発動中は動けない。霧の森で使うべき札ではないと判断していた。
支度を終え、ギルドホームを出ようとした時だった。
「ティアちゃん、どこ行くの?」
ソファから声がかかる。ステラだった。
「索敵です。一人の方が都合がいい」
「そっか。気を付けてね。何かあったら呼んで」
引き止める様子はない。
ただ柔らかく送り出す声だった。
ティアは一歩踏み出しかけて、ふと足を止める。
「……止めないんですか」
「うん。ティアちゃんが一人の方がいいって言うなら、大丈夫だと思うから」
ステラは少しだけ首を傾け、当たり前のことを言うように微笑んだ。
「でも、無理はしないでね」
迷いも、過剰な心配もない。
ただ静かな信頼だけがあった。
「…………行ってきます」
短く告げ、ティアは今度こそ扉を開ける。
廊下に出たあと、わずかに歩調が緩んだ。
――理由は、自分でも分からなかった。
霧深い森エリアは、第四層の北端に広がっていた。
踏み込んだ瞬間、視界が白く霞む。
五メートル先の木の輪郭が滲み、十メートル先はほとんど見えない。足元だけが、かろうじて判別できた。
ティアは呼吸を整え、歩幅を小さくする。
足音を殺し、重心を低く保ったまま、枝や枯れ葉を踏まないよう一歩ずつ確かめて進んだ。
索敵スキルを展開。
周囲の気配が、淡い光点となって意識の中に浮かび上がる。
鳥の類。小型の魔獣。遠方で動く中型モンスター。
それらを頭の中で整理しながら、目的の反応だけを探し続けた。
「……いない」
三十分ほど歩いたところで、ティアは一度足を止める。
掲示板の情報では、より霧の濃い区域に生息しているという。
――まだ奥だ。
さらに進むにつれ、霧の密度が増していく。
木々は密集し、光はほとんど届かない。
静けさが、耳に圧力をかけるようだった。
そして――
索敵に、引っかかった。
小さな光点が、霧の奥で静止していた。
他のモンスターとは明らかに異なる――鋭く、澄んだ気配。
ティアは動きを止める。
視線だけを向けると、霧の中に白い影がぼんやりと浮かび上がっていた。
銀白色の毛並みが、光源のない森の中でかすかに発光しているように見える。
耳と尻尾の先だけが、淡い青を帯びていた。
小型の白狐が、霧の中に佇んでいる。
こちらを見ていないのに、こちらを知っている気配だった。
――白狐。
掲示板の報告にあった名称と、目の前の存在が一致した。
ティアは、そっと一歩を踏み出す。
その瞬間――白狐の耳が、ぴくりと動いた。
反射的に、ティアは息を止める。
全身の動きを殺し、木の幹へ意識を溶け込ませるように静止した。
心拍すら抑え込むように、ゆっくりと息を逃がす。
数秒。
永遠にも思える静寂が流れる。
やがて白狐の視線が、ゆっくりと別の方向へ向いた。
「……気づかれなかった」
声にならないほど小さく、唇だけが動く。
索敵の感知範囲から外れたわけではない。
気配を完全に沈めたことで、反応の閾値を下回ったのだ。
ティアは慎重に、次の一手を思考する。
距離はまだ十メートル以上。
一歩ずつ、確実に詰める。
――焦れば終わり。
本能が、静かにそう告げていた。
五分をかけて、三メートルほど距離を縮めた。
白狐は動かない。
時折耳だけを揺らし、周囲を確かめながらも、その場に留まっている。
――もう少し。
ティアが次の一歩を踏み出した、その瞬間だった。
乾いた音が、静寂を裂く。
枝。
霧で湿っていると思っていたそれは、わずかな荷重に耐えきれず、あっけなく折れた。
白狐の耳が、垂直に立つ。
そして――視線が、ティアへ向いた。
一瞬。
銀の瞳が、まっすぐにティアを捉える。
次の瞬間、白い影は霧の中へ溶けるように消えていた。
「…………」
ティアは動かない。
索敵スキルを最大範囲まで展開する。
――反応なし。
完全に消えた。
追跡は不可能だと判断した。
静かに、息を吐いた。
「並の索敵じゃ、追えない」
想定以上の感知能力だった。
掲示板の報告は正確だったが、実際に相対すると次元が違う。
気配の変化への反応速度。
逃走判断の速さ。
霧を利用した隠蔽。
すべてが、異様なほど洗練されている。
悔しさはなかった。
ただ胸の奥で、静かな熱が灯る。
――相手が上手いだけ。
ならば、次は対応できる。
枝の踏み方。
重心の移動。
呼吸の間。
修正点は、はっきりしていた。
ティアは踵を返す。
霧の森を抜ける背中に、迷いはなかった。
ギルドホームに戻る頃には、空はすっかり夕方の色に染まっていた。
リビングにはステラとヒマワリの姿がある。
扉の音に気づき、ステラが顔を上げた。
ティアは珍しく、自分から口を開く。
「報告があります」
二人の視線が、静かに集まった。
「第四層の霧の森に、特殊な白狐がいます。複数人では近づけない。単独でも、気配を完全に消さないと即座に逃げます」
「テイムできそう?」
ステラが穏やかに問いかける。
わずかな間。
「……次は逃がしません」
断言ではない。だが、揺るがない確信がそこにあった。
ヒマワリがわずかに目を細め、ステラは小さく頷く。
それ以上、言葉は続かなかった。
ティアもまた語らず、自分の椅子へ静かに腰を下ろす。
霧の森で見た銀白色の毛並み――
その残像が、いまも瞼の裏に淡く焼き付いていた。
次は5/8 21時投稿予定
お楽しみに!




