第二十六話 家族のとき
大切な人のためにくだしたはずの判断が、周囲の人間や自分が大切に想っている人を苦しめる結果に繋がってしまうかもしれない。前回に引き続き、大人たちの自分勝手を描きました。タイトルにもなっている「家族」への想いが、誰にどんな影響を与えるのか。ぜひご覧ください!
自分の味方はもういない。私は叩き付けられたその事実を、案外すんなりと受け入れられていた。傷付くどころか、むしろこの言葉を待ちた望んでいたかのような清々しささえある。それは、自分でも分かっていたからだ。人を利用し続けたせいで生じた歪みは、いつか自分の首を絞めにやってくるということを。
「やはりあなたはそういう人ですよね。渡さん」
陣内渚が呆れた様子で、私の目の前に歩み出る。失望したような口調なのに、その目にはうっすらと水の膜が張っていた。初めの頃は弟の上司だとしか認識していなかったが、これまでにそれなりの付き合いを重ねてしまった。こんな表情をされると、さすがに悲しくなってしまう。
「俺もあなたを利用していました。こちらの頼みごとを何でもきいてくれるので、自分に出来ないことは全部任せていました。なので、あなたに利用されていたということは心底どうでも良いです」
渚は自分に言い聞かせながら首を振る。その仕草から、私に利用されていたことがどうでも良いわけではないが、一旦飲み込まないと本題に進めないため、今はそうするしかないというジレンマを感じた。私は、渚のほんの少しの表情や仕草の変化でさえ見逃さぬよう目を凝らす。
「ですが、まだ警察という職に囚われていたんですね」
薄く開いた口元から、実体のない質量が放たれた。それは私の心に重くのしかかり、胸が破裂しそうなくらいまで膨れ上がる。完全に予想外な角度からの攻撃だった。つい先ほど元部下の北条湊から、私の性格に関することで対立表明をされたため、渚も似たようなことを言うものだと思っていた。しかしまさか、私の職業について言ってくるとは。
「あなたはあの日から変わった。北条刑事は、今のあなたの行動を正義感や使命感からくるものだと考えている。しかし実際は違う。あなただって、警察という立場を使って私利私欲を満たしているだけに過ぎない」
「君だってそうじゃないかな? 渚くん。職業選択では、誰もが自分のやりたいことを優先する。なら自らが望んだ職場で働いているときは、全員が私利私欲に走っていると言えるのだと思うよ。何も、私だけがこうやって責め立てられるような事柄ではない」
反論しつつ、私は内心冷や汗をかいていた。渚の思考が読めない。いつもなら人の口調や表情を冷静に分析し、その人が考えていることも感情もある程度理解することが出来る。なのに今の渚を何度見ても、その心内が掴めない。私は初めて、彼に対して得体のしれない恐怖心を抱いていた。
だがよく考えれば、これは当然のことなのかもしれない。出会ったときから、渚は私の下手に出てくれていた。一見すると反社会的勢力の一員に見えてしまう弟の上司を、くん付けで呼べているのも彼の物腰の柔らかさが影響しているはずだ。だからこうして上から来られると、動揺していつもの能力を発揮できなくなってしまうのではないか。そう結論付けた私は、恐怖と動揺を隠すためわざとらしく笑みをつくった。
「そうですよ。俺も本音では、人の命を救える俺カッケーとか思ってますよ。きっとほとんどの人がそうです。働くことに意義や快感を求めている。俺はそう思いますし、それを悪いことだとは言いません。ですがあなたの場合には、そんな生易しいものを超えた気持ち悪さがある」
渚の放つ言葉に、明確に棘が見え始めた。話し方がいかつくきついのが常だが、言葉そのものにそれを乗せるとは。やはり今の渚はいつもとは違うと、私は先ほど出したばかりの結論を補強する。渚は完全に、こちらに優位を取ろうとしているではないか。
「自分のミスを取り返すために、本気で助けを求めている人を利用する。それって本当に、警察官がすることですか?」
「渚くん。君は何を言いたいのかな?」
いつもの癖を使えないなら、本人の口から聞くしかない。私は不本意ながら、渚の思惑に乗り下手に出た。いつもどおり私が優位を示すのは、渚の考えを理解してからでも遅くはないはずだ。
「弟が事件に巻き込まれたというのに、その犯人を自分の手で捕まえられなかった。少女の失踪事件で捜査の指揮を任されたのに、解決に導くことが出来なかった。挫折も後悔も分かりますよ。でも、それを無かったことにするために人の気持ちを踏み荒らすのは、違うと思います」
「踏み荒らす、ね」
渚ははっきりと断言した。でもそれがしっくり来ないものだから、思わず首を傾げてしまう。私には、渚の言うような他人に害を与えるつもりは一切なかった。まあ、そう言ったところで、きっと今の渚は信じてくれないだろうが。
「玲のことを何て言って説得したのかは知りませんが、あなたのことですから友加ちゃんあたりを人質にとったのでしょう? 玲の大切な人のためなら何でも出来る性格を利用して、誰かが傷付く未来を匂わせて首を縦に振らせた。そんなところですか」
「すごいね、渚くん。私の癖をよく分かっている」
「今褒められても、あまり嬉しくないですね……」
げんなりといった様子で、渚に顔を顰められてしまった。この反応は残念だが、私は渚を褒めずにはいられなかった。なんにせ渚の考察どおり、私は配流玲に対して彼の幼なじみである天王寺友加の存在を仄めかしたのだから。
二人の聴取記録を読んだとき、言葉の裏に潜まされたお互いへの想いが痛いほどに伝わってきた。玲は何度も、自分一人でやったことだと訴えていた。友加も共犯なのだろうとカマをかけられたとき、玲は取り乱して否定したらしい。何としてでも彼女を守ろうとする、そんな気概に満ちていた。
そして同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上、友加は玲を救おうとした。自分は何も知らない。何にも関わっていない。なので、玲の言葉がすべてだ。それが真実だ。彼女の供述は、その一点張りだった。それは、玲の思い描いた筋道を全人類に歩ませるためだったのかもしれない。
「でも、あの二人が分かりやすいのがいけないんだよ。お互いに想い合っていることも、守り合っていることも、バレバレだった。つけ入る隙を見せたのは、あの二人」
「いくら玲と友加ちゃんが素直だからって、そこを利用しようと思えるあなたが怖いです。そもそも、人質とって従わせようだなんて反社の考え方ですよ」
渚に軽蔑の目を向けられても、私の心は驚くほどに凪いでいた。誰のどんな言葉も響かないとは、こういう心理状態のことを言うのだろうか。渚の真剣な訴えが、遠い国の事象としか感じられない。
「反社。これまた大胆に来たね」
自分の口から同じ言葉を自分の耳に入れてみるが、これもまたびっくりするくらいに響かない。強いて言えば、警察官として取り締まる対象に例えられたことが引っかかるということくらいだ。いや、反社でさえもう少し人の話に心打たれてくれるか。
「警察官の、正義の味方のやることじゃありません。どうして警察にいながら、警察官と名乗りながら、こんな酷いことが出来るんですか? 警察という立場を利用して、同僚たちに申し訳なくないんですか?」
「渚くん、私は警察官だ」
矢継ぎ早の質問に対し、私は一つだけ答えをもっている。それをポツリと呟けば、渚はあからさまに怪訝な顔をした。私は完全に、この男から敵認定をされたらしい。
「は?」
「警察官だから、こうしているんだ。事件の捜査をして、解決をして、人々の生活を守る。たとえそれが小さな地域から始まったものでも、平和の輪が広がればいずれは国全体のものとなる。そうやって私たち警察官は、国家に平穏をもたらし秩序を維持しているんだ」
国家の犬。そう湊に揶揄された。だが、私が警察官であり続ける理由こそがこれなのだ。名前も顔も知らない誰かの、本当にどうでも良い生活を守りたい。この日本という国で生きれて良かったと、心の底から思ってもらいたい。この願いが叶うなら、私はどんな手段でも使う。どんなに非難されようとも、私は私の願いを叶え続ける。
「だいそれた願い、いえ、殊勝な心掛けですね」
「どうも、渚くん。これで分かってくれたかな?」
皮肉たっぷりに言い直されたので、私も皮肉たっぷりで渚に感謝を伝える。しかし、私はまだ渚に優位を取られたままだ。
「いえ、余計分からなくなりましたよ。国家とか範囲の広いこと言ってますけど、あなたが一番大切なのは献大ですよね。弟の生活を守ることばかりに夢中になって、狭い世界に閉じこもってしまった。そしてそれを自分でも理解しているから、そうやって嘘で塗り固めた理想の警察官、渡貢として生きている」
意味が、分からない。そう言ってやりたかったのに、私の喉からは踏み潰されたカエルのようなうめきしか出なかった。何故、何も知らないこの男にこんなことを言われなければいけないのだ。
「事件に巻き込まれ心を閉ざしてしまった弟を元気付けようと、自分はいつもどおりであろうとした。今までどおり事件を解決して平和を守る男であろうとしたのに、公安本部から追い出され生活安全課に異動になった。それでもあなたは、弟のために警察官である自分に固執した。違いますか?」
図星を突かれるとは、どういう意味の表現なのだろうか。もしかしたら、何も言い返すことの出来ないこの状況を表してくれているのかもしれない。でも、認めたくない。
献大のために、自分の気持ちに見て見ぬふりをしてきた。自分に大丈夫だと言い聞かせて、献大に安心感を与えようとした。自分より献大の用事を優先するようにしたし、献大のやりたいことが自分のやりたいことになった。そうやって、私は自分が何を考えているのか、その疑問から目を逸らした。
献大の心情を慮るようになってから、人の感情の機微に目敏くなった。誰が何を考えているのか、それを瞬時に精確に判断出来るようになった。だからそれを材料に、警察官として活躍しようとした。公安から落とされても、自分には警察官の才能があると献大に、自分自身に証明したかった。
「弟っていうのはね、かっこいいお兄ちゃんが好きなんだよ。献大の場合、私が警察官という誰の目から見てもかっこいい職業に就いていたから、私を好きでいてくれた。だからね私は、これからも献大の兄でいるために警察官であり続ける必要がある。渚くんに何を言われても、私は警察官であることをやめない」
それが本音だ。だから、渚に啖呵を切ったつもりだった。これで、この男にも理解してもらえただろうと思った。なのに渚から聞こえた言葉は、私が欲しいものではなかった。
「何ですか? それ」
目をまん丸に見開いて、首を傾げて、呆けたような声を出す。私をおちょくろうという魂胆はなく、ただ純粋に分からないことを訊いている。そんな渚の雰囲気に、今度は私が戸惑う番だった。
「何って……。今言っただろ。私は弟のために警察官で」
「いや。それが分からないんですよ。あなた、曲がりなりにも兄なんだから献大のこと考えてあげてください。弟のこと、バカにしてます?」
もうダメだ。分からないが過ぎる。私は理解を放棄し、渚から優位を取り戻すことさえも諦めた。私だって、渚に言われなくとも必死に考えてきた。何が弟のためなのか、弟に自分がどう写っているのか、全部全部考えてきたつもりだ。なのにどうして、この男はこんな酷なことを言ってしまえるのか。
「警察官だから弟に好かれた? だったら幼少期はどうだったんですか! まだ何者でもない兄だろうと、弟はあなたのことを好いていたはずです」
「そんなこと、どうして君が言う?」
「知っているからです。あなた、公安であることを隠すために献大に捜査一課の刑事をしていると嘘を吐いたでしょう。献大はそれを信じて、俺に自分の兄がいかに凄い人間かを自慢してきたんです。昔っから優しくて正義感があって、今は本当に正義の味方になった。そんな兄のことを、誇りに思うって」
「渚くん、嘘を吐かないでくれるかな? 私は献大に、そんなふうに言ってもらえたためしがない」
嬉しい言葉のはずなのに、渚の言葉を額面どおりに受け取れば良いはずなのに、私の頭はそれを全力で拒絶する。どうしても、信じたくなかった。あの献大が、少し不器用で人との付き合いが苦手だった弟が、誰かにこんなにも心の内を明かしていたなんて。私の知っている、弟の姿ではない。
「渡さん。献大とよく話し合ってください。きっとお互いに誤解しているんだと思います。あなたが弟にどう思われているのか、それをしっかり確かめてください。そしたら、俺が怒った理由が分かりますよ」
我が子を諭す親に似た口調で、渚は私にそう言った。それから今までになく優しい笑みを作り、現在の部下の荒牧港を振り返る。荒牧はその視線を受け、ゆっくりと立ち上がり渚の隣に並んだ。
「あなたが弟のことを大事に想っていることなんて、百も承知です。だから、あなたたち兄弟の邪魔をしようだなんて思いません。二人でじっくり、話し合ってください」
「渚くん、君は」
「あなたが献大を最優先するように、俺と港も大切な人を守りたいと願った。自分たちのやり方で、自分たちの力で、玲を守ろうとした。だから、あなたがしたことは余計なことなんですよ」
渚の忌憚のない発言に、港は申し訳なさそうに肯く。しかし、表情こそ後ろめたいものだが目に宿った私への敵意は先ほどの渚のそれと遜色ないものだった。
「俺たちは、俺たちの方法で玲を救います。なのであなたは、献大のこと救ってやってくださいね」
言外に、お互いへの不干渉を約束させられる。それが不服でないわけないが、ここで食い下がるほど私は子供ではない。それに、ようやく渚の怒りの原因を理解した。
渚と荒牧は心の底から、玲という人物を大切に想っている。それこそ、私が献大を想うのと同じくらいなのだ。私から献大への気持ちと近いということならば、渚の心情はかなり精確に読み取れる。
「渚くん、荒牧くん。ごめんね。君たちの計画、踏み荒らして」
私は弟としたいことで、いつもスケジュールを立てている。この日にこれをすれば、弟は喜んでくれる。そう確信して、弟のためにその予定を遂行する。そんなふうに、弟のために未来を見通した。
きっと、二人もそうなのだ。自分たちが警察にどんな態度を取れば良いのか、緻密に計算して玲を救う手立てを講じた。大切な上司を信じて、彼を救うためだけに自分たちの未来を賭けた。それをこんな男に妨害されたら、それはもう誰だってキレるはずだ。
「良いですよ。俺たちも、勝手にさせていただきますから」
「渡さん、情報提供ありがとうございました。あなたのあの情報のおかげで、玲先生を信じ抜く覚悟が出来ました」
爽やかな笑顔で挨拶をし、二人は会議室から出て行った。その背中を未練がましく見つめていれば、己の小ささに辟易としてくる。私は警察官として、兄として、人間として、あんなふうに覚悟を決められていただろうか。あんなふうに、人を助けようと思ったことがあっただろうか。
答えが否になる問いばかり、頭に浮かんできてしまう。私は、あの二人みたいな立派な何者かにはなれないのだろう。そういう人種なのだ。こればっかりは仕方がない。
「悲しいね、家族なのに。血が繋がっているはずなのに……」
私は、弟のために何が出来ていただろうか。献大のためだと言い訳をして、自分の理想を押し付けていただけだったではないだろうか。自分の未来が失われることを受け入れて、この身を大切な人のために捧げようとしていただろうか。
渚と荒牧は簡単に出来ていた。配流玲と職業でしか繋がりのない彼らの方が、よっぽど覚悟が強かった。私の弟への想いは、他人に対する想いに負けてしまった。例外なくすべての人間が、他人より家族の方を大事に想っていると考えてきた。でも綺麗に反論された。身に染みて納得させられた。
家族とか、他人とかそんな枠組みは必要ない。想いの大きさなんて、人によってさまざまだ。ある人への想い、その大きさは自分の心にしか左右されない。自分が相手をどう思っているのか。それだけが、それこそが、正しいことだった。
「献大のことも、渚くんたちのことも、考えられなかった」
渚が私のことを『やはりそういう人』と言ったのは、昔からそのことが分かっていたからなのかもしれない。献大の気持ちを無視してきた私が、今回自分たちの気持ちを蔑ろにした。渚に、そう思わせてしまったのかもしれない。
「失敗したなあ。いやはや、難しい難しい」
誰に見せるわけでもないのに、私はわざとらしく肩をすくめる。反省しなければならないと理解しつつ、私の中に反省の意が現れて来ないものだから、せめて外観だけは良くしたかった。
「君たちも、そう思わない?」
背中に突き刺さる視線にそろそろ耐えられなくなり、私は上げ調子で探偵たちに話を振った。探偵を名乗る朝川愛意と、それに付き従う二人の高校生。普通の警察官なら、まずこの場には呼ばないし来たとしても追い返す。それでもここに来たのなら、その覚悟はしかと受け止めるべきだ。
「どう? 朝川さん」
「何がですか?」
「家族って難しいよね。一方が頑張ったところで、結局は集団なのだから他方からの合意がなければすれ違ったまま。歩み寄ろうとしたって、歩き方を間違えれば相手の隣を通り過ぎてそのことにも気付けない。家族って変な距離感してるよねってこと」
相変わらず、愛意は懐疑心に満ちた目でこちらを見ている。私が渚から享受した教えを答えても、彼女は呆れてため息を吐くだけだった。兄と姉で近い立場だと思ったが、愛意が同意してくれる気配はない。私は残念に感じながら、ならばと標的を変えた。
「天王寺外科部長さんはどうです? お子さん、あなたのこと置いて行ってしまいましたよ」
あれからまともに言葉を発していない男は、私の問いかけにも口をつぐんだ。実の娘と養子が、父親なはずの自分に何も言わずに勝手に消えた。後悔と憎悪に似た醜い感情に、じっと堪えているのかもしれない。
「そうだな。君と同じだ」
重い腰を上げ、天王寺友仁はゆっくりと立ち上がる。それから私に憐れみの一瞥をくれ、背中を向けた。
「不得意だ、こんなこと」
友仁はそれだけ言い残して、会議室を後にした。心底悔しそうに放たれた言葉の余韻が、私の胸に染み渡る。その一言が欲しかった。やっと、私の思いどおりになった。自分自身のあり方を取り戻せたことで、私はようやく満たされた。
「何ですか? その満たされた顔は」
鼻歌でも歌いたくなるような清々しい気分だった私は、背後から聞こえたひどく憎々しげな声に振り返る。その声の主は、美しく整ったその顔を怒りと憎しみで醜く歪めていた。
「怖いよ、その顔」
私が笑って注意すれば、貝塚璃王は余計に顔付きを険しくして私を睨んだ。大人気アイドルが人前でしてはいけない、恐ろしくて誰にも見せられないほどに酷い顔だ。
「あなたっていう人は! 分かってますか? 陣内先生のことも荒牧先生のことも利用して苦しめて、それなのに自分だけは満足するなんて。そんなの……」
「ズルイ?」
元来の優しさからなのか、璃王は決定的な部分を言い淀んでしまう。だから私がそこを代弁してやれば、璃王は悔しそうに目元を歪め静かに憤怒した。
「……そうですよ。あなたしか得してない」
「たしかにそうかもね。でも、何が私にとっての得か君は分かってる? 私の目的が何なのか、そこを言わないと」
「貝塚さんを挑発しても無駄ですよ」
分かりやすい璃王の反応を楽しんでいると、愛意の隣から昼凪明日斗が冷ややかな目を向けてきた。大人ぶっている子供そのものな口調なのに、明日斗の目は鋭くこちらを射抜いている。私はこういう子には敵わないことを、経験上既に察していた。
「あなたの目的は最初から、配流玲か天王寺先生に口を割らせることだった。真実を話させ、俺たちに手を引いてもらいたかったのではありませんか?」
「その心は?」
「新希が調べてくれました。五年前、寧音さんの捜索の指揮を執ったのは渡さんだった。でも彼女を見付けることが出来ずに時間だけが過ぎ、捜索は打ち止めになった。陣内先生も言っていましたが、あなたはそれをミスだと考え取り返そうとした。自分の人生の黒歴史を、なかったことにしたかった」
黒歴史。その言われ方は嫌だったが、なかったことにしたい恥ずかしい出来事、という意味ではそうなのかもしれない。私にとっても、あの事件はすぐにでも解決しなければならないものなのだ。
「配流玲が真相を話したことで、刑事さんたちが裏取りを始める。そうやって真相が明かされ、この事件は幕を閉じる。全部、あなたの筋書きどおりではありませんか?」
夜野海新希が、こちらを窺うように口を開く。彼は親友たちと違いそこまでの自信家ではないらしいが、度胸と気概は人一倍あるようだ。私を睨むその目付きが、他の誰よりも鋭く険しい。
「さすがだね。正解だよ、新希くん」
大袈裟に何度も手を叩き、私は少年を褒め称える。私は基本的に探偵を名乗る素人を信用していないが、この子たちは今まで出会った中でも最高位にいる気がした。事件解決への主体性も目の付け所の良さもあり、更には肝が据わっている。探偵として優秀な人たちなのだと、私は身をもって知った。
「でも、それが分かったところでどうしようもないよ。君たちの言うとおり、私の思いどおりにことが進んだ。君たちの出る幕は、もうない」
「そんなの、あなたが決めることではない! 私たちだって探偵として、事件を解決したい。私だって、この手で真相を掴みたい!」
「でもね、朝川さん。もう君に出来ることはないよ。真相は明かされた。安倍くんと湊くんがその裏取りをする。もうね、君たちの思いどおりになる可能性は消滅したんだよ」
悲しいことだが、これが現実だ。きっと愛意は、妹の事件を解決することが姉の責務だとでも思っていたのだろう。でもそれは、もう叶わぬ願いとなった。本職である刑事たちの前で、探偵など手も足も出ない。ただ捜査の成り行きを見守るだけとなる。
「それでも、私は諦めたくない。諦められない……」
愛意のしなやかな指が、きつく握り拳をつくる。わなわなとそれを震わせる愛意は、悔しさと無力さに耐え抜こうとしているように見えた。そんな彼女の姉としての自尊心に、何故か私の胸がざわつき始めた。
「この五年間、ずっと寧音のことを考えてきた。お姉ちゃん頑張るよって、毎日変わらない笑顔の寧音に誓った。私の人生全部捧げる覚悟で、この事件を解決することだけに集中した。どんな手を使ってでも必ず真相を掴もうと、誰かを利用して傷付けたときもあった。それくらい、私がこの事件を解決するべきだと思ってた。だから、こんな中途半端なところで終われない。私は最後までやる。妹のために、私が!」
愛意が必死に絞り出したその思いに、私はようやく渚の伝えたかったことを理解した。それと同時に漠然とした愛意への同族嫌悪が芽生え、そんな自分に辟易としてしまう。仕方ない。私は、自分勝手に生きているのだから。
「妹のためとか言ってますけど、どうやら朝川さんも私と同じタイプみたいですね。どの口が、とか言われるかもしれませんけど、本当に自分勝手の自己満足だ」
「陣内先生からの受け売りを速攻でするんですね」
「ええ、まあ。今のあなたの言い方だと、妹のためになることが一番で、その手段として探偵を選んだ。最初は本当に寧音さんのことを考えていたんでしょうけど、今のあなたは事件の解決に囚われて現実が見えていない」
はっきりと愛意に言い切ってみたが、これは言葉が変わっただけで渚のとまったく同じだ。こうやって鏡となる誰かがいると、自分の愚かさがよく分かる。やはり、弟妹をもつと似たような人格が形成されてしまうのだろうか。
「手段が目的に取って代わってしまった。私が言えたことではありませんが、事件ではなく妹さんのことを見たらどうですか? ここにいるのでしょう?」
玲の供述で由命界総合病院を捜索し、安倍と湊が寧音を保護したということは部下から報告を受けた。ということは、愛意は一番大切な妹の所在を知りながら、妹とは違うものに目を向けている。渚はきっと、これと同じ私の状況を批判したかったのだろう。
「妹さんの傍にいてください。私みたいに、他人に言われなければ過ちに気付けない無能へと成り下がる前に……」
最後の方は自分が愚か過ぎて、愛意の顔を見られなかった。笑ってしまう。今更良い人ぶって、先輩風吹かせて。自分でも何がしたいのか、何を伝えたいのか、何を彼女に望んでいるのか考えても分からない。言葉に出来ない。
だが、気付いてしまった。渚の訴えで、気付かされてしまった。自分一人で走っていてはダメなのだ。本当に大切な人のためになりたいなら、その人の隣で望みを頷きながら聞いてやるだけで良いんだ。その人の喜ぶ顔が見たいのに、自分の理想ばかり押し付けていたらただのバカにしかなれないんだ。
「すみません、偉そうに。失礼します」
私は、愛意の目から逃げた。会議室を出て階段を降り、エントランスホールに出る。それでも、私の頭の中から愛意の目が離れてはくれない。怒りと疑念と戸惑いと、それから憎しみが混じり合ったあの目が、脳に焼き付いてしまっている。
自業自得だ。五年前に、私が朝川寧音を見付けていれば良かった。諦めずに上に逆らって捜索を続ければ良かった。彼女たち家族に禍根を残してしまったのに、その恨みを晴らす機会まで奪ってしまった。私が自分の失態を水に流そうとしたために、愛意は妹の復讐を出来なくなった。それなのに、その行動を非難された直後に偉ぶって説教をたれた。反省の色を示さずに、さも自分が正しいかのように振る舞った。
私が悪い。全面的に、全体的に、絶対的に私が悪い。でも、それでも。
「どうすれば良かったんだよ……」
私は基本的に、自分の欲求に正直だ。これをしたい、あれが欲しい、そう思えば必ず叶えてきた。それが自分勝手だと周りに言われても、聞く耳を持たなかった。自分の人生なのにどうして、他人に遠慮して幸せを手放さなければならないのかと。そう思い、そういう生き方しかしてこなかった。
その結果がこれだ。後悔しても取り返しの付かないことだなんて、百も承知だ。だけど、どうすれば良かったのかを教えて欲しい。生き方を変えるなんて、そんなことは不可能だ。こんなクソみたいな考えで、四十二年間生きてきてしまったのだから。
もしかしたら、どこかで引き返せたのかもしれない。もしかしたら、そのチャンスをさっき渚がくれたのかもしれない。いろいろな考えが巡るが、結局無理なのだ。私はあまりにも人を傷付け過ぎた。今更後悔しても、償いきれないことをした。家族も他人もその境すらも越えて、各方面に不幸の種を蒔いて放置した。それを今自覚して、何になると言うのだ。謝って無かったことにしてもらえる範疇には、もう収まれていない。
自業自得。そう分かっているのに、私は頭を抱えてしまう。広いエントランスの真ん中で、突っ立って考え込んでしまう。そんな私の耳に、ゴムとタイルがこすれる音が響いた。
「兄さん」
続いて、聞き慣れた低い声が鼓膜を揺らす。一気に現実世界に引きずり出された私は、その声に顔を上げた。そして、自分とは似ても似つかない男の顔を視界に入れた。
「戻ろう」
車イスに乗った男が、私の弟が、ゆっくりとそう言った。父親に似た私とは違う、母親譲りの柔らかな表情。優しくこちらを包み込んでくれそうな、暖かい雰囲気。それを持ち合わせているのに、彼の目に感情は宿らない。
「献大、どうしてここに……?」
「定期検診だった。それが終わって帰ろうと思ったら、陣内さんと会った。それで兄さんがここにいるって聞いて、気になった。それだけ」
「そっか」
相変わらず、弟ではなくロボットと話しているようだ。温度というか、情緒というか、人間が持つべきものをすべて削ぎ落としたような話し方をする。それでも、話せるのだから。献大には献大の心があるのだから、向き合わなければならなかった。自分が逃げたことを、献大を理由に正当化してはいけない。
「これから本部に帰るんだけど、ついでに送って行こうか?」
「そのつもりだった。だから、戻ろう」
拒否されると思っていたが、案外献大はすんなりと肯いてくれた。私の思い上がりでないなら、私は献大から嫌われきってはいない。それなら、渚の言うとおりに献大と向き合うことが出来るはずだ。いや、私が弟と向き合いたい。弟を傷付けて終わる兄でいたくはない。
「ねぇ、なんで戻ろうって言うの?」
弟の車イスを押しながら、私は興味本位で訊ねてみた。献大はいつも『帰る』とは言わない。その代わりに『戻る』と言う。どちらも同じ意味なので普段の会話でそこまで引っかかりはしないが、何か献大なりのこだわりがあるのかと興味が出てくる。
「私の気のせいかな? よく使ってる気がするけど」
「そう。ねえ、兄さんは過去と未来、どっちに行きたい?」
「急にどうしたの? そんなこと訊いて」
会話で急ハンドルを切られ、質問者の立場を取って代わられた。だがそんなことを言っていられないくらい、献大の顔は真剣そのものだった。私は、グリップを握る手に力を込める。
「俺の勝手な解釈だが、『帰る』には昔居た場所に行ってそこから新しい未来が始まる、そんな意味があると思う。だけど『戻る』には未来がない。自分の心も身体も状況も、全部過去と同じものに置き換わる。俺は、過去に行きたい」
献大の平坦な声音に、私の背筋が凍った。この抑揚のない声にどれほどの感情が渦巻いているのか、私には察することが出来る。献大の現況への憎悪を、本人よりも深く知っている可能性だってある。
「だから、戻ろうって言う。全部、無かったことに出来れば良いと思う」
やっぱり、そう口が動いた。でも声には出なかった。私が口にして良い言葉ではないから。だけど、どうしても、弟にそう思わせてしまったことが悔しくて仕方ない。
「そうすれば、兄さんとも昔みたいな関係に戻れる」
「へ?」
間抜けな声が、今度は意識せずに漏れ出た。献大は、弟は、今何と言ってくれた。
「兄さんと他人行儀ではなく、昔みたいに仲良く出来る。俺はそうしたい」
口が震える。言いたい言葉が、言うべき言葉が、浮かび過ぎて脳の処理が追い付かない。待って欲しい。もう少しだけ、待って欲しい。あと少しで私はこの状況を処理しきれるから。
「兄さん、俺は伝えた。陣内さんにちゃんと兄弟で話し合えと言われて、伝えられていなかったことに気が付いた。だから今、俺は自分の気持ちを伝えた。兄さんも気が向いたら、教えて欲しい。どう思っているのかを」
私は、あの事件以来献大が心を閉ざしてしまったのだと思っていた。でもそうではなく、私が献大の心に耳を傾けてやれなかっただけだった。そうだ。献大には心がある。そのことを忘れて献大の気持ちを知ろうともせず、勝手に一人で頑張っているふりをした。そのせいで、自分から望むゴールとは正反対に突っ走っていた。
「献大、ごめん。こんな兄貴でごめん」
本当に愚かだ。誰の気持ちにも意識を向けず、自分の世界が唯一解だと盲信していた。一番大切なものを大切に出来ずに、偉ぶって人を見下し利用した。大切なことに気付くチャンスを、全部自分から棒に振った。
「ごめんなぁ」
こんなにも愚かで惨めな兄は、この世界で私一人だけだろう。それなのに、献大は私の弟として産まれてしまった。こんな私を兄と呼び、兄でいさせてくれた。私はその恩を返せない人間だというのに、献大は私の弟でいてくれた。嬉しい、ありがたい。だけど、気付くには遅過ぎた。
返せない恩だけが、少しずつ溜まっていく。積み重なってそれなりの質量と存在感を持った瞬間、私をその重みで押し潰す。もうどうしようもないのだと、私の脳は悟ってしまった。
私は弟の背後で泣いた。弟に泣き顔を振り返られないよう、しゃくり上げる声も響かせなかった。私に泣く資格はない。私が招いた事態に、私自身が苦しくなっているだけなのだから。だから、あまり待たせないようにはするから、今だけは泣かせて欲しい。涙が出なくなって私の思いを言語化出来たら、すぐに献大に伝える。
だから、今だけは泣かせて欲しい。もう戻れないことも赦して欲しい。自分勝手な兄を赦して欲しい。ごめん、ごめん、そう何度も繰り返す。
ごめん、献大。お前ばかり苦しめて。私はずっと思い描いた人生を歩んで。本当にごめん。お前の『戻る』という願いを、私は叶えてやれない。私だって、その願いを叶えたいのに。
愚かな兄には、もう泣くことしか出来なかった。
ーーーーー
「珍しいですね。藤條さんがそんなものを読むなんて」
秘書の天羽ゆりが背後に立ち、僕の読んでいる雑誌を覗き込む。そこに書かれている記事を読んだのか、天羽は分かりやすく顔をしかめた。
「めちゃくちゃですね。藤條さんの苦労も知らずに」
「まあ、所詮はゴシップ。ある程度は割り切らないと、この立場は務まらないよ」
割り切らなければと思いながらも、僕は苛立ちを隠せず雑誌をゴミ箱へ放り投げた。勢い良くゴミ箱に納まった雑誌には、さまざまな低俗なニュースが書かれている。芸能界から政治、事件など見境もなく今ホットな話題が文字を連ねる。それが、ゴシップ誌だ。
「それにアイドルだって人間なのに……。これじゃあ、プライベートも何もないじゃないですか!」
「そういえば君、貝塚璃王のファンだったね。やっぱり、推しがこういう形で撮られるの嫌?」
「当たり前です! 璃王さんが何をしていようが、それは璃王さんの自由ですから。私たちファンは、アイドルのプライベートを貪る化け物にはなってはいけないんです」
子供のように憤慨し、天羽は至極まっとうなことを言う。ファンとしての天羽の矜持はもっともだし、これが一番正しい反応である。しかし、僕がこの記事に憤っているのは天羽のような優しさからではない。
「留置所に面会に行くことの、何が悪いんですか? 知り合いに犯罪者がいるかもってだけで、璃王さんが悪人だとは決まっていないんですよ」
「ごめんね。一応、各出版社には父の名前で圧力をかけといたけど、足りなかったみたい」
足りなかった。自分が正しくないと分かっている人間ほど、制御不能なものはない。僕自身もそうだが、自分は正しい側の人間ではないからとつい自分に甘くなってしまう。だから、分かりやすい力を行使しなければならないというのに。
「藤條さんのせいではありませんよ。藤條さんは巻き込まれただけ。たまたま、立場的に責任を問われなければいけなくなっただけ。あまり自分を責めないでください」
「天羽。そうだよね、ありがとう」
何も知らない天羽のありがたいお言葉をちょうだいし、僕は彼女の隣を通り抜ける。窓ガラスの手前に立ち、だだっ広い街を見下ろした。この街の住民に、僕の罪を知る者はいない。今までもこれからも、そのはずなのだ。
「僕は何も関係ない」
僕は、自分が犯した罪を知られることが怖い。僕の大切な家族に迷惑をかけてしまうから。だから、その未来を防ぐために僕はありとあらゆる可能性を潰そうとした。
貝塚璃王が朝川寧音の件に関して投稿をしたとき、僕はついに真実が明るみに出るのだと予感し身を震わせた。あの投稿で世間の注目が集まり、貝塚璃王や由命界総合病院の医師が記者にマークされることは簡単に予想がついた。だから、玲の関係者に週刊誌が接触しないよう圧をかけたはずだったのだが。
貝塚璃王は玲の面会に行ったところを撮られ、実験病棟の陣内と荒牧はインタビューと称して突撃された。そのせいでこうして、雑誌に玲の関係者が揃って名を載せることになった。非常に、まずい事態だ。
勘の良い記者なら、もしかしたら僕が玲と密接な関係をもっていることに気が付くかもしれない。もしそこに気付かれたら、ドミノが倒れるように一息で真相まで辿り着かれてしまう。そうなったら、僕は、玲は。ダメだ。このままでは、僕の願いは叶ってはくれない。
「僕は、どうすれば良い?」
「藤條さん? どうし……」
「瑠伊。いるか?」
天羽の声を遮り、低く威圧感のある男声が空気を震わせる。僕は、今一番望んでいなかった男の登場に歯を食いしばった。どうして、こんな最悪なタイミングで現れるのだろう。僕は拒絶感を押しとどめ、にこりと微笑んだ。
「お父様。どうしてここに?」
「急にすまない。君に話があってな」
「何でしょう?」
だいたいの予想はついているのに、僕は白々しく会話のキャッチボールをする。ノックも挨拶もせずに僕の執務室に入った藤條勝磨は、部屋を見渡し天羽に目を留めた。
「君、すまないが席を外してくれないか? 二人きりで話がしたい」
「は、はい! すみません。失礼します」
厚生労働大臣である勝磨の言葉に、一職員である天羽は絶対に逆らえない。天羽は居心地が悪そうに、僕と目も合わせずそそくさと出て行ってしまった。僕は父と二人きりになったこの状況に、震える拳をきつく握り締めた。
「例の雑誌を読んだ。君の弟とその周りの人間のことが、事細かに書いてあったではないか。このままでは、君の存在や真実が明らかになるのは時間の問題だ」
「承知しています。しかし、もうどうすることも出来ません。あの記事の最後のページ、お読みになられました?」
「ああ。君の弟は幼なじみとともに逃走している。二人の行方が分からなくなってから、もうすぐで三日が経つ。だが、これのどこが悪い?」
どうしてそこまで読んで、僕のこの焦りの理由が分からないのだ。そう感情まかせに叫んでしまいたかったが、僅かに僕に残っている理性がそれを制した。僕は、父にわけを説明するため弟の性格を思い起こす。
「玲は、一度決めたら止まらない子です。玲が私の代わりに朝川寧音の件で自首したのも、きっと彼なりに考えて最善の選択だと思ったからです」
あの日のディナーで、僕は弟に酷いことを言った。半ば八つ当たりなそれを、弟はまっすぐにそのまま受け取ってくれた。それが、玲の判断を狂わせた。僕がこの事件の真相を認める日が来ないことを、玲は悟ってしまったのだと思う。
「玲は、自分の決断を後悔しない人です。後悔しないようにがむしゃらに努力をしますし、周りから過ちだと言われても自分の過去を否定しません。それくらい、自分に責任をもてる人です。そんな彼が逃走という、自首を無駄にする行いをしました。おそらく、彼の気が変わった。それも私にとって最悪な方にです」
あの日のことを踏まえると、玲が僕の代わりにこの事件を終わらせようとしたのだとすぐに分かる。だから、玲がその判断を無に返したということは、この事件がまだ続くことと真のエンディングに向かっているということを意味している。
それはどちらも僕にとってリスクしかない。いつ犯罪がバレてもおかしくない状況に、変わりつつある。そしてそれを巻き起こしたのは、他でもない僕の弟なのだ。最初は弟を苦しめたくなくて下した決断だったのに、だんだんと弟の首を絞め最後にはその弟に反逆されている。僕はどれだけ哀れな男なのだろう。
「そうか。君の焦りは理解した。しかし、そう心配するな。いざ君が捕まったとしても無罪になるよう働きかけてやるからな。絶対に父さんが守ってやる」
「お父様。それは、弁護士や裁判官に権力を用いて圧をかけるということですか?」
「そうだ。私には、君たち厚労省職員を助ける義務があるからね」
僕を落ち着かせるための虚勢ではない。勝磨は全身から余裕を漂わせ、いつものうさん臭い笑顔になる。僕はこの男から、自分が正しくないと認識することの必要性を学んでしまった。そう、藤條勝磨という男は、自分の大事なものを守るためなら何だってする。何だって使う。
「みな大臣となった私を信じてここまで付いて来てくれた。その恩を返すためには、彼らが逆境に立たされたときに救ってやれば良い。私は全職員に支えられてきたのだから、今度は私が支える。そしてその中には、瑠伊、君ももちろん含まれているんだ」
調子の良いことだと、笑い飛ばせてしまえばどれほど楽だろうか。そうしたいのにそうは出来ないほど、勝磨の言うことは本心なのだ。勝磨は本気で、厚生労働大臣になってから職員への感謝を忘れていない。忘れていないし、産みの親のように慕っているからこそ、どんな手段を使ってでも助けようとする。それが間違った手段だと自覚していても、勝磨は助け続けるのだ。
「お父様、お言葉ですが」
「なんだ? 血の繋がりがないから、助けなくて良いとでも言うのか? そんなこと気にするな。逆に、こんな赤の他人を父と慕ってくれたことへの感謝しかないのだから」
勝磨はいつも、僕に父の顔をしてくれる。勝磨の妻も同様だ。僕の両親は配流藍と配流梨羽だというのに、何度でも家族だと、自分が親だと言ってくる。でもそれを嫌がりつつも受け入れてしまうのは、二人がまだ僕を配流瑠伊だった男として扱ってくれるからだ。
「お父様とお母様は、特別養子縁組をしたというのに毎年両親の命日にお墓参りに行かせてくれて、完全に僕と家族を切り離さないでくださりましたから」
「当たり前のことだ。まだ幼い兄弟を引き離したというのに、家族そのものを無かったことには出来ないからな。君は戸籍も名前も藤條だが、心は配流だろう」
ああ、バレているのだな。僕が何を一番に望んでいるのか、何を一番に欲しているのか、それらすべてをこの男は寸分の狂いなく把握している。それなのに僕を息子と呼び続けるとは、あまりにもエゴが強い。
「最後に、訊いても良いですか?」
僕はずっと心に閉まっていた疑問を、今なら口に出来ると思った。僕の心の底まで覗いている今なら、勝磨も心の底を覗かせてくれるのではないかと期待した。
「何かな?」
勝磨はいつもどおり、柔らかく微笑んでいる。勝磨はいつもこの顔だ。嫌な顔をせず人の話に耳を傾け、いつも邪悪な顔ひとつせず悪行に手を染める。良くも悪くも、この人の考えていることは分からない。
「何故あなたは、そんなにも厚生労働省という組織を守ろうとするのですか?」
本心は教えてもらえないと知りながら、僕はずっと気になっていたことを訊ねた。僕が玲の兄であることに執着するように、勝磨も何かに執着しているように感じる。そして、その執着の先が厚生労働省なのだと肌で感じた。勝磨は厚生労働大臣の自分ではなく、今ある厚生労働省を大切にしている。そんな気がしてならない。
「瑠伊、私が守りたいのはね、この国の健康なんだ。健康と言えば身体的なものだと思うかもしれないが、私は『病は気から』こそが真実だと思っている。心が、人間のすべての根源であると」
勝磨は僕の隣に立ち、窓から街を見下ろす。そこに行き交う人たちを我が子のように見つめ、それから愛おしそうに頬を緩める。
「だから国民の心に、余計な負荷は与えない。国の機関である厚生労働省の職員が何かしらの事件に関わっていると知られれば、国民の中で医療そのものに不信感を抱く者が現れるかもしれない。もしそうなったら、医療機関に足を運ぶことをためらうようになるかもしれない。心に芽生えた不信感や疑念が、そうさせるのかもしれない」
勝磨の話は、全部が『かもしれない』であり勝磨の主観だ。だけど僕は、この話を全面否定する気にはなれない。心がすべてというのは、きっと正解だから。人間は誰しも、論理的思考よりも感情を優先すると思う。
「私はね、医療は永遠の純白であり続けなければならないと思う。全人類に平等に施される、無償の愛であるべきなんだ。その実現のため、厚生労働省という組織を潔白で染め上げる。それが、私の使命だと思っている」
本心は聞けないと覚悟していたが、勝磨のこれは本音だ。僕は、由命界総合病院を世界で一番最初に『白き要塞』と評した人間が、藤條勝磨だということを知っている。勝磨はずっと、ブレていない。
「だから守る。私が束ねるこの組織も、医療に関わるすべての人も」
僕の仕事は、医療従事者が事件に巻き込まれたり事件を起こしたりしたら、その詳細を警察から聞き勝磨に報告することだ。そうすれば、勝磨は被害者となった医療従事者に必要以上の補償をするし、加害者となった医療従事者には量刑が軽くなるように手助けをする。そうやって、医療という業界を回す。
僕が勝磨のこの仕事を手伝ってきたのは、父のやり方に賛同したからではない。父のご機嫌取りのためだ。大好きな弟が医者になったと知って、弟に何かが起きたときに彼を助けてもらおうと思ったからだ。すべては弟のため。弟が、幸せに生きられるようにするため。
それが幼い頃に離れ離れになった家族への、最大限の愛の示し方だと思ったからだ。僕は弟に普通の人生を送って欲しかった。なのに、僕のせいで。こんな僕のために。
「瑠伊、君に指令をくだす」
後悔の海で溺れていた僕に、勝磨は酷く冷たい目を向ける。その目は僕を一瞥し、すぐにまた街を見た。
「配流玲を見つけ出し連れて来い」
「玲くんを、ですか?」
「ああ。君の弟も医療従事者、私の救う対象だ。今は逃走しているらしいが、おそらくすぐに見付かるだろう。日本の警察は優秀だ」
勝磨は淡々と、話を進めていく。僕は理解が追い付かない脳に、何とか勝磨の紡ぐ文字を刻み付ける。
「だから彼が裁判にかけられる前に、彼と話し偽りのストーリーを作りあげたい。彼の刑が軽くなり、君の関与が疑われない完璧な理想のストーリーを」
「お父様は、僕の弟も僕自身も、助けてくれるのですか?」
「もちろんだ。それが私の使命だと、今話しただろう。君の弟というなら、配流玲も私の息子。私は家族を救う」
間違ったやり方だ。だが、勝磨に任せるしか僕たち兄弟が救われる道はない。僕はそれを、骨の髄まで分からされている。弟を救いたい。僕が地獄に突き落としてしまった弟を、何とかして救ってやりたい。
「お願いします、お父様。弟を、玲を、僕のたった一人の家族を助けてください」
間違っていると知りながら、僕は勝磨に懇願する。今更正しいことなんて出来ない。だって僕はもう既に、正しくない側に立ってしまっているのだから。
「ああ、任してくれ。父さんが、息子をちゃんと救ってやる」
勝磨のその宣言の、何と頼もしいことか。僕は父に感謝し、そして誓った。必ず弟を見付け出す。そして、救ってやるんだ。僕たち父子のやり方で。
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