32 大賢者の“復讐劇”
ユナの幾重にも重ねた認識阻害の魔法は、誰にも破られることはなかった。
足音も立てず、空中を泳ぐように城内を進む。
《国王は執務室か?》
王宮の奥、見張りの衛兵2人が守る、紅と金の豪奢な扉。衛兵がいるせいで、むしろここに国王がいますと言ってるようなもんだ。
ユナは空中に舞い上がると、その扉が開かれるのを待った。
認識阻害の魔法は、自分を世界に溶け込ませて見えなくする魔法だ。でも実際に自分が世界と溶けたわけじゃない。
壁や扉はすり抜けられないから、誰かが開けるのを待つしかなかった。
ユナは時を待ちながら、王宮に探知魔法をかけていく。多くの従者や下働きたちの話し声と、感情が頭に入ってくる。
《ふうん、やっぱりあんまり愛されてねえな》
特に厨房は、お貴族様が寄り付かないから言いたい放題だった。
「……聞いたかい? 魔族の娘の話。まだ見つけられてないそうじゃないか」
「聞いたよ! あんなに検閲も敷いて……お陰でうちの旦那は臨時任務から帰ってきやしない」
「今回の騒動のせいで税金が上がっただろ? 全くやってられないよ」
「本当にね! そんなことより、今年の小麦の不作をどうにかして欲しいもんだよ。毎日捏ねてるのに、あたしらは食べられやしないんだから」
「こんなに働いてるのにほとんど税金で持ってかれちゃあね! 街のパン屋は高くて入れやしないさ」
2人は、厨房で何かの生地を捏ねている。多分パンかパイだろう。
……なるほど増税と、これから来るのは飢饉か。
これはいいことを聞いたな。マジで典型的な、“お貴族様政治”をやってるらしい。
それから扉が開くのを待つ暇つぶしに、ユナは城内の噂話を聞いて過ごした。
最近は、庭で飼ってた犬のジョセフィーヌが逃げ出して、庭師が責任を追求されて暇を出されたそうだ。
でもそのジョセフィーヌ……なんで官僚の部屋にいるんだろうな?
この王宮はきな臭いことばっかり起きるらしい。
そんなことをしているうちに、扉が開いた。ガロリア国王が赤いローブを引きずって現れる。大柄な彼は、今日も真っ赤な騎士服を着ていた。
衛兵と、それから側近と思しき男を従えて、国王が廊下を進む。ユナはそのあとをピタリと着いて追いかけると、次に開いた扉に身を滑り込ませた。
入った先は、国王の寝室だったらしい。目の前に、天蓋付きの小さな部屋ほどもある巨大なベッドが鎮座している。
床には豪奢なカーペットが敷かれていた。どこもかしこも紅と金のド派手な部屋だ。
ベッドの隣のカウチに、国王が腰掛ける。
「国王陛下、お飲み物は如何なさいますか」
「いつものワインを」
「かしこまりました」
側近は折目正しくお辞儀をすると、その場を去っていく。衛兵は、扉の内側までは入ってこないようだ。
ユナは、幻覚魔法を展開した。そして同時に、氷魔法を仕込んでいく。
足元から冷気が立ち上る。じわじわと床が凍り始め、やがて氷は壁に這って進む。
——さぁ、大賢者の舞台の幕開けだ。
***
ピキピキと氷の鳴る音がし出した時、国王が慌てて立ち上がった。
「なんだ——?! おい! 衛へ——」
「その首とさよならしたくないなら、声をあげないことだな」
叫ぼうとした国王の首に、糸のような何かがかかる。彼の年老いた皮膚に細くくい込んだ。
「ゴホッ……誰だ?! どこにいる?!」
国王は手を首にかけながら周りを見回した。動いた反動で、首に食い込む糸が引きつれ、首に赤い筋を残す。
だが、視界に人の影はない。
「あんたらが探している“大賢者”のうちの1人だ、と言えばわかるか?」
それでも、声は止まらない。
国王の真後ろ、いや真横、真上か——声はすごく近くから聞こえるのに、声の主がどこにいるのか検討がつかない。
「グ……何が望みだ。金か? 土地か? 爵位か?」
本当に大賢者なのか——
だが、国王にはそれを確かめる魔法はない。
国王は息を詰めながら、必死に威厳を保とうとしていた。
「ふっ、本当にあんたらはいつまで、貴族を特権階級だと信じているんだ」
「何だと——?」
「あんたらの国は、古すぎる。今は貴族の時代じゃない」
気付けば、床に立つ国王の足は膝下まで氷に包まれていた。
「——魔術師の時代なんだよ」
次の瞬間、氷のドラゴンが現れた。向こう側が透けるほど透明な体には白い霜が降りている。
姿の見えない大賢者の代わりに、ドラゴンの青い瞳が国王を睨みつけた。
「おっと、助けを呼ぼうなんて思うな。あんたが叫んだら、首が落ちるか、ドラゴンに骨までしゃぶられるかのどっちかだ」
国王はギリ、と歯を食いしばった。
大賢者の声はなおも、朗々と告げる。
「聞いたぜ。魔族の女に逃げられたらしいじゃないか。飢饉が近いというのに、備えもせず、むしろ国民から血税を巻き上げているんだってな?」
氷のドラゴンが、国王に詰め寄っていく。ドラゴンの冷気で、彼の肌は段々と凍りついていた。
「誰の差し金だ。……北方大帝国の皇帝か?」
「勘違いしてもらっちゃ困る。俺はどこにも属してない。ただ、あんたに“復讐”しに来た」
「……何の話をしている。大賢者を害したことなどない……!」
次の瞬間、国王の前に彼が姿を現した。
黒髪の背の高い青年。身に纏うのは、ピスタチオカラーのローブに、白金の刺繍。胸元には、小鳥を模したペリドットのブローチ。
伏せられた黒いまつ毛が、ゆっくりと開かれた。
その瞳は、見たものを惑わせるような、深淵の闇。
大賢者は、圧死させるかのような殺気を纏って優雅に会釈をした。
国王を睨む氷のドラゴンが、主の元に戻る。それから大賢者は、見せつけるようにドラゴンを撫でた。
ドラゴンは甘えるようにクルル、と鳴いている。
——これは、人間に勝てる相手ではない。
国王の口が、酸素を求める魚みたいにパクパクと喘いだ。本能的な恐怖か、彼の額に脂汗が滲む。
大賢者の手が、国王の顎を掴んだ。
「あんたは、俺の恋人を拉致し、監禁し、同意のない婚姻を結んだ」
「待て、誤解だ、話せばわかる——」
顔色を無くしていく国王は、威厳などかなぐり捨てて命乞いの言葉を述べた。
逃げ出したい。それなのに足は凍りついてここから1歩も下がることはできない。
「誤解? どんな詭弁を並べるつもりだ?
ああ、そうだ。あんたが死んだあとは、俺がこの国をあるべき幸せに導いてやるよ。だから安心して——」
彼の声は、話す内容に対してあまりに飄々と軽やかに響く。
「あの世で後悔してくれ」
——国王の意識は、そこで途絶えた。




